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ちょっと知的な雑学&トリビア

自分って何

2003年8月21日 【コラム
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 国立国語研究所で外来語の言い換え提案が行われている。案の中に「アイデンティティー」が含まれていて、「自己認識」「独自性」「自己同一性」といった言い換え例があげられていた。identityというつづりには「I」が含まれているけれど、たとえば米国人の「I」と日本人の「自己」はずいぶん違うだろうとそんなことを考える。
 日米の子育てを20年にわたって比較研究してきた結果がある。アメリカの子育ては子どもが独立した思考によって選択・主張することを重んじるのに対し、日本の子育ては社会における役割を受け入れることを重視するという。そういえばぼくも子が電車内で騒いでいたら「他の人が迷惑するでしょう」と叱る。社会という視点を与えているわけだ。
 国際比較調査に「私は……」に続いて自己記述を書かせるものがある。「私は会社員だ」「私は母親だ」といった社会的な役割を記述する割合は、アメリカ人よりアジア系の被験者が高くなる。逆に「親切だ」などの抽象的記述は、アメリカ人で6割近くあるのに対し日本人は2割弱。ところが質問を「家庭で私は……」のように限定した状況にすると、日本人は抽象的な記述をする割合が倍増し、アメリカ人は半減する。日本人は周囲との関係があってはじめて「親切」といった内的属性が認識されるのに対し、アメリカ人にとっては周囲の状況はむしろ限定要因なのだ。
 どちらが優れているという問題ではない。アメリカ人がアイデンティティの確立を重視するとすれば、それはそういう教育なり社会環境なりがあるからで、そういう意味で個人が文化との相互作用によって成立するという点に違いはない。自分っていうのは、ただひとつの個体じゃなく、文化と呼吸しあって成立してきたダイナミックな何かなんだ。ぼくたちが誰かとつきあうってことは、その人が生きてきた歴史や文化と向き合っているってことでもあるんだよね。

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6 comments to...
“自分って何”
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小橋昭彦

文化心理学という分野があって、「北山忍」教授らが代表的研究者です。その著書『自己と感情』はたいへんおもしろくおすすめ。コラムで引用した日米比較は『日本人のしつけと教育』の東洋教授によるもの。あと、「「外来語」言い換え提案」もご参考にどうぞ。


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通りすがりのひとみ

外来語の言い換え(第2案)、先日拝見しました。
「ユビキタス」は「時空自在」でしたっけ….
日本語にしても分かりにくいですよね。
「たん」は笑いました。これもアイデンティティ、
社会との関わり、の端緒ですね。
我が娘ももうすぐ2歳。そんな年頃です。


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テラ

初めまして,テラと申します.
ご存知の方もいらっしゃると思いますが,
通信教育のZ会に勤務し,会員限定のメールマガジンの発行編集長(?)をやらせていただいております.
(ちなみに「テラ」は,そこで登場する私のキャラクターです.いつかは会員ではなくても購読できるメルマガをやりたいんですけどね)
いつも『今日の雑学+』は業務の一助として大変役に立っております.

発行しているメルマガの種類の中で,携帯版に
「時事用語メルマガ」と称しているものがあるのですが,
そこでこんなのを出したんですね.

【ユビキタス】ラテン語で「どこにでも存在する」という意味の言葉.
生活環境の様々な場面にコンピュータが存在し,自在に活用できることを指す.
国立国語研究所の外来語委員会が先日発表した言い換え語としては「時空自在」という言葉があてはめられる.(以下略)

そしたらある会員から「天声人語のパクリだ!」と言われてしまいました(苦笑).
確認すると,確かに8/8の朝日新聞の朝刊がそんなヤツで.
でも,天声人語のパクリなんて,そんな危険なこと(笑)絶対やらないんですけど…とか
定義と記事の紹介は事実なんでどうしようもないんだけどなあ…とか(以下略の部分がオリジナル).
とは高校生にはわからないかな.さすがに

今回の記事の冒頭も,もしメジャーな新聞で「アイデンティティ」が取り上げられていたら,高校生にはパクりと捉えられるのかなあ,と思ってしまいました(笑).

やっぱりこの記事って,思わず「くすっ」となりますからみんな注目するんですね.
自分は,「ユビキタス」という用語が,「高校生はあまりなじみないだろうけど結構使われる用語→だから知っておこう」という意味で取り上げたんですけどね.

と,記事と「通りすがりのひとみ」さんの投稿を見て書きたくなってしまいました.

これからもメルマガに期待しています.

追:学生時代は環境工学専攻でしたので,etcで取り上げられる記事もいつも興味深く読ませていただいています.


