小橋 昭彦 2004年1月15日

 その物理学論文を読みながら思い出していたのは、ポーの「メールストロムの渦」だった。大渦に巻き込まれた男が、奇跡の生還を果たす。ただ小説の場合と違って、ブラックホールに落ち込むという、論文に描かれた状況はより厳しい。多少なりとも生きながらえるすべはあって、それが論文を書いたゴットらの主題だが、腰の周りに質量1京2800兆トン以上の巨大な輪をまとえばいい。
 メールストロムに続いてタイタニックを思い出し、緊急時の脱出機構について調べてみる。戦闘機の脱出装置を作っているマーティン・ベーカー社によれば、これまで7000人を超えるパイロットの命を救ったとか。宇宙船としてのスペースシャトルには備わっていない。コストや重量などとの兼ね合いだ。潜水艦にも同様の問題があり、今は英国で開発されたSEIEという、水面に出てからも体温を保つことができるスーツが人気。
 ブラックホールに戻る。ブラックホールでは、足から先に落下したなら、つま先が引き込まれ、肩は押しつぶされる。うどんのようになってしまうわけだ。その時間は0.1秒足らず。痛覚の伝達速度をおおむね秒速10メートルとすれば、「あいた」と感じる余裕はありそうだ。冒頭の救命具は、重力で足と頭を引っぱることにより、この時間を26分の1に短縮するという。痛みを感じる間はなさそうだし、生きながらえる時間が0.09秒増えるから、ほんの少し、人生が長くなる。ただ、国際宇宙ステーションでさえ完成時の重さが450トンというから、救命具を作るのはたいへんそう。胎児のように丸まって肩の線を中心に向けることにも効果があるという。
 星の世界を渡って後のコンマ以下の人生に意味があるかはわからない。いや、だからこそ意味があるのか。相対論効果を考えれば、この数瞬は地球から見ている人にとっては永遠に近い時間ともなる。その数瞬を、どう生きるか。救命具以上に重い課題だ。

3 thoughts on “数瞬の救命

  1. ゴットらの論文は「A Black Hole Life Preserver」です。「Black Hole Life Preserver: Don” t get sucked in without one」に解説記事。ポーの作品、日本語ではテキストがないですが、英語でなら「A Descent Into the Maelstrom」など。脱出に関して、舟からの脱出ボートは「Schat-Harding」などが、戦闘機からは「Martin Baker」が主要企業。潜水艦からの脱出スーツは、「Submarine Escape & Rescue」に写真があります。Popular Scienceの特集記事「GET OUT NOW!」をご参照ください。神経線維での伝達速度については「神経細胞」、国際宇宙ステーションについては「国際宇宙ステーション(ISS)の大きさ、重さはどれくらい?」を参考にしました。

  2. “見えない極小の分子の動きを描き、遠大な宇宙空間を描ける人間”の可能性を感じて面白く読ませて頂いています。神経の伝達速度が10m/秒との事で思ったのですが、死の直前に人生を走馬灯のように省みると言いますがその時間ってどのくらいなんでしょう?
    ふと、数瞬、刹那の中に込めることが出来る価値を考えてみました。

  3. こんにちは.
    聞きかじりの話をはじめると火傷するかもしれませんが、神経伝達速度よりも身体が伸びていくほうが速いので足の痛みは永遠に感じない、ということはありませんか?
    そうであればどんどん遠ざかっていく自分の爪先を見られることになるのでしょうか.落下(相対的な)速度が高まるにつれ時間の経過が早くなっていく地球を見上げながら(ムリですけど)の私の最後の数瞬は
    ”うわー、俺チョー足長げ0”とボケをかませそうです(失礼).

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