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ちょっと知的な雑学&トリビア

鏡の座標系

2005年3月03日 【コラム
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 鏡はなぜ左右を反転するのか。これは問いのたて方が間違っているというのは、新鮮な気づきだった。むしろ、鏡に映っているのに左右が反転しない場合があるのはなぜか、と問う必要がある。
 認知心理学の高野陽太郎博士は、「F」の字をくりぬいて、自分の前に掲げて鏡に映す実験を紹介している。「F」の字はどちらも反転せず正しく読むことができる。では「F」の字を紙に書いて映すとどうか。反転して見える。確かめようとあなたは紙をひっくり返す。正しい向きだ。しかしこのとき、文字を反転させたのは、紙をひっくり返したあなたなのだ。床屋の鏡の中の針時計もそうだ。午前10時と読めるが、振り返って壁にかかっているそれを確認すると午後2時。反転して映っていたかのようだ。でも実際は、前後を振り返って反転したのは自分自身。
 鏡映文字が左右反転していると感じるとき、あなたはイメージにある「正しい文字」と比較している。これと、自分が右手を上げたとき、鏡の中の自分は左手を上げたと感じるのとは心理的に違う。手の場合は、鏡の中に回りこんであてはめ、左右が反転していると考えるからだ。幾何光学的には、鏡は鏡面に垂直な一つの軸、一般的には前後だけど、これだけを反転させる。ぼくたちは鏡の中に回り込んで前後軸を無理やり一致させ、その代わり左右軸の違いを生み出してしまっている。床屋で身体を反転させたように。
 鏡に向う自分の背後で子どもが遊んでいる。鏡に映った子どもが、右手に動く。あ、右に移動したとあなたは考える。そして実際、子どもは自分の右方向に移動している。このとき、鏡が左右を反転させたと感じることはない。鏡の中に回り込まず、こちら側と同じ座標系を利用して判断したからだ。逆さめがね実験で有名な吉村浩一博士は、鏡の謎を解く鍵は座標系の適用方法にあると指摘している。
 自分が生きている座標系と、相手ともつそれとの違いについて、鏡を離れ、しばし想像したことだった。

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12 comments to...
“鏡の座標系”
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小橋昭彦

鏡については以前「鏡のなぞ [2001.06.22]」として取り上げたこともありました。

コラムでとりあげた「高野陽太郎教授」による実験は、ウェブページに写真が掲載されています。著書『鏡の中のミステリー』は品切れか。

逆さめがねは、やはり昔コラムにしたことがありますが、「吉村浩一ホームページ」で詳細をどうぞ。著書『鏡の中の左利き』の「はじめに」だけでも有益です。

ほかに、「鏡像はなぜ左右だけ逆なのか」がよくまとまっています。違いを出さねばと苦労しました。


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のぶ

「くりぬいたFの字」の話は新鮮かつ説得力のある実験ですね。

「元々左右なんて逆になっていない」と考えるといろいろと解けてくる気がしました。

近角聰信『日常の物理学』(東京堂)
(注:同じ著者の『日常の物理事典』とは別の本です)

には、こんな風に書いてありました。(記憶による引用です)
《鏡のむこう側を見るために、横から回り込んだ自分を想像するから、左右が逆に見えるのである。もし、鏡が塀のよう横に広がっていたら、横から回り込むかわりに、よじのぼって頭を下にして鏡のむこうを見ることになるだろうから、その自分と鏡の像を比べれば「左右は同じで、上下が逆になっている」だろう》

「逆さめがね」と同じことだろうと思いますが、これを読んでスッキリしました。


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小橋昭彦

そうですね、結局この「回り込む」がポイントですね。ただ、おそらく鏡の塀が横に広がっていても、上下逆にはやはり感じないだろうと。

つまり、ぼくたちは上下については逆にしたがらず、やはり左右を逆にしたがる。回り込むという点では同じなのに、これはなぜだろうと。次はそれが問題になったりします。


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みうらん

床の上に大きな鏡を置き、その上に立つと左右は逆転せず、上下が逆転していると感じられますよね。以前、何かで読んだことがあります。


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猫茶人

鏡の中は、「別の世界」。鏡という境界線を軸に対称に動く別の世界
なんて考えたことがありました。
夜中にこっそり覗いたら、ぐっすり眠っているもう一人の自分に出会
えると信じ覗いてみましたが、もう一人の自分も同じことを考えてい
たらしくやっぱりこちらを覗いてました。中学時代に流行った、国営
放送の少年ドラマシリーズにはまっていた私を思いだしました。
申し訳ないです。かなり脱線ですね。


