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ちょっと知的な雑学&トリビア

臨界ゆらぎ

2005年3月16日 【コラム
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 奇跡の年から100年になる。1905年、アインシュタインはその後に大きな影響を与える3本の論文を発表した。ひとつは特殊相対性理論。ひとつは光が粒子の性質を持つとする光電効果についての理論。彼はこの研究でノーベル賞を受賞した。そして最後の一本はブラウン運動の理論。粒子の動きについて述べたもので、「ゆらぎ」研究の嚆矢といえる。
 水が氷になるように、物質が急激に変化する現象を相転移現象という。水から氷は不連続な変化だけれど、豆腐のように、流体のゾルから固体のゲルに相転移するときは、エネルギーの出入りがない、連続した転移になる。このとき、相転移点付近では、分子レベルのミクロなスケールから目に見えるマクロなスケールまで、似たような現象が起こっているという。豆腐の場合、分子レベルでランダムな結合が起こっているのだけれど、実際の豆腐にも、それを反映したランダムな凹凸を見つけることができる。
 これはつまり、ミクロなゆらぎの結果がマクロなスケールまで連鎖的につながっているということだ。この臨界ゆらぎは、いろいろなところに見られる。人間の心拍数も、そのひとつ。おおむね0.5から1.1秒程度でゆらいでいる。心拍だけではなく、脳波やニューロンの発火間隔、歩行間隔に至るまで、生体はいろいろゆらいでいるらしい。
 生理学的にはホメオスタシスといって、生体は恒常性を保つしくみがあるという考え方が定番だった。正常範囲からずれると負のフィードバックによって調節されるとするわけで、体温なら何度、心拍数なら何回と、正常範囲が決まっていることが前提になる。
 でも、正常範囲なんてどうして決まるのだろう。これは説明するのが難しい。むしろ生体は環境の中でゆらぎつつ適応してきたっていう方が、納得できるかもしれない。正常範囲を書き換えるなんて大作業じゃなく、ゆらぎつつ適応する。人はそうして自然と会話しつつ生きているんだって考えると、少し、気分が大きくなる。

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6 comments to...
“臨界ゆらぎ”
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小橋昭彦

山本義春教授」のサイトに生体ゆらぎについての有益な解説があります。心拍ゆらぎについては「カオス複雑系事業部」もご参考に。

臨界ゆらぎについては、「高安秀樹」教授が、経済物理学という視点からもアプローチされています。その著書『経済・情報・生命の臨界ゆらぎ』もどうぞ。

アインシュタイン奇跡の年から100年、今年は「国際物理年」あるいは「アインシュタインの年」です。この奇跡だけでも、一本のコラムを書けた気もする。惜しいことをしたかな。

なお、関連するコラムとして、「スケールフリー [2004.11.04]」及びそこからリンクしている過去コラム並びに「割れる [2003.10.13]」などがあります。もちろん「北京の蝶 [2003.11.13]」や「ポロックのフラクタル [2003.03.20]」も関連分野ですね。いや実に広い。


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ゆき

小橋様
今日の雑学いつも楽しみにしています。
(購読は小橋さんが発刊当初のころより
愛読しています。)
ゆらぎつつ適応する。
いい言葉ですね。

失敗しつつ成功するにつながるようで
心が和んできました。

いつも楽しみにしていますので
いつまでもメルマガの発刊をお願いします。
以 上


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内弁慶

小橋さま

毎度、知恵の配信くださり有難うございます。
今回の「ゆらぎ」納得です。
最近、感じていたことは「健康」に関する概念です。
ややもすると、健康とは確固とした動かない軸があるように思ってしまいます。自分では健康的なライフスタイルを心がけているのに、ある時、風邪を引いてしまうことがあります。そんな時、何故だろうと考えると「健康」とは病気、自信過剰と不安の間をゆらいでいる状態のように感じます。病気もゆらぎつつ適応すると考えれば、抵抗することなく受け入れたり、ときには戦ったりできるように思います。どうやら、私たちは「あれか此れか」「勝ち組みか負け組みか」などの見方がお得意であるようで、これは教育の課題かと思ったりします。みなさまは如何でしょうか。


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小橋昭彦

内弁慶さん、ありがとうございます。

ぼくもまた、

>「あれか此れか」「勝ち組みか負け組みか」などの見方がお得意であるようで、
>これは教育の課題かと思ったりします

これは気になっています。もう少し、ゆらぎという感覚を持てば、ゆきさんもおっしゃっていただけているように、心が和みもするように思います。

ただ、たぶん、合理性を求めてきたこれまでの価値観と、なかなか相容れない部分があるのかと考えています。ぼく自身は、ふだん、そこから脱し、ゆらぐためにコラムを書いているといえます。


