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ちょっと知的な雑学&トリビア

グループで決める

2003年4月24日 【コラム
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 決めなくてはいけないことがあって、候補が3つあったとする。話し合って決めるわけだけれど、それぞれの思いがあって決めにくい。そこでまず2つの候補で決をとり、選ばれたほうと、残ったひとつを比べることにする。2つの比較なら決めやすいし、結果としても民主的。その考えが間違いと知ったときは、驚いた。極端にはなるけれど、じゃんけんを例にしてみよう。まずパーとグーで決をとる。パーの勝ち。そこでパーとチョキで決をとる。チョキが勝つ。結果、チョキが選ばれる。どこかおかしい。現実の多数決においてもこの状況は起こりえ、投票のパラドックスとして知られる。その場合、議長は自分が通したい案を最後にたたかわせるだけで、思いがかなうことになる。
 合議なら三人寄れば文殊の知恵、最高のパフォーマンスを得られるだろうか。社会心理実験の結果によれば、グループで問題を解いたとき、平均的なメンバーの水準よりは上に行くけれど、最良のメンバーほどの成績はおさめられないという。ならば最良のメンバーの中に埋もれているものをいかに引き出すかがポイントか。しかし、これもまた難しい。ステイサーらが行った実験によると、グループで議論する場合、メンバー間で共有して持たれている情報が議題に上る可能性が高くなる。そこで、ひとりの中で眠っている情報を表に出そうと「できるだけ情報を思い出して議論しよう」と言ったとする。ところが意に反して、個人の中で隠されている情報が思い出される以上に、共有情報が話し合われる可能性がいっそう高くなるという矛盾がある。
 そんなこんなで、民主的な意思決定って何だろうと悩んでいたとき、民主主義とはやり直しのチャンスを残した実験という言葉に出会った。新しい事実が出てきたとき、いつでも前の決定を見直せるのが民主主義だと。それはなんだかとてもやさしいことに思え、ナイーブにすぎるかとは思いつつ、しばし、心を休めた。

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9 comments to...
“グループで決める”
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小橋昭彦

今回は『複雑さに挑む社会心理学』を参考にしました。このところ、社会心理系のネタが多いですね。すみません、まとめ読みしていたりするもので。


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olsikeda

この表題は、私のHPに紹介している「多数決は正しいか」という内容に該当するもので、元々はKT法と呼ばれた思考手法の中に例示されています。小橋さんの感傷に同意し、
多数決が正しい、多数決に従うべきという国内の風潮にいささか疑問も感じています。最近、参考になる雑学の御紹介が多く、内容に興味深々です。
「複雑さに挑む社会心理学」なるものも購入して呼んでみたいと考えています。


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松本秀人

多数決とは、「みんながそれを選んだんだから、正しい」ということではなく、「みんなで選んだんだから、しかたがない」という、納得のための手段だと思うのですが。


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SPD

なたね梅雨でしょうか、こんな日が続くと学童保育は
外遊びが出来ないので、狭い部屋でひしめきあってト
ラブル続発!そんなときは『正直ジャンケン』で一発
解決?!多数決も大いに役立ちます。いまのところ、
これほどスピーディで簡単な方法は見つかりません。
ただ時として合点がいかない子の非常なアピールで、
もう一度最初からジャンケンのやり直しも発生しま
す。一同水に流し(イヤイヤの子のしぶしぶ)スタート
地点から。子供って結構マナーいいですよ・・・。


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YM

最近ミーティングする機会が多いのですが以下のことで悩んでいます。グループミーティングは一定以上の能力や知識がある者同士でやる場合には大きな成果が上がると思いますが、能力に大きな差がある者同士がする場合、能力の高いものに依存してしまう傾向があるのです。私の悩みは後者です。。。また多数決での判断をする場合の判断基準がバラバラです。ある者は楽しくするためにはÅだと言っても、ある者は役に立つのはBだと言ったりします。ミーティングの目的や判断基準の意識統一と、個々の能力のレベルアップがグループミーティングする上で大切だなぁと痛感しています。


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TN

仕事で公園の設計をしています。
現在,市民や地域住民の意見を聞きながら
公園の再整備計画をつくっています。
市民との話し合いの機会を繰り返し開催しているので
すが,
「今日の雑学」のパラドックスと同じようなことを感
じています。
うちの会社では「物議を醸すようなものでなければ本
当にいいものではない」
というようなことも言っています。
そういう意味では民主的な意志決定は必要ですが,
合意形成ってものはかならずしも必要ではないのかも
しれない・・とも思います。
デザインが決まるときとか
サッカーで点が入るときもそうかもしれませんけど,
いろんな考え,いろんな人が入り乱れている
カオスの中から,結果が突然うまれてくるような
気がします。

