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ちょっと知的な雑学&トリビア

わが手は誰の

2004年12月16日 【コラム
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 法制史を扱ったジャン=ピエール・ボーの『盗まれた手の事件』はこんなフィクションから始まっている。ある人が日曜大工で手を切断する。気を失っている間に、悪意ある第三者が手を拾いボイラーに放り込んだなら、その犯罪はどう裁かれるのか。
 解答の一番目は、この悪意ある第三者を手を切断した罪に問うことだ。医者にかかれば接合できた可能性がある。それを不可能にした者こそ手を切断した犯人と。だがこれは少々無理がある。そこで二番目は、窃盗の罪に問う手法。被害者から手を盗んだというわけだ。しかし、と著者は言う。人間は肉体も含めてひとつの人格であり、身体は「物」ではない。手は切断されたとき初めて「物」になる。だとすれば、その所有者は最初に手に入れた者、すなわち第三者であり、窃盗にあたらない。三番目の解答は、だから無罪と。
 空想めいたこの挿話は、米国カリフォルニア最高裁での判例に映すと深く考えざるをえなくなる。白血病の手術を受けたジョン・ムーアは、後に、彼の細胞が培養され、癌の治療に使われる製薬成分を生産するとして特許申請されていたことを知る。そこで細胞の返還訴訟を起こしたわけだ。しかし判決は、肉体から取り除かれた後の細胞に対して、彼に所有権は無いとした。
 ヨーロッパでは14世紀、キリストの血は流れ出た後も神たる性格を持ち続けているという原理が出され、1464年に教皇ピウス二世がその結論を確認したという。一方、芥川龍之介の「好色」は、恋する人が出した糞(まり)を当人と同一視する小説だった。これらまで話を広げると、法律以前に、社会背景や意識のあり方が問われてもくる。
 ジョン・ムーアの場合、所有権が認められてしまうと、バイオ関連の研究者・業界に多大な影響を与えたという背景もある。一方で、フィクションがフィクションですまないような出来事が起こる気づまりな世。自分の身体は誰のものかという問いは、今いっそう先鋭だ。

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7 comments to...
“わが手は誰の”
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小橋昭彦

まずは『盗まれた手の事件』をどうぞ。芥川龍之介はオンラインで読めます。「好色」など。書籍なら「岩波文庫」でどうぞ。


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りゅうけん

この記事を読んで、映画『キューティ・ブロンド』の主役であるエルが、ロースクールの授業で、精子バンクの精子で妊娠した子供の認知を男性に迫る件?について討論している風景を思い出しました。
人から離れた身体の一部については、本人がそのモノを放棄したかどうかがポイントですよね。普段、手術を受けると本人や家族に切除した部分を見せてくれるでしょ。あれは手術の説明もあるけど、「これはいらないよね?」というサインでもあるのではないだろうか。
因みに、映画の中では、精子バンクに精子を提供した時点でその精子は男性の所有物とはなくなるため、認知の義務は無い!という主張をしてましたが・・・


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ヨッシー

見聞や知識を広めるのためには、もってこいの内容に毎回関心しています。今回の2番目の理由と3番目の理由が混同している様に思います。二つの理由しか提示されていない気が。私の理解不足なら申し訳ないのですが。気になるので本を読んで見ますが、個人的には人体の一部と認識していたなら有罪。理解していないなら無罪。所有権の議題ですから的はずれなのは承知ですが。今後も面白い考え方や最後の余韻を残す文章構成を小橋さんに期待します。


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jyoumyaku

いつも斬新な発想を頂ありがとうございます

今回のテーマも興味がありまして少しだけ書かせていただきました
西洋の思想はイエス・ノウの世界で行き詰れば滅びると考えていたり

肉親が大差の年齢の娘さんと結婚して生まれた子供が叔父さんになり
挙句は自分がどういう立場なのかわからなくなり自殺なんて記事を読んだことがあります。

トインビーも東洋思想のお陰で打開の目途がついたと言われたことなど
ふと思い出して投稿させていただきました。
暮も押し詰まりお忙しいことでしょう、今年もありがとうございました


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うしがえる

時々読ませていただいており、他のマーケティング情報誌とは一味も二味も違う切り口でいつも新鮮です。
早速ですが、今回は非常に興味深い内容ですが、小橋さん御自身の御意見は如何なんでしょうか。
個人的には、いまいちしっくりとこない問題のように思います。
裁判で争うにしても、裁判官の宗教的なバックグラウンドで、ずいぶんと違った判決が出されそうで、このような問題が、裁判になじむかどうかという問題もあるように感じます。


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小橋昭彦

みなさんありがとうございます。うしがえるさんのおっしゃるように、今回、ぼく自身の考え方は表明せず、著者の考え方の紹介+αで終わらせています。

ひとつは、著者はあくまでフランスの法律上の問題を扱っているのに対して、法律の範囲を超えた見解を入れることの難しさが理由です。また、仮に踏み込むとしても、ひじょうに幅の広い議論になるのがもうひとつの理由。コラムの長さでは扱いにくい側面もあり、最後に、別の視点もあってたいへんだよね、みなさんの考えはどうでしょうか、と締めるに終わりました。

中絶や脳死の問題などともリンクしてきますよね。ぼく自身、手術後の父の病巣を見つつ医師からの説明をうけたときは驚いたものでした。どういう視野で扱えばいいか、正直、いろいろ迷い考えているところです。


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しゃあ

こんにちは 久々に投稿させて頂きます。
法律で括るのは 難しそうですね。糞や汗など自分にとって不都合なモノには処分代を支払ってでも廃棄する。尿が薬の材料になると分かると代金を取って売る。 他人の腕なんて気味悪くて欲しくもないが自分の腕となると・・・。
私としては ヨッシーさんの意見に一票入れたいと思います。




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 エコロジカル・フットプリントという言葉がある。人間が環境に与えている影響を示す方法のひとつだ。足跡という言葉のイメージを借りつつWWFによるレポートからのデータを紹介するなら、生物学的生産力からみると、日本には一人あたり0.86ヘクタール分の足の踏み場がある。これに対して実際に残した足跡は5.94ヘクタール分もある。地球全体では一人あたり平均2.18ヘクタールの土地に対して、2.85ヘクタールもの足跡を残している。すでに地球には足の踏み場がないということになる。 1968年にハーディンが発表した「共有地の悲劇」という論文があった。みんなで共有している牧草地があったとする。一人の牧夫が自分の利益を増やそうと羊の頭数を増やすとき、利益は個人に入るが、環境の悪化という不利益はみんなで分け合うから小さい。だから各個人にとって合理的な行動とは、頭数を増やすことになる。その結果、過放牧によって共有地は荒廃し、共倒れする。 共有地の悲劇は、地球環境を考えるときなどにさかんに議論される問題だ。望ましい社会を実現するには政府の介入が必要だというピグーの理論、相談とか調整といった取引費用さえかからなければ介入なくしても実現可能だというコースの定理などをからめて議論されることもある。社会的ジレンマのひとつとして研究が進められてもいて、最近では信頼性と競争的な利他主義が解決の道をつける、評判を得ようとすることが解決を助けるなどといった研究報告が出されている。 ややこしくなるのでこれ以上踏みこめないけれど、悲劇を招かないポイントのひとつは、牧夫それぞれが未来を見通し、自らの合理性より、互いに信頼し助け合うことを目指すところにある。自らの足跡が想像以上に大きいことに気づけば、次の一歩はちょっと遠慮しようかなって、そんなふうな気持ちになるのが、進化から見た人類でもある。明日の一歩は、少し小さくなると信じたい。

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