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猪花栄治

小橋昭彦 様

 ある種のバランス、というものに注目しています。
 生体のバランスを崩した時に、体調を崩す。
 骨格系、機械的に一番大きなバランスは目を瞑って片足でバランスを取ること。目を瞑って、まっすぐ歩いているつもりが、曲がったり斜めに進んでいる。第三者の協力が必要ですが。
 右脳と左脳のバランスの大事と言うか、現在人はここのバランスを一番崩していて、それによる弊害も多いと思ってます。左脳偏重というか、理屈で物事を考えることも多く、メディアにも頼りすぎていてイメージを膨らます暇がないという感じですね。このサイトのメディアのひとつなのですが。まあ、気分をゆったり持ち、イメージを膨らますことも大事にしましょう。


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小橋昭彦

猪花さん、確かに。

ぼくも情報を出しているときはメディアのひとつなので、できるだけメッセージ性を持たせず、左脳偏重を避けたいと思っていますが、なかなか難しいですね。




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 観光について調べている中で、<身(み)分け・言(こと)分け>理論を目にして、20年ほど前のことを懐かしく思い出していた。丸山圭三郎氏の著書をむさぼるように読んだのがちょうどその頃。 身分けというのは、動物一般が持つ外界のカテゴリー化のことで、世界を分節すると同時に自身も分節する。腐った肉を前にした犬は、それを「食べられないもの」として境界線を引くと同時に、自らを、食べられないという視点で境界を引く身(み)として世界と切り分けている。 一方の言分けは、人間だけが持つ、ものごとをシンボル化する能力だ。人間は、腐った肉を本能だけで身分けられず、「腐っている」という概念に頼って言分ける。この能力は、人間に環境を操作するという過剰性を与えた。「腐った肉」とシンボル化できるから、「腐らさない」発想が生まれ、人工的手法でそれを達成しようとする。 身分け・言分け構造は、二重構造ではない。コトバを持たない人間があり得ないように、身分けだけの人間はあり得ない。本能だけで生きていた時代に戻ることはできない。ぼくたちは身分けつつ言分け、言分けつつ身分ける存在となっている。 それで冒頭の観光論だけれど、風景について考察したその文章は、身分け・言分けを記憶の種類として扱い、それに基づく「まなざし」が、視覚によって知覚した情報に意味を付加し、風景を生むと論じていた。身分け・言分けがまなざしを生むのは確かだけれど、まなざしは決して入力情報を処理する客観的な何かではない。むしろ、風景を見出すその動きこそ、身分けつつ言分ける生命のはたらきそのものであり、ぼくらはそうしてまなざしつつまなざしとなっている。 ザツガク性もまた、ネタとしての客体の中にではなく、身分けつつ言分けようとする、その場に芽生える。そういう意味で、ぼくたち自身こそザツガクなのだけれど。

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 インドネシア・フローレス島で発掘され、ホモ・フロレシエンシスと名づけられた小さな原人が、人類進化の定説を覆そうとしている。少なくとも1万3000年前まで生存しており、ホモ・サピエンスはおよそ2万5000年前から唯一の人類として生き残ってきたという定説が書き換えられることになる。 加えて、約1メートルというその身長。島嶼化といって、小さな島ではウサギより大きな哺乳類が小型化する傾向は知られている。食料が限られているから、捕食動物がいなければ、小さい方が生き残りに有利なのだ。一方でウサギより小さな動物は大きくなる。エネルギー効率がいいのだ。しかしこれまで、人類に島嶼化をあてはめた例はなかった。文化によって淘汰圧を乗り越えるとされてきたのだ。ホモ・フロレシエンシスは、人類もまた、他の動物と同じ進化の道をたどる可能性を示している。 そして、脳。ごく初期のヒトと同じくらいの大きさしかないのに、一緒に見つかっている石器類は高度な技術に支えられている。独創性に関する部分は大柄な原人より発達していたようだけれど、脳が大きくなったことで能力も高まったという人類進化の通説もまた、揺らいでいる。 もっとも印象的だったのは、フローレス島に伝わるエブ・ゴゴ伝説との類似だった。この島には、直立歩行をする小さな動物がいたと語り伝えられている。歩き方は上手じゃなく、食欲旺盛でつぶやくように話す。「なんでも食べるおばあさん」という意味をこめてエブ・ゴゴと呼ばれた。 ホモ・フロレシエンシスこそエブ・ゴゴだったのだろうか。伝説は、自分たちがエブ・ゴゴを火山洞窟に追い込んで滅ぼしたと語っているという。確かに、ホモ・フロレシエンシスは噴火がきっかけで滅亡したとも考えられている。彼らを救えなかったという心の痛みが、伝説を生んだのか。小さな原人は、ファンタジーとリアルの境界も揺るがしている。

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