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キテレツな科学

2004年4月07日 【コラム
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 日本でもイグ・ノーベル賞の名前が知られるようになった。パロディ版のノーベル賞と説明されたりするし、確かにそうした一面もあるのだが、純粋にお笑いというわけではない。ためしに、次に掲げる二種の研究業績リストを比べてほしい。
 ひとつめ。「スキップをしなくなるわけ」「体臭によるコミュニケーション」「クリップはなぜ曲がる?」「泥を食べるのは健康のため」「旗がはためくわけ」。二番目。「歓喜についての学術的分析」「相続税率の低下に延命効果があることの実証」「ハトにピカソとモネの作品の識別を訓練」「人間の腸内から発見された異物一覧」「コーンフレークがふにゃふにゃになるプロセスの物理学的考察」。さて、見分けがつくだろうか。
 前者は、権威ある科学誌「ネイチャー」の人気コラムをまとめた『知の創造』という書籍から見出しを抜粋したもの、後者はイグ・ノーベル賞を受賞した研究を紹介する書籍から拾ったものだ。両者から受ける印象に大きな差はない。「大真面目で奇妙キテレツ」というのがイグ・ノーベル賞を紹介する書籍のコピーだが、科学とはまさにキテレツさが醍醐味なのだ。相対性理論のいう時空の歪みや、量子論のいう粒子を通り抜けるトンネル効果、あるいは数学でいう無限にいろんな無限があるなんて、常識からすればまさにキテレツ。
 ノーベル賞では遅れをとっているとされる日本人だけれど、イグ・ノーベル賞においては受賞大国のひとつ。足の匂いの原因物質を特定し、とりわけ「自分の足が臭いと思っている人の足は臭く、思っていない人の足は臭わない」という秀逸な結論を出したとして受賞した化粧品メーカーの研究者を第一号として、ガムの味と脳波の関連性の研究、浮気発見スプレーの開発、そしてたまごっちやバウリンガルに至るまで。フシギでキテレツな国としての日本はまだまだ元気だし、可能性もあるよねって、そんなことを感じている。

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One comment to...
“キテレツな科学”
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小橋昭彦

まずは楽しく読める書籍『イグ・ノーベル賞』をどうぞ。英語ですが、サイトでは「The Ig Nobel Home Page」に歴代受賞リストもあります。それから、まじめな方では、『知の創造(1)』『知の創造(2)』『知の創造(3)』いずれもお薦めです。日本人のイグ・ノーベル賞関連受賞者については、コラム内でも触れた『ヒト型脳とハト型脳』の「渡辺茂」教授、ガム研究の「Chewing-gum flavor affects measures of global complexity of multichannel EEG.」、「浮気チェックスプレー」、ほかに「Chonosuke Okamura」など。「イグノーベル賞」に日本人受賞者一覧があります。なお、科学のとらえかたについてはかつてのコラム「科学のこころ [2001.10.29]」もご参考に。そのときの参考書『知のミネラルウォーター』もおもしろいです。




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 チンパンジーとヒトは、DNAレベルではほとんど違わない。進化するというと何か新しいことが加わったと考えがちだけれど、むしろDNAが失われたことこそ、ヒトへのきっかけとなったのではないかという説も有力だ。その観点から注目されるのが、米ペンシルベニア大などの研究チームの発表。 それによると、現代人への進化は、MYH16と名づけられた遺伝子に起きた突然変異がきっかけだったのではないかという。アフリカや南米、日本など、世界各国のヒトを調べたところ、共通してこの遺伝子が壊れて機能しなくなっていた。一方、チンパンジーなどヒト以外の七種の霊長類では、MYH16は正常に機能していた。この変異がいつ頃起きたかを調べると、およそ240万年前。現代人に近い特徴を持ったホモエレクトスが出現する少し前と、時期的に一致する。 この遺伝子MYH16は、あごの筋肉の形成に重要な役割を果たしているという。つまりヒトは、MYH16が壊れたことでアゴの筋肉が退化、かわって頭蓋骨が大きくなり、脳をおさめる空間が出来て、今のように知性を発達させたのだと。 何かを失うことで、別の可能性が生まれる。このことを、ぼくたちはつい忘れがちになる。進化とはそういうものではないのでこうした仮定には意味がないのだけれど、仮に240万年前、アゴの筋肉を失うかどうかという選択をしなくてはいけなかったら、どちらを選んだかと思う。アゴが弱くなることは、食べるという生存の基本行為で弱点を持つことになる。その選択を、しただろうかと。 この論文は、発表号の科学誌のカバーストーリーになっていて、見出しには「脳対筋肉」とあった。英語ならbrain対brawnとごろがいい。240万年前、ヒトはbrainを選択し、現代に至る道筋を得た。いま、世界はどうだろう。240万年前と違ってbrawnに頼ることが多いような、そんな気がしないでもない。

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 大洪水が地球を襲う。主導者は予言し、それに先立つ午前零時、宇宙船がやってきて信じるものを救うと訴えていた。マスコミを避け、布教活動もしない。それでも、彼を信じる小さな集団ができた。やがて予言の日がやってくる。信者たちは固まって夜を過ごす。午前零時、しかし宇宙船はやってこず、数時間後、大洪水も起きない。 信者らは主導者を責めたか。信仰を失ったか。否。宇宙船も、大洪水もないとわかったとき、主導者の妻は天からの声を受信し、自分たちの必死の思いが天に伝わって、破滅を逃れることができたと宣告する。信者らは、その事実を今度は積極的に世間に伝えようとする。長い目で見るとこの集団は解散するのだが、予言がはずれた後しばらくは、信者らの活動はむしろ強固になった。 自分たちが信じていたことがむなしかったとすれば、あまりに自分が悲しい。予言の日までは自分の内面で信じていればよかったのが、予言がはずれた今、自分の信念を固めるには、外部に賛同者を増やし、社会的に認めてもらう必要がある。だから布教に励んだと社会心理学者は説明する。ぼくたちは自分を守りたいものだし、そのために、世界の見方を作りかえることもある。この集団ほどでなくても、多かれ少なかれ、ぼくたちは世界を、自分を守るために組みかえて今日を生きているのだろう。 昨日だって。「遊んで」子どもにせがまれて、「ちょっと待ってて」と答える。「ちょっとだけ?」「うん、もう少し」言いながら、ぼくは子どもの「ちょっと」という世界を、自分の都合に組みかえて返事している。だけど。だけどたぶん、世界を組みかえることそのものは否定できず、ぼくたちはそれから逃れられない。だからそれを自覚した上で、他人が組みかえた世界と接しなくてはいけない。「まだ?」子どもが聞くので「もうちょっと」と答える、今日はほんの少し、彼の世界の時間に近づけて。

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