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ちょっと知的な雑学&トリビア

共有地の悲劇

2004年12月09日 【コラム
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 エコロジカル・フットプリントという言葉がある。人間が環境に与えている影響を示す方法のひとつだ。足跡という言葉のイメージを借りつつWWFによるレポートからのデータを紹介するなら、生物学的生産力からみると、日本には一人あたり0.86ヘクタール分の足の踏み場がある。これに対して実際に残した足跡は5.94ヘクタール分もある。地球全体では一人あたり平均2.18ヘクタールの土地に対して、2.85ヘクタールもの足跡を残している。すでに地球には足の踏み場がないということになる。
 1968年にハーディンが発表した「共有地の悲劇」という論文があった。みんなで共有している牧草地があったとする。一人の牧夫が自分の利益を増やそうと羊の頭数を増やすとき、利益は個人に入るが、環境の悪化という不利益はみんなで分け合うから小さい。だから各個人にとって合理的な行動とは、頭数を増やすことになる。その結果、過放牧によって共有地は荒廃し、共倒れする。
 共有地の悲劇は、地球環境を考えるときなどにさかんに議論される問題だ。望ましい社会を実現するには政府の介入が必要だというピグーの理論、相談とか調整といった取引費用さえかからなければ介入なくしても実現可能だというコースの定理などをからめて議論されることもある。社会的ジレンマのひとつとして研究が進められてもいて、最近では信頼性と競争的な利他主義が解決の道をつける、評判を得ようとすることが解決を助けるなどといった研究報告が出されている。
 ややこしくなるのでこれ以上踏みこめないけれど、悲劇を招かないポイントのひとつは、牧夫それぞれが未来を見通し、自らの合理性より、互いに信頼し助け合うことを目指すところにある。自らの足跡が想像以上に大きいことに気づけば、次の一歩はちょっと遠慮しようかなって、そんなふうな気持ちになるのが、進化から見た人類でもある。明日の一歩は、少し小さくなると信じたい。

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2 comments to...
“共有地の悲劇”
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小橋昭彦

エコロジカルフットプリントについて、まずは「WWF生きている地球レポート2002」をご参照ください。「平成12年版環境白書」でも紹介されています。あなたの足跡を「Ecological Footprint Quiz」で計算もできます。

共有地の悲劇については、原著論文含む「Science Magazine: Tragedy of the Commons?」の特集がおすすめ。日本語では「進化研究と社会:共有地の悲劇」がリンク集も含めて有益。やはり「平成11年版環境白書」で取り上げられてもいます。コラム内では取り上げていませんが、インターネットを共有地と考えて行う議論もあり、たとえば「メディア・コミュニケーション〔研究所紀要〕No.52」所収の水元豊文「『共有地の悲劇化』するネット社会に求められる情報環境倫理」などをご参照ください。

共有地の悲劇関連議論としては、「Trustworthiness and competitive altruism can also solve the “tragedy of the commons”」「Reputation helps solve the ” tragedy of the commons” 」がコラム内でちらっと触れた研究ですが、「情報社会学序説?ラストモダンの時代を生きる」における論考もご参照ください。

あと、その中で触れたコースの定理などはまた大きなテーマになりそうなので、ぼく自身消化しきれていません。とりあえず「ロナルド・H・コース (Ronald H. Coase)」内の解説などをご参照ください。


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はっちん

私は今中国、上海で暮らしています。
こちらに来てよく考えたのが環境問題のことです。

日本でも昔問題になった、オゾン層破壊の頭髪スプレー。
ここ数年、お洒落の余裕ができた若者達が増え、使用されるようになりました。
スプレーは日本人も、もちろん使用しますが、人口が違いますよね(笑)
もし、中国人全員がお洒落に目覚める時が来たらどうなるんだろう・・・

