ざつがく・どっと・こむ
ちょっと知的な雑学&トリビア

気候と歴史

2003年4月28日 【コラム
Share...Share on FacebookShare on Google+Tweet about this on TwitterShare on LinkedIn

 100年近く前、地理学者のハンチントンが、気候が人類の進化に影響を与えてきたと唱えた。当時は注目されたが、証拠の弱さもあって20世紀半ばには人気を失う。これは環境考古学を提唱している安田喜憲教授が書いていることだけれど、1970年代には、気候が人類に影響を与えると唱えようものなら非科学的と批判され学会から追放されかねない雰囲気でさえあったという。歴史を動かしてきたのは文化的要因であり、気候が社会を変えたなんて安易な環境決定論と非難されたわけだ。
 そうした空気も近年は変化した。たとえばエール大学のハーベイ・ワイス教授は、紀元前2000年頃の旱魃でエジプトからインドにかけての文明が衰退したと唱えているし、リチャードソン・ギル博士は、古代マヤの文明に影響を与えたのも旱魃と唱えている。1980年代半ばにジョン・フレンリー博士らによって発表された、巨石モアイ像で知られるイースター島に関する研究はひときわ印象深い。巨石文化は別の民族の遺跡というのが定説だったのに対し、イースター島文化の起源は5世紀か6世紀頃にわたってきた数十人の一団で、彼らが後に高度な文化を築いたこと、それが人口7000人以上に爆発、小さな島の資源を使い尽くし、互いに争い食い合うまでになって衰退したことを明らかにした。まさにいまぼくたちが地球規模で直面している問題と同じではないか、と大きな注目を集めた。
 気候が歴史を変えたという見方には、いまも冷めた評価をする研究者が少なくないという。そういえばぼく自身、地球環境が大きく変動する現代にあって、最終的に人類はそれを乗り越えると信じている気がする。本当の意味で、気候が歴史を左右するとは信じていないのだ。それは、未来を信じ切りひらくために必要な信念だろうか、あるいは単なる思いあがりだろうか。イースター島からぼくたちが学べるのは、何だろう。

Share...Share on FacebookShare on Google+Tweet about this on TwitterShare on LinkedIn

3 comments to...
“気候と歴史”
Avatar
小橋昭彦

参考書としては『環境考古学のすすめ』『環境と文明の世界史』をどうぞ。「安田喜憲教授」の考え方については「WEB講義」がわかりやすいです。ハンチントン博士(サミュエルじゃなくね)については「Ellsworth Huntington」で代表的な書籍の一部が読めます。Harvey Weiss博士に関しては「Tell Leilan Project」をどうぞ。ここのシミュレーション・アプレットも注目。イースター島、「John Flenley」教授のサイトは充実。


Avatar
maricheb

地球規模、人類の進化、となると信ぴょう性が薄くな
る話も、身近なことで考えれば、あり得るように思い
ます。やっぱり寒い地域の人は我慢強いし、南の人は
のんびりした人が多いように思います。
そういえば、私は埼玉の秩父盆地出身ですが、田舎な
のに我が強く気性の烈しい人が多いのは朝晩の一日で
の気温差が日本一激しいからではないか、と言ってい
た人がいました。そのときは何とも思わなかったので
すが、後に、食べ物と体のことを多少学んだりして、
その土地で収穫される食べ物や気候で影響されること
はあるだろうなと思っています。人が、自然に与える
影響も大きいと思いますし。

 自然はいろいろなものを創り
 人はそれを生かす

旅先で立ち寄った蕎麦屋に掛っていた言葉ですが、妙
に心に残りました。


Avatar
いしだたかし

はじめまして。いつも興味深く読ませていただいています。地球規模の環境問題が文明を左右していくであろうという話しで、「VERTIGO」というボードゲームが正にその問題を深刻に感じさせてくれたのを思い起こします。

環境変化により生物が進化淘汰されるようなゲームも近年いくつか続けて出ており、環境と生物のダイナミズムが注目を浴びているように思います。

個人的な意見としては、環境と生物相は不可分のもので相互に強く影響しあって共に進んでいると思います。人類の叡智がその関係を越えて、一方的に環境を支配できているかどうかと言えば、現時点までのところできてはいないように思います。けれども他の生物よりも環境を凄い勢いで変えてしまう力を握ってしまっていることは良くも悪くも事実なのではないでしょうか?




