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ちょっと知的な雑学&トリビア

方眼紙の上で

2004年1月29日 【コラム
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 養蚕を営む隣家は、今も桑畑に囲まれた古民家の風情を残す。夏になると小屋からかしゃかしゃと葉をはむ音が漏れ、やがて幼虫たちは天井から吊るされた格子状の箱のそこかしこで繭を作る。日にかざせば、透き通った繭の中に身体を丸める幼虫が見える。
 それらが成虫になることは、ない。殻を破る前に殺されるからだ。たとえ野に放しても、成虫は身体が重すぎてほとんど飛べず、捕食者から逃げられない。伝説によれば、養蚕は紀元前2640年の中国で始まったという。当時から人は蚕を、絹の生産に適すように「改良」してきた。
 現代の遺伝子工学は、土壌細菌とトウモロコシなど、自然界では考えにくい組み合わせまで実現する。ぼくたちはかくも、自然に手を加えないではいられない。リンゴもイネもネコもブタも、手を加えられて今ある。それは必ずしも一方的ではなく、稲に一面を覆われた水田が同時に多様な生態系を生み出していたりするし、猫も、改良されつつ人を利用してきたかもしれない。
 ショウジョウバエとヒトは、およそ6億年前に分かれたという。それでも、ヒトの病気を引き起こす突然変異遺伝子289のうち、177がショウジョウバエにも見られるという。仮にいま大きな方眼紙の上にぼくたちが立ち、その隣に、遺伝的距離の分だけ離れてチンパンジーに立ってもらう。むこうには、同じ池で見つかった二匹のサンショウウオ。さらに遠くにはショウジョウバエもいる。注意してみれば、二匹のサンショウウオ間の距離のほうが、ぼくたちとチンパンジーの距離よりはるかに離れていたりする。
 今はしばし、自分の地図で世の中を見るのを避けてみよう。大きな方眼紙を広げ、それぞれの「間(ま)」に注意を払う。この数千年、蚕はその上を、どれほど移動しただろう。いまトウモロコシを、どれほど移動させようとしているのだろう。ぼくたちは、その方眼紙の中央にさえ、立っていない。

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5 comments to...
“方眼紙の上で”
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小橋昭彦

スー・ハベル『猫が小さくなった理由(わけ)』が参考になります。『欲望の植物誌?人をあやつる4つの植物』も気になる一冊。


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MAX

遺伝子組み替えは本当に世界人類を飢餓から救ってくれるんだろうか?
その前にどうして人間は戦争をやめて食糧を仲良く分け合うことができないんだろう?

すでに存在する生命を、チェスの駒のように方眼紙上を移動させるのは
人間に許された技なのか、それとも禁じ手なのか。

どんどん繁殖して決して枯れない花を売り、次にその花を駆除する薬を売る宇宙人の話、というのが
星新一氏のショート・ショートにある。

人間のやっている営みって、
時間を早送りするとそれと変わらないかもしれない。


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やむ

MAXさんの「チェスの駒のように・・・人間に許された・・・」は単なる人間の誇大評価かも知れませんよ?
確かに稲も猫も蚕も人間の営みに適合するよう改良されてきました。
しかし、本来遺伝子の多様性が種の全滅を防ぐ手段である事を考えれば、親子の間にさえ種の絶滅を避けるという、とてつもない可能性を秘めた距離があると言うことになるじゃないですか。
ですから、結局人間が行っている改良なんて、朝ヒゲを剃るかそらないか程度かも?

だからと言って、何をしても良いとは思えませんが。

遺伝子距離は遠くても、心の距離は遺伝子や種を示す数値と違って隣接していると信じたいですね。


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夢酔

篠田節子「絹の変容」という小説では改良された蚕が人を襲います。とても怖い小説でした。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4087727742/ref=sr_aps_b_1/249-6994682-4953966


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ささねこ

>それらが成虫になることは、ない。殻を破る前に殺されるからだ。

読んでいた目が止まる一文でした。
そうですね、忘れていた、というより意識すらしなかった事実です。

蚕は小学生のときに授業の一環で実際にクラスで飼っていました。桑の葉をやって繭になるのを見守って。
桑の葉をどれだけ食べた、何センチになったなどといって「いきもの」としてみていたのに、糸を取り出すときにはもうそんなこと忘れていたような気がします。糸がするする鉛筆に巻き取られることにばかり気をとられていました。

そんなことを思い出した今日の雑学です。




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 金縛りにあった経験のある人はどのくらいいるだろう。おそろしい夢を見、身体を動かそうとしても動かせない。もっとも動かせたら身体は過剰に反応して周囲に迷惑をかけることだろう。心理学者ジュヴェは、夢を見ることが多いレム睡眠時に、筋緊張が消失する現象を発見している。そのおかげで、驚き怖ろしい思いをしても、夢の世界の動きだけに終わらせることができる。 そもそも怖い夢、恐ろしい夢など見なければいいのにと願うけれど、悪夢にもそれなりの価値があるらしい。人間はずっと長く原始時代を生きてきたわけで、その間に身についたと考えるのが、夢のシミュレーション仮説だ。逃げたり闘ったりする夢を見ることで、いざ現実の場面に出くわしたときの模擬訓練をしているというわけ。夢の中で訓練をつんだ個体ほど生存確率が高くなる、こうして夢を見る人たちが生き残ってきた。 夢が生存競争を生き残らせてきたとすれば、ヒトだけに限らなくてもいい。実際、ネコでも睡眠時に脳が活性化し、人間と同じように眼球の急速な運動が起こることが確かめられている。ただ言葉を持たないネコは、それを解釈することをしないから、夢を見ていると言えるかどうか。ちなみに、アラン・ホブソンは、脳の活性化がまずあり、それによって発生したイメージを連想や記憶をからめてつなぎあわせたのが夢だとしている。寝ている間は脳内の化学環境が起きているときと違うから、つなぎあわせようとするときの分析力や注意力が弱まり、夢の特異性を生む。 4月に6歳になる長男が、このところ夢を怖がっている。何かストレスを与えていないかと反省しつつ、一方で、彼はいま社会の厳しさへのシミュレーションを積んでいるのかと、そんなことも思う。レム睡眠そのものは大人より赤ちゃんの方が多くとっているわけで、子どもたちはそのたびに原始世界にタイムスリップし、生存への備えをしているともいえる。なんともけなげで、壮大な夢。

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