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ちょっと知的な雑学&トリビア

からだのこと

2003年4月21日 【コラム
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 体育座りって、こうやで。風呂場の脱衣所で子どもがそういって、脚を抱え込んだ。幼稚園で習ってきたらしい。かわいいのだけれど、竹内敏晴氏の著作を読んだ後だったので素直に喜べない。大人になると慣らされているが、本来は子どもに自由を許さない姿勢だと竹内氏は指摘する。自分の手で脚を縛り、手も足も出ないよう小さくなって息をひそめる。一理あると思い、保育園から幼稚園へ、つまりは教育を担当する省の管轄になるとさっそくその姿勢を習ったことに、なんだか複雑な思いを抱いたのであった。
 一方、かしこまった姿勢の代表としてイメージする「気ヲツケ」は、旧陸軍の歩兵操典によれば上体を15度前傾することという。手の小指を脚に添わせ手のひらは前に。直立不動というより、命あれば常に歩みだせる姿勢だ。軍隊といえば、これは有名な話だが、江戸時代まで日本人は歩くときほとんど手を振らない、振っても阿波踊りのように手と足同じ側を出していたのを、左足を前にすれば右手を前にという歩き方にしたのも、教育。歩くとき上半身がぶれないようにし、戦闘時の機敏さを確保しようという狙いだろうか。
 話は逸れるけれど、プロ野球選手やJリーガーに4月5月生まれが多いというのはご存知だろうか。統計的にも有意な差があり、逆に2月3月生まれは少ない。子どもの頃クラスの中で体格が大きいことから、中心となって活躍し鍛えられたためと推測されている。生まれ月による体格差が無くなる頃には実力差がついてしまっているというわけだ。
 ふだんぼくたちは、気持ちがからだを動かしていると思っている。しかし逆に、姿勢が無意識に自分を縛っていることはないか。からだにとらわれて本質を見失っていないか。そんなことを思う。背を丸め、肩に力を入れて世間を拒絶することをやめてみないか。視線を上げ、胸を開いて、からだの向こうにあるものを受け入れてみないか。

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14 comments to...
“からだのこと”
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小橋昭彦

竹内敏晴氏の著書は『教師のためのからだとことば考』などをどうぞ。新鮮な視点が得られます。実際のからだとことばのレッスンもおもしろそうですね。公式サイト「Body&Words」、体験記「からだ畑ことば畑」、「からだとことばのレッスン」などに情報があります。プロ選手の誕生月については、たとえば「プロ選手の誕生日」をご参照ください。じつはこれ海外でも言われており、その場合日本とは月が違いますが、やはりシーズン開始直後の月に生まれた選手が多くなっているそうです。94年のネイチャーに論文が掲載されているそうですが、未確認のためコラムでは触れることができませんでした。


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ヒロ

体育の大嫌いな私ですが、体育すわりの
もうひとつ意味もあると考えています。
ほかの人に迷惑にならないように座る、
狭い自分のエリアを維持するのい体育すわりと
いうことになるのではないかなぁ・・と
自分を守り相手をまもるためにはルールがいるのだと
そう考えてもいいのではないでしょうか・・・
エリアの中では自由にしちゃっていいのだと
理解しております(^_^;)


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小林慧智

心身一如と申します。
若い時に体を躾、心を躾ていないと、益々軟弱な人間が増えてしまいます。
21世紀を担う子供たちこそ、坐禅で心身の鍛錬が必要なのではないでしょうか。


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小橋昭彦

小林さん、ありがとうございます。

おっしゃるとおりと思います。ぼくも今、子どもと毎日正座して黙想することを日課としています。姿勢が自由奔放だからいいとは思えませんね。

からだとこころを分別して無意識でいるより、からだのことば、こころの姿勢をいっしょに意識して、自分をとらえてみよう、っていうのがコラムに託した思いです。

体育座りがどういう目的かわかりませんが、ヒロさんのご指摘にもあるように、なぜその姿勢なのかを考えて納得していくことが、ただ命令されたからとその姿勢をとるより、子どもにとっていいのではないかと思います。ヒロさんも、納得があったからこそ、自由を得た?


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こま

『教師のための体とことば考』は私も大いに刺激を受けました。
身体を使うことで頭も使う、西洋近代化によって分離してしまった身体と頭脳を結びながら物事を考える試みをしています。
日本の伝統芸能や伝統武術はもともとそうしたものでした。
日本舞踊を教えると、子供だけでなく70過ぎた大人まで
頭しか使っていないことを痛感します。
黙って師匠のすることを細大漏らさず見てまねる(まねぶ)、そういう技術をすっかり忘れているのです。


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たぬき

歩き方、手の振り方
別に教育だからでもなんでもなくて、上半身がぶれると歩きにくい
でしょう? 手を振らないのはまだましですが、手足を同じように
降っていたらまともに歩けないのですが。何も考えなくても勝手に
手足が逆に出ている。これは、自然の理にかなっている証拠だと思
いますが。

