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fMRIで解き明かす、脳と心の関係

2004年11月30日 【雑学なメモ
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fMRIで解き明かす、脳と心の関係
Wired Newsより。事例紹介。

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Nature
現生人類が競争でどういうわけで優位に立ったのかを考察し、より複雑な言語を編み出したことが適応上の決定的な優位性となったのではないかと推定している。

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 友人のデザイナーの子は絵がうまい、血は争えない。そう言うと、どうでしょう、ふだん子どもの前で絵を描いていますかと返され、あ、と息をのんだ。血というより、日々の積み重ね。「学ぶ」は「まねぶ」、「真似る」の文語形に通じている。「習う」は「倣う」。個性という言葉の影で、学習とは模倣であったことを見過ごしていたかもしれない。 オリジナリティ、独創という言葉はどこか神々しい。ベンヤミンは「複製技術時代の芸術作品」の中で、どんなに完璧な複製においても<いま”ここ>的性質、オリジナルの真正さは持ち得ないと指摘している。現代では「オーセンティシティ」といった用語で真正さ、正統性を表すことが多い。しかし、真正さとは何だろう。現代環境におけるダヴィンチ鑑賞は真正のものだろうか。鑑賞者が背負う時代背景が違えば、芸術が同一のものであっても、もたらす興趣が違う。 一方の模倣については、「醜い家鴨の仔の定理」がある。対象を表現する述語の数が有限であれば、アヒルと白鳥の類似度も白鳥と白鳥の類似度も変わらないということを数学的に証明したものだ。アヒルと白鳥より、白鳥と白鳥の方が似ているというためには、対象を表現する述語のどれを重視するかという価値判断が入らざるを得ない。模倣の判断基準は、作品そのものではなく鑑賞者の価値観に根ざすということだ。 大乗寺客殿の障壁画は、円山派の思想空間として評価されている。その襖(ふすま)絵をはずし、精巧なレプリカをはめるプロジェクトが進む。これによって鑑賞者は、実際に部屋の中で襖絵に囲まれるという、当時のような体験を得ることができる。では、博物館のガラスケースに展示される「真正の」襖絵を前にするのと、大乗寺でレプリカの襖絵に囲まれるのと、どりらがより「真正の」体験だろう。考えるほど、対象ではなく、自分の中で<いま”ここ>で生起するものをこそ、重視するほかなくなってくる。

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