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のぶ

>おそらく鏡の塀が横に広がっていても・・・

説明不足でした。
横に広がった(つまり、回りこめない)鏡で「むこうから、こちらを見ている姿」を想像して、それと鏡に写った自分を比べたとしたら・・・「上下が逆で、左右がそのまま」になる、という話です。

透明フィルムに「F」の字を印刷して鏡に写してみました。いいですね、これは。裏返らない「F」は、わかっていても「オオッ」と思います。


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ななし

「鏡の中の世界」は、「金太郎飴の世界」って事かな。^^


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猪花栄治

相対的には、空間認識の一領域となりますね。

少年野球のスキルアップの目的に、空間認識を分かりやすく説いたサイトがあります。
川上コーチの少年野球コーチング・空間認識
http://www.good-news.jp/coaching/kuukann-ninnshiki.htm

平面写真を立体画像と捕らえる過程で、具体的にどういう感覚がどう関わっているか、を分かりやすく解説したサイト
立体写真の基礎
http://photo3d.hp.infoseek.co.jp/3d-pcp.htm


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ななし

猪花栄治さんにご紹介していただいた立体写真の基礎を読んで、「遠くの物が小さく見えるのは何故?」とう話を思い出しました。

この問いは「必ずしも遠くの物が小さく見えるとは限らない」という文がつながる話です。

(目、光学系の)焦点距離が長くなればなる程、遠くの物が小さくならなくなり、焦点距離が十分に長いと、実際の大きさが同じくらいの物なら、近くの物と遠くの物とで見た目の大きさが同じ位に見える現象がおきます。(いわゆる望遠レンズの見た目です)

写真の世界では圧縮効果(距離感がなくなり画角(視界)が狭くなる効果)と呼ばれていて基本的な撮影テクニックです。


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七市権兵衛

 
基本的には本文や皆さんと同じことなんですが。。。

左右というのは人間の概念。
共通の概念(?)、三次元を使って考えてみる。

三次元の座標軸はX、Y、Z。あるいは東西、南北、上下。

鏡面を南向きに置き、東西方向にX軸、南北方向にY軸、上下方向にZ軸を置く。
さて鏡の中の座標軸はどうなるか。
X軸はやはり東西、Z軸は上下に同じ向きにある。
変わっているのはY軸の向きだけ。

同様に鏡面を南向きに置き、その前に北に向かって両手を広げて立ってみる。
左手は素手で指差しをし、右手は手袋をしているとする。

西を指差す現実のあなたの左手に対し、鏡の中の指をさしている手も西を指す。
手袋をしているあなたの右手が東方向にあるのに対し、
鏡の中の手袋をしている手も東方向にある。
頭は共に上方向にあるし、足も共に下方向に存在する。

変わっているのは、あなたの顔が北向きなのに対し
鏡の中の顔は南向きということだけ。

左右は人間の概念。。。

お粗末さまでした。


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Tatsuo Tabata

 私は高野博士が1998年にPsychonomic Bulletin &
Review誌に発表された “Why does a mirror image
look left-right revered?” に対し、同誌にS.Okudaと
共著で反論を発表した者です。私たちの反論と同様な
趣旨の反論がニュージーランドの心理学者M.
Corballisによって、少し先に投稿されていましたが、
私たちの短報も同時掲載となり、「なぜ鏡は左右を逆
にするか」は、ある意味で正しい疑問であり、その答
のカギは、左右が上下、前後に依存して最後に決まる
向きでことにある、という説明に軍配が上がっていま
す。英国の心理学者C. McManusもその後、”Right
Hand, Left Hand” という著書で独立に、私たちと同じ
見解を記しています。
 高野博士の仮説は、「なぜ鏡は左右を逆にするか」
という問いの下で、実は「鏡が左右を逆にしない」と
いう知覚を与える場合をも説明されようとして、複雑
なものになっていると思われます。吉村博士は、「な
ぜ鏡は左右を逆にするか」に対するCorballisと
Tabata-Okudaの説明を支持された上で、「鏡が左右を
逆にしない」場合を「共用座標系」によって、すっき
りと説明できると、著書『鏡の中の左利き』で提唱さ
れました。私はその巻末に「一物理屋のコメント」を
書かせて貰いましたが、この文も、それだけで独立し
て鏡像問題の解説になっており、私のウエブサイトの
次のページでご覧になれます。
mirrorcom.html”>http://www.geocities.jp/tttabata/
mirrorcom.html