さらに中国は自動車ブームのため、もうすぐ一人1台の時代になるのでしょうが、一人一台でも、世界のガソリンをたくさん使用することでしょう。

中華の油など路に流したり、動物の死体を川に流したりと、いろいろ大変です。

ホント、世界中、みんなで協力しなくてはならないんだと、実感しています。




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 友人のデザイナーの子は絵がうまい、血は争えない。そう言うと、どうでしょう、ふだん子どもの前で絵を描いていますかと返され、あ、と息をのんだ。血というより、日々の積み重ね。「学ぶ」は「まねぶ」、「真似る」の文語形に通じている。「習う」は「倣う」。個性という言葉の影で、学習とは模倣であったことを見過ごしていたかもしれない。 オリジナリティ、独創という言葉はどこか神々しい。ベンヤミンは「複製技術時代の芸術作品」の中で、どんなに完璧な複製においても<いま”ここ>的性質、オリジナルの真正さは持ち得ないと指摘している。現代では「オーセンティシティ」といった用語で真正さ、正統性を表すことが多い。しかし、真正さとは何だろう。現代環境におけるダヴィンチ鑑賞は真正のものだろうか。鑑賞者が背負う時代背景が違えば、芸術が同一のものであっても、もたらす興趣が違う。 一方の模倣については、「醜い家鴨の仔の定理」がある。対象を表現する述語の数が有限であれば、アヒルと白鳥の類似度も白鳥と白鳥の類似度も変わらないということを数学的に証明したものだ。アヒルと白鳥より、白鳥と白鳥の方が似ているというためには、対象を表現する述語のどれを重視するかという価値判断が入らざるを得ない。模倣の判断基準は、作品そのものではなく鑑賞者の価値観に根ざすということだ。 大乗寺客殿の障壁画は、円山派の思想空間として評価されている。その襖(ふすま)絵をはずし、精巧なレプリカをはめるプロジェクトが進む。これによって鑑賞者は、実際に部屋の中で襖絵に囲まれるという、当時のような体験を得ることができる。では、博物館のガラスケースに展示される「真正の」襖絵を前にするのと、大乗寺でレプリカの襖絵に囲まれるのと、どりらがより「真正の」体験だろう。考えるほど、対象ではなく、自分の中で<いま”ここ>で生起するものをこそ、重視するほかなくなってくる。

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 法制史を扱ったジャン=ピエール・ボーの『盗まれた手の事件』はこんなフィクションから始まっている。ある人が日曜大工で手を切断する。気を失っている間に、悪意ある第三者が手を拾いボイラーに放り込んだなら、その犯罪はどう裁かれるのか。 解答の一番目は、この悪意ある第三者を手を切断した罪に問うことだ。医者にかかれば接合できた可能性がある。それを不可能にした者こそ手を切断した犯人と。だがこれは少々無理がある。そこで二番目は、窃盗の罪に問う手法。被害者から手を盗んだというわけだ。しかし、と著者は言う。人間は肉体も含めてひとつの人格であり、身体は「物」ではない。手は切断されたとき初めて「物」になる。だとすれば、その所有者は最初に手に入れた者、すなわち第三者であり、窃盗にあたらない。三番目の解答は、だから無罪と。 空想めいたこの挿話は、米国カリフォルニア最高裁での判例に映すと深く考えざるをえなくなる。白血病の手術を受けたジョン・ムーアは、後に、彼の細胞が培養され、癌の治療に使われる製薬成分を生産するとして特許申請されていたことを知る。そこで細胞の返還訴訟を起こしたわけだ。しかし判決は、肉体から取り除かれた後の細胞に対して、彼に所有権は無いとした。 ヨーロッパでは14世紀、キリストの血は流れ出た後も神たる性格を持ち続けているという原理が出され、1464年に教皇ピウス二世がその結論を確認したという。一方、芥川龍之介の「好色」は、恋する人が出した糞(まり)を当人と同一視する小説だった。これらまで話を広げると、法律以前に、社会背景や意識のあり方が問われてもくる。 ジョン・ムーアの場合、所有権が認められてしまうと、バイオ関連の研究者・業界に多大な影響を与えたという背景もある。一方で、フィクションがフィクションですまないような出来事が起こる気づまりな世。自分の身体は誰のものかという問いは、今いっそう先鋭だ。

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