同種内で殺し合いをするのは人間だけである。そう言ったのは動物行動学のローレンツだった。当時は意外性もあっただろうこの言葉が、今はすとんと胸に落ちる。戦いの風景をそれだけひんぱんに目にするようになったということだろうし、動物はヤバンという観念が薄れたということかもしれない。
ただ事実を追うなら、動物も殺し合いをする。インドのサル、ハヌマンラングールによる子殺しなどが有名な事例。もっとも、それらとヒトの攻撃行為には大きな差がある気もする。その差のひとつは、ヒトだけが自己の行為に言及すること、つまり他者を殺してはいけないというルールを持っていて、その上で傷つけてしまうという構図に由来している面があるだろうけれど。
ヒトはなぜ戦うのか。初期のアウストラロピテクスは、動物を狩るのではなく、屍肉をあさることで生き延びたらしい。それがいつから同種内で争うようになったのだろう。佐原真氏は、狩猟採集民の間でも戦争と呼べるものがあったが、本格的な戦争は農耕社会の成熟とともに生まれたとしている。戦争の起源については、今後の研究が待たれるところ。
視点を個に戻す。『攻撃の心理学』を読んでいて気になったことのひとつが、プライミングという現象だ。攻撃的な単語なり事物を先に見せられた人は、その後、そうでない人より、より攻撃的にふるまう傾向がある。これをふまえるとカタルシスという解消法も悩ましい。戦争映画でストレスを発散できたようでいて、むしろその映像がプライミングとなって攻撃性を高める傾向が指摘されている。
攻撃性を抑えるには、自分の怒りの要因を分析したり、リラクゼーションを図る、怒りのマネジメントが効果的という。それができるのも、ヒトが自分の行為に言及する能力を持っていればこそだ。銃や凶器を手にする前に、ぼくたちは言葉と想像力という、もうひとつの武器を手にできる。ペンは剣より強しとは、そういうことかと思いもした。
ペンは剣より強しといえば、過去のコラム「オッカムのかみそり」もご参考に。なお、今回、下記の2冊を参考にしました。
『戦いの進化と国家の生成』
『攻撃の心理学』
#参考書に画像を入れてみました。その方がにぎやかかなあと思って(笑
傷つけ合う事に歯止めをかける、ルールを作る 逆に効率よく殺傷する。どちらもヒトの脳のなせる業(働く部位は違ったとしても)。ヒトには やはり神と悪魔が同居しているのでしょうか。
法を使って追い詰めるとか 社会的に破滅させるなんて物理的な攻撃ではなくとも 結構えげつない。そうすると攻撃性ってヒトの本質ですかね。
数年前「何故ヒトはヒトを殺してはいけないか」と子供に問われキチンと答えられるか。 なんてのが ありましたがボクとしては 聞く方に問題がある気がするし 「そんな事当たり前だろ」と答えると思う。
今回のコラムを書きつつ、しゃあさんの書かれていた子どもの発した質問についても考えました。それについては長くなりすぎるので触れられなかったのですが。ともあれ、ぼくたちは人は人を殺さないという信頼の上で社会を築いているわけで、それを失っては成り立たない。だから「当たり前だろ」という答えも、ありだと思っています。
また、攻撃性が人の本質かどうかについては答えづらいですが、進化心理学という方向からの観点では、攻撃性は進化の結果として人に備わっている性質のひとつではあります。進化心理学については、またあらためて、もしかすると文化心理学とからめて書くかもしれません。
う0ん ボクには基礎的な知識が足りないので上手に言葉に出来ないのですが・・。 「世の中を創っていく上で安全上 ヒト同士殺し合わない」というのも納得ですが その前に「ルールが無ければ殺し合っても良いのか」について 生理的にとか本能的に拒絶するものが備わっていて欲しいと思います。進化の上でヌルイかな?
しゃあさん、大丈夫。やはり同じ進化心理学的観点からいうなら、怒りと同様、「互いに協力する」というのも人間の本質として備わっているといえます。
で、おそらく人間だけが、こうしたさまざまな性質が自分に備わっていると自覚できるわけで、その自覚を活かすことが必要ですね。
なるほど 納得。
メスをめぐって、オスが争い、強いオスの精子で受精させ、種を守る。この自然の摂理が、現在の人類ではほとんど機能してなくて、違う方向にエネルギーを振り向けている。何かに振り向けないと、ストレスも溜まる。ある意味では自然なのですが、ちょっと間違うと、人類が全滅という兵器も作り上げてしまった。
先日 友人と飲んだ時の会話。「ボクは思ったよりバカじゃないらしい。良かった。でも期待したほど利口でもないようだ。問題なのは それに気付くのが少しばかり遅かった。」 猪花さんのコメントを見て思い出しました。