required



required - won't be displayed


Your Comment:

 決めなくてはいけないことがあって、候補が3つあったとする。話し合って決めるわけだけれど、それぞれの思いがあって決めにくい。そこでまず2つの候補で決をとり、選ばれたほうと、残ったひとつを比べることにする。2つの比較なら決めやすいし、結果としても民主的。その考えが間違いと知ったときは、驚いた。極端にはなるけれど、じゃんけんを例にしてみよう。まずパーとグーで決をとる。パーの勝ち。そこでパーとチョキで決をとる。チョキが勝つ。結果、チョキが選ばれる。どこかおかしい。現実の多数決においてもこの状況は起こりえ、投票のパラドックスとして知られる。その場合、議長は自分が通したい案を最後にたたかわせるだけで、思いがかなうことになる。 合議なら三人寄れば文殊の知恵、最高のパフォーマンスを得られるだろうか。社会心理実験の結果によれば、グループで問題を解いたとき、平均的なメンバーの水準よりは上に行くけれど、最良のメンバーほどの成績はおさめられないという。ならば最良のメンバーの中に埋もれているものをいかに引き出すかがポイントか。しかし、これもまた難しい。ステイサーらが行った実験によると、グループで議論する場合、メンバー間で共有して持たれている情報が議題に上る可能性が高くなる。そこで、ひとりの中で眠っている情報を表に出そうと「できるだけ情報を思い出して議論しよう」と言ったとする。ところが意に反して、個人の中で隠されている情報が思い出される以上に、共有情報が話し合われる可能性がいっそう高くなるという矛盾がある。 そんなこんなで、民主的な意思決定って何だろうと悩んでいたとき、民主主義とはやり直しのチャンスを残した実験という言葉に出会った。新しい事実が出てきたとき、いつでも前の決定を見直せるのが民主主義だと。それはなんだかとてもやさしいことに思え、ナイーブにすぎるかとは思いつつ、しばし、心を休めた。

前の記事

 コラムで多数決について書いた週末、町議会選挙の投票日。16の議席に18人の立候補者。用紙に書ける名前は一人、得票数が多い順に議員に選ばれる。こうした単記投票は多数決の結果を反映しにくいと、コラムを書く際に佐伯胖教授の『「きめ方」の論理』で読んでいたので、投票行為そのものを興味深く楽しんだ。なるほど、単記投票での多数は、他の選択肢との優劣を意味しない。簡単な例をあげれば、16番目で当選した人と17番目で落選した人とで決選投票をしたなら、17番目の人が選ばれるかもしれないわけ。 優劣を反映したいなら、1位から順に点数をつけて投票するボルダ方式がある。年末の書籍ベスト投票などで見かける方法だ。この場合は、多数決の結果と一致する確率が高くなる。もっとも、18人の候補に順位をつけるなんてまず無理。そういう場合は、おおむね立候補者数の半分くらいの候補を選んで投票する方法なら、多数決の結果と一致する確率が高くなるという。ただ、選挙制度は多数決原理だけで判断できるものではなく、これだけをもってあらためるべきとは言えない。 そもそもぼくたちは選挙で、いちばんいいと思う人に投票しているのだろうか。あの人は当選確実だからこっちの人を応援しておこうなんてこともあるだろうし、ほどほどにバランスよく、それなりに納得できる方向であればいいと思っている気がする。佐伯教授の著書には、ぼくたちは「モノ」ではなく「コト」を選んでいるとあって、印象深かった。確かにぼくたちは、厳密にモノの優劣だけではなく、選ぶプロセスや、選んだ後の関係などを総合的に判断している。多数決をとりあげたコラムへの感想にも、きめ方の正確性というより、決める過程や決めた後の人間関係を含んだ意見が多く、そうだよな、ぼくたちはそうして日々を生きていく社会的な動物なんだよなと、そんな感慨を抱いたのであった。

次の記事