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ちょっと知的な雑学&トリビア

脳の進化ならヒトもイルカも変わらない

2004年10月28日 【雑学なメモ
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NSF – OLPA – PR 04-146: Humans and Dolphins: If Brain Size is a Measure, We’re Not That Different –
Scientists have determined how brain size changed in dolphins and their relatives over the past 47 million years, and how these species evolved in relation to humans. The results of their research, published on-line this week in the journal The Anatomical Record, show that, in terms of brain size, humans and dolphins aren’t that different.

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 同種内で殺し合いをするのは人間だけである。そう言ったのは動物行動学のローレンツだった。当時は意外性もあっただろうこの言葉が、今はすとんと胸に落ちる。戦いの風景をそれだけひんぱんに目にするようになったということだろうし、動物はヤバンという観念が薄れたということかもしれない。 ただ事実を追うなら、動物も殺し合いをする。インドのサル、ハヌマンラングールによる子殺しなどが有名な事例。もっとも、それらとヒトの攻撃行為には大きな差がある気もする。その差のひとつは、ヒトだけが自己の行為に言及すること、つまり他者を殺してはいけないというルールを持っていて、その上で傷つけてしまうという構図に由来している面があるだろうけれど。 ヒトはなぜ戦うのか。初期のアウストラロピテクスは、動物を狩るのではなく、屍肉をあさることで生き延びたらしい。それがいつから同種内で争うようになったのだろう。佐原真氏は、狩猟採集民の間でも戦争と呼べるものがあったが、本格的な戦争は農耕社会の成熟とともに生まれたとしている。戦争の起源については、今後の研究が待たれるところ。 視点を個に戻す。『攻撃の心理学』を読んでいて気になったことのひとつが、プライミングという現象だ。攻撃的な単語なり事物を先に見せられた人は、その後、そうでない人より、より攻撃的にふるまう傾向がある。これをふまえるとカタルシスという解消法も悩ましい。戦争映画でストレスを発散できたようでいて、むしろその映像がプライミングとなって攻撃性を高める傾向が指摘されている。 攻撃性を抑えるには、自分の怒りの要因を分析したり、リラクゼーションを図る、怒りのマネジメントが効果的という。それができるのも、ヒトが自分の行為に言及する能力を持っていればこそだ。銃や凶器を手にする前に、ぼくたちは言葉と想像力という、もうひとつの武器を手にできる。ペンは剣より強しとは、そういうことかと思いもした。

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 まちおこしの目的をわかりやすく表現するのは難しい。それでつい「田舎に向かう人を増やしたい」なんて単純化して言ってしまうのだけれど、ある会合で友人が「都市規模にはジップの法則があって、田舎の人口は増やせない」と指摘するのを聞いていて、それはそうだけれどと複雑な気持ちになった。 ジップの法則というのは、単語の出現頻度について述べたもの。頻度が2番目の単語は1番目の2分の1の、3番目は3分の1の確率で現れる。べき乗分布になることから、べき法則と一般化される。都市規模の分布もこれに従うから、都市間格差は前提で、くつがえせないのではというわけだ。 ややこしいので例え話にしてみよう。百点満点の試験を考える。横軸に得点、縦軸に人数をとってグラフにすると、50点付近の人が多くて山を作り、零点や百点に近い人は少ない釣鐘形になる。50点の人が代表的ということだ。ところが、知っている友だちが一人なら1点、二人なら2点としてグラフにすると、「U」の左半分とでもいおうか、圧倒的多数は点数が低いけれど、高い人はいくらでも高い図になる。友達の例は検証が必要だが、こうした巾の広いスケールフリーな分布は、地震の規模と発生回数から戦争の数と死亡者数までさまざまなところに現れる。 スケールフリーな世界では、代表的というのは存在しない。どの一点をとってもそれより上があり、下もある。これを都市に置き換えるなら、あのくらいを目指そうと言う標準がないと考えてもいい。だとすればこの世界での処世法は、自分の中に審級を作るほかない。自分を知り、自らの特徴を磨くこと。 都市から田舎に向かう人を増やしたいと言ったときぼくの念頭にあったのは、こうした内なる思いだった。ある人が自分の居住地を選ぶとき、職場の関係で都市に限定されるというのではなく、田舎でもいいんだと、そういう可能性の多様さを作ること。ある点が多様な紐帯を持つことは、ネットワーク的にも狭い世界をもたらすのではなかったか。

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