こんなこと市民に聞かれたら怒られるかなぁ。


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きづは

A>B、C>A だから、Cじゃなく、
A>B,C>A じゃぁ、C>B? を考えればいいんですよね?
きっとC<Bになって、困っちゃうんです。
C>Bでも、多数決に潜在する問題は別のものですが・・・


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thebox

3人寄れば「文殊の知恵」並みになるのは何かと考えると、発想の多様性かもしれません。
ところがその3人の合議で物事を進めていく場合、同意を得なくてはなりませんから、お互いの最大公約数で話をする必要がでてきます。ですが、そうするとせっかくの多様性が失われる訳で。合議性⇔多様性なのでしょうか。
できる事なら、多様性が失われない範囲でインフラ整備したい所ですが、人間同士ではそうゆうわけにもいきませんし。
3人とは全く無関係の10人(程度)に合議は任せて、アイデアの「発想」担当と「選択」担当を分ける事にすれば….まあ、根本的な解決にはなりませんね(^^)


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しゃあ あずなぶる

松本秀人 様  あなたは 正しい。




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 体育座りって、こうやで。風呂場の脱衣所で子どもがそういって、脚を抱え込んだ。幼稚園で習ってきたらしい。かわいいのだけれど、竹内敏晴氏の著作を読んだ後だったので素直に喜べない。大人になると慣らされているが、本来は子どもに自由を許さない姿勢だと竹内氏は指摘する。自分の手で脚を縛り、手も足も出ないよう小さくなって息をひそめる。一理あると思い、保育園から幼稚園へ、つまりは教育を担当する省の管轄になるとさっそくその姿勢を習ったことに、なんだか複雑な思いを抱いたのであった。 一方、かしこまった姿勢の代表としてイメージする「気ヲツケ」は、旧陸軍の歩兵操典によれば上体を15度前傾することという。手の小指を脚に添わせ手のひらは前に。直立不動というより、命あれば常に歩みだせる姿勢だ。軍隊といえば、これは有名な話だが、江戸時代まで日本人は歩くときほとんど手を振らない、振っても阿波踊りのように手と足同じ側を出していたのを、左足を前にすれば右手を前にという歩き方にしたのも、教育。歩くとき上半身がぶれないようにし、戦闘時の機敏さを確保しようという狙いだろうか。 話は逸れるけれど、プロ野球選手やJリーガーに4月5月生まれが多いというのはご存知だろうか。統計的にも有意な差があり、逆に2月3月生まれは少ない。子どもの頃クラスの中で体格が大きいことから、中心となって活躍し鍛えられたためと推測されている。生まれ月による体格差が無くなる頃には実力差がついてしまっているというわけだ。 ふだんぼくたちは、気持ちがからだを動かしていると思っている。しかし逆に、姿勢が無意識に自分を縛っていることはないか。からだにとらわれて本質を見失っていないか。そんなことを思う。背を丸め、肩に力を入れて世間を拒絶することをやめてみないか。視線を上げ、胸を開いて、からだの向こうにあるものを受け入れてみないか。

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 100年近く前、地理学者のハンチントンが、気候が人類の進化に影響を与えてきたと唱えた。当時は注目されたが、証拠の弱さもあって20世紀半ばには人気を失う。これは環境考古学を提唱している安田喜憲教授が書いていることだけれど、1970年代には、気候が人類に影響を与えると唱えようものなら非科学的と批判され学会から追放されかねない雰囲気でさえあったという。歴史を動かしてきたのは文化的要因であり、気候が社会を変えたなんて安易な環境決定論と非難されたわけだ。 そうした空気も近年は変化した。たとえばエール大学のハーベイ・ワイス教授は、紀元前2000年頃の旱魃でエジプトからインドにかけての文明が衰退したと唱えているし、リチャードソン・ギル博士は、古代マヤの文明に影響を与えたのも旱魃と唱えている。1980年代半ばにジョン・フレンリー博士らによって発表された、巨石モアイ像で知られるイースター島に関する研究はひときわ印象深い。巨石文化は別の民族の遺跡というのが定説だったのに対し、イースター島文化の起源は5世紀か6世紀頃にわたってきた数十人の一団で、彼らが後に高度な文化を築いたこと、それが人口7000人以上に爆発、小さな島の資源を使い尽くし、互いに争い食い合うまでになって衰退したことを明らかにした。まさにいまぼくたちが地球規模で直面している問題と同じではないか、と大きな注目を集めた。 気候が歴史を変えたという見方には、いまも冷めた評価をする研究者が少なくないという。そういえばぼく自身、地球環境が大きく変動する現代にあって、最終的に人類はそれを乗り越えると信じている気がする。本当の意味で、気候が歴史を左右するとは信じていないのだ。それは、未来を信じ切りひらくために必要な信念だろうか、あるいは単なる思いあがりだろうか。イースター島からぼくたちが学べるのは、何だろう。

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