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rnakaji

「アイデンティティ」というと、中島敦の「悟浄出世」を思い出します。自らの個性について意識することは、その個性に対する疑問も意識せざるを得ない。自分自身で意識しないところに自己がある。
神の審判は自己責任で受ける社会は速やかな自己確立が必要になるのでしょう。他人の助けは得られないから。社会が相手だと立場によっては甘えられるし、親兄弟や世間の助けが得られる。そのためには社会や家族への従属性が必要なんじゃないでしょうか。


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マナベ

>日本の子育ては社会における役割を受け入れることを
>重視するという。
>そういえばぼくも子が電車内で騒いでいたら
>「他の人が迷惑するでしょう」と叱る。
>社会という視点を与えているわけだ。

では、この(電車で騒ぐ子供を注意する)場合、
アメリカではどういうふうに躾けているのでしょうか?


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小橋昭彦

マナベさんありがとうございます。ごめんなさい、個別事例としてのアメリカの場合はわかりません。一般論から演繹するなら、「神様が見ているでしょ」とかかなあ、と思います。社会的な視点ではなく、個人としてどうあるべきかという価値観ですね。




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 ビンゴゲームはご存知だろうか。主催者は1から75より無作為に数字を選ぶ。参加者は5行5列25マスにランダムに数字が書かれたカードを手にし、一致する数が出ればそこに穴を開ける。5マス連続して開けば「ビンゴ」。10個も穴を開けないうちにビンゴになる幸運な人もいれば、20個近く開けてようやく並ぶという人もいる。もっとも多いのは、およそ15個くらいでビンゴになる人。マスは全部で25個あるから、6割くらい開いたところでビンゴという人が多いわけだ。 この6割という数字に、意味がある。たとえば碁盤の上にランダムに黒石を置き、その目が何割ほど埋まったとき、上の端から下の端まで縦横をたどって黒石がつながるか。これも、およそ6割なのだ。仮に碁盤を無限に広げて行うなら、この数字は正確には59.27%ということになる。こうしたつながりを考える分野、専門的にはパーコレーション理論と呼ばれている。 理論によると、59.27%という数字はつながり方や空間の次元数によって差があり、たとえば3次元空間で単純な立方格子にするなら、3割そこそこが埋まるだけで端から端までつながる。見方を変えて、ひとつの点からどのくらい接点が出ていれば、無限の向こうまでつながることが可能か。答えは、二次元で4.5、三次元で2.8。重複を除くならだが、ぼくたちはひとりあたり4.5人を知っていれば、地球上の誰とでも、知人をたどれば必ずつながることになる。 ぼくがパーコレーションという言葉を知ったのは、社会人になった頃だった。たとえ無限の向こうとでも、何割かの升目を埋めるだけでつながるということがとてもやさしく思え、印象的だった。そして十数年。ネットワークについて調べていて、ぼくは再びパーコレーション理論に出会う。それは、自分自身にとっても自らを模索してきた期間。時を隔てて自分自身もまた、網目の向こうの自分とつながっているのだった。

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 たとえば、魚にはしっぽがある。生物学的にいう尾部とは肛門の中心から体幹の後端までを言うそうで、魚の場合ならおおむねぼくらの常識でいう胴体の多くが尾部であったりもする。尾びれは含まない。ややこしいから、ここは一般常識でいうしっぽで話を続けよう。変態によって吸収されるカエル類などしっぽのない種はあるにしても、身のまわりの動物を思い出すなら、けっこう多くの種にしっぽがある。犬や猫にはもちろん、鳥類にもあるし、かつての恐竜にもある。クジラにもある。猿にだってある。 そうして考えていくと、むしろなぜぼくたちヒトにしっぽがないのだろうと、そのことが気にかかる。ご存知のように、しっぽの名残はある。脊柱の最下部に下向きに突き出した尾骨だ。おかげで尻餅をついたときに痛い思いをしたりする。チンパンジーやボノボといった類人猿にもしっぽがないから、共通祖先から猿と類人猿に分かれた後のどこかで、ぼくたちはしっぽを失ったということであろう。いつ頃と問われれば、すくなくとも1600万年以上前であったことが、アフリカで見つかった化石からわかっている。ケニア北部で見つかった類人猿ナチョラピテクスの化石の尾椎(びつい)には脊髄が通る穴が無く、しっぽを形成しなかったと判断されるのだ。樹上を機敏に動き回るにはしっぽが不可欠。しかし手足の握力が高まり、ゆっくり登るならしっぽがない方が邪魔にならない。だから「退化」したのではという説がある。 それにしてもしっぽとは奇妙な部分。初期の魚類にとってそれは推進力を生むものだったが、リスにとってはバランス器官だし、鳥にとっては舵取り装置。イヌはそれで気持ちを表し、サソリは武器とし、トカゲは逃亡にあたって切り落とし、ウシはハエ追いに利用する。同じ部位でありつつ、使われ方の多様なこと。ぼくたちにあれば何に使ったろう。

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