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catbird

鏡は何故左右逆に写るのでしょうか。空間には、左右の他に上下前後もあります。上下逆や前後逆には何故写らないのでしょうか。鏡に写した時、元の形と写った形とは、向かい合って同じ形です。その2つの形は、果たして左右が逆でしょうか。元の物と鏡に映った形とを、同じ向きに向け比べる時、元の物を180度回転させなければなりません。この時、縦軸を中心として180度回転させれば、左右逆になります。逆に横軸を中心にして180度回転させれば、上下逆になります。他に斜めの軸もありますが、何故縦軸を中心に180度回転させなければならないのでしょうか。それは、人間の体が左右対称だからです。元の形と鏡に写った形とを比べる時、両者を出来る限り近い形にしようとします。だから頭の中で縦軸を中心に180度回転させているのです。自分の形が上下対称である場合を考えてください。当然横軸を中心に180度回転させて比べてみることでしょう。従って、鏡は左右逆に写るものではなく、実は前後逆に写っていたのです。




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 長男が小学生になる。子ども部屋をどうしようか。空間配置だけの問題と思うのに、そうはいかない。小さいうちは親が居るリビングに机を配置せよと言う人もいるし、長じてから個室を与えれば自分の権利と思って親に立ち入らせなくなる、幼いうちから与えて親も出入りすべきという人もいる。要するに、間取りではなく子育て論になっているわけだ。 たしかに建築としての家は、家族のあり方と不可分だった。理想の家族に向けて建てられるという見方もある。いわゆる伝統的な民家は、四つ間取りといって土間の横に田の字型に畳部屋が並ぶ。家の主は奥の間に居て、食事となれば囲炉裏のある表の部屋に出てくる。雨の日は土間で子とともに仕事をした。子とどうつきあうかなんて考えたろうか。 大正期、家の中央に廊下を走らせ、玄関脇に応接室を設置するスタイルが生まれる。廊下に面して茶の間がある。その場の主役は夫たる男で、応接室も彼の客を迎える場であったろう。この時期までは「男の家」だったという指摘もある。 戦後、いわゆる公団住宅がnLDKモデルを広め、寝るところと食べるところを分けましょう、寝るところは独立させましょうと推進する。キッチンとリビングが住宅の主役になり、住宅選びに女性の意見が尊重されるようになった。専業主婦化が進んだ時期でもある。その後、賃貸から分譲へという流れもあって個室化が進んだ。 ちなみにわが家は20年余り前に立て替えた田舎の一軒家で、これら歴史をすべて飲み込んだ間取りになっている。子ども用として選択肢はいろいろあったけれど、結局、書斎で余っていた机を与え、そのまま書斎の一角を彼のスペースとした。それが良かったかどうかわからない。いや、きっと正解なんてないのだろう。父の隣で学ぶ彼の姿を見、声を聞きつつ、ときに納得し、あるいは考え直しもするのだろう。そうした過程そのものが、子と関わるということなのだ。

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 観光について調べている中で、<身(み)分け・言(こと)分け>理論を目にして、20年ほど前のことを懐かしく思い出していた。丸山圭三郎氏の著書をむさぼるように読んだのがちょうどその頃。 身分けというのは、動物一般が持つ外界のカテゴリー化のことで、世界を分節すると同時に自身も分節する。腐った肉を前にした犬は、それを「食べられないもの」として境界線を引くと同時に、自らを、食べられないという視点で境界を引く身(み)として世界と切り分けている。 一方の言分けは、人間だけが持つ、ものごとをシンボル化する能力だ。人間は、腐った肉を本能だけで身分けられず、「腐っている」という概念に頼って言分ける。この能力は、人間に環境を操作するという過剰性を与えた。「腐った肉」とシンボル化できるから、「腐らさない」発想が生まれ、人工的手法でそれを達成しようとする。 身分け・言分け構造は、二重構造ではない。コトバを持たない人間があり得ないように、身分けだけの人間はあり得ない。本能だけで生きていた時代に戻ることはできない。ぼくたちは身分けつつ言分け、言分けつつ身分ける存在となっている。 それで冒頭の観光論だけれど、風景について考察したその文章は、身分け・言分けを記憶の種類として扱い、それに基づく「まなざし」が、視覚によって知覚した情報に意味を付加し、風景を生むと論じていた。身分け・言分けがまなざしを生むのは確かだけれど、まなざしは決して入力情報を処理する客観的な何かではない。むしろ、風景を見出すその動きこそ、身分けつつ言分ける生命のはたらきそのものであり、ぼくらはそうしてまなざしつつまなざしとなっている。 ザツガク性もまた、ネタとしての客体の中にではなく、身分けつつ言分けようとする、その場に芽生える。そういう意味で、ぼくたち自身こそザツガクなのだけれど。

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