体育座り
これが不満ならそれ以外にどんな座り方がよいのでしょう?
あぐらでしょうか? まぁ、子供には似合わない気がする。
正座? 今の軟弱な子供には数分でも無理でしょう。
椅子? いちいち椅子を並べていたら、集会なんか大変ですよね。

なんか、自分たち親がちゃんとした教育をしていない癖に、学校の
教育にケチをつける変な親が多いですね。どうしたものか。今の子
供が親になる頃はさらに酷くなるでしょうね。

という感想を持ちました。
気分を害されたらごめんなさい。
でも、そんな感じを受けるのです。


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小橋昭彦

たぬきさん、ありがとうございます。

歩き方については、そうしていろいろな見方で検討してみるとおもしろいですね。ようやく歩きはじめているうちの子を観察していますが、さてどうなるでしょう。ほか、江戸以前の日本人の歩き方がではなぜ左足左手であったか(絵に描かれています)、あるいは類人猿はどうなっているか、など。和服を着て歩いてみるのも参考になりますね。

体育座りについては、まさしくおっしゃるとおりと思います。その座り方しかない。とすると、やはり外部的な要因であり、自然なしぐさではないのでしょうか。たいせつなのは、そうして背景を考え「慣れ」の思考を脱することと思います。

教育にケチをつけたり擁護したりという視点はぼくは持ちません。それではどこか他人事ですから。自分ならどうするということを、本質をふまえて常に真剣に問う必要があると思います。

コラムの主旨は少し上のコメントで触れている通りですが、伝わりにくい文章となっていたようですね。ごめんなさい。


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YUKI

いつも楽しく読ませていただいてます。

僭越ながら少し気になったので。歩くときに手足を同じ側で動かすというのは、
古来から伝わるなんば走りに通じる古武道の動きかと。
体をねじらないことでためなく次の動きに移行でき、
最終的には動作のおこりを消す無拍子になります。
有名なところでは巨人の桑田選手が取り入れてる武術もそうであり、
また、バスケットでも古武術を取り入れた動きが有名になっていると思います。

自分も大東流合気柔術という古武術をやっているので、ちょっと気になりましたゆえ。


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小橋昭彦

YUKIさん、ありがとうございます。

なるほど、古武術。いい視点をいただきました。とすると、どうなのでしょう、江戸時代以前の人たちは古武術に親しんでいたから日常の動作もそのようになったのか、あるいは手足を同じ側というのは自然な動きであり、それを取り入れたのが古武術であったのか。

この機会に古武術について調べてみます。


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ミケ

20年以上前になりますが、某大学で行われていた竹内敏晴さんのレッスンに出ていたことがあります。その大学の学生以外にも、モグリ学生(私もそうでした)や教師をしている人がたくさん参加していました。

当時、私は身体のことより「声」のことが気になって参加していました。
「話しかけているのに、その人に届いてない」、「大勢に話し掛けると、声が拡散して相手が受け取れない(教師に多いです)」などと、声なのに目に見えるように分かるのを体験しました。

からだのことでしたら、「野口体操」がとても気持ちよくてオススメなのですが、もし、こえことばが気になる人がいたら、一度、竹内さんのレッスンを本当に受けてみたらどうでしょうか?きっと大きな発見があると思います。


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ミケ

連続投稿で、ごめんなさい。

私は古武術に詳しくはないのですが、甲野善紀さんのお話に興味を持っています。養老孟司さんとの対談『古武術の発見?日本人にとって「身体」とは何か』は、面白い視点でした。


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K.N

?}?j`elvetica


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は書かないセオリー。

たまたま泳いでいてここにたどり着いたのですが、一つ書かせてください。
 まるで国語の教科書のように美しい文で感動しました。


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小橋昭彦

ありがとうございます!
たまたま訪れたところに、こうしてメッセージを残していただけたこと、とても嬉しく思いました。




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 これだから人間ってのはおもしろい。世界最高度からのスカイダイビングを計画している人のレポートを科学誌で読みつつ、ため息をついた。上空約40キロメートル。宇宙といっていい空間だ。大気は薄く、予定では身体はどんどん加速、31秒後には音速を超えるという。地上への到達まで、約15分30秒。 生身で音速を超えるというイメージが、どうしてもつかめない。映画『ライト・スタッフ』の影響だろうか、人類で初めて音速を超えたチャック・イエーガーの苦労が重なる。あの壁、時速にして1000キロあまりを、生身で受け止める。宇宙服のような装備を整えているとはいえ、想像を絶する。 その音速でさえ、光に比べるとはるかに遅いことは、雷や花火を見るとき実感できる。しかしなぜ、ふだん人と話しているときはその差を感じないのだろう。仮に花火の位置から話しかけられたら、先に口が動いて、声はあとからついてくるはず。では、どの距離からそのズレは生じるのか。 40メートル、というのが産業技術総合研究所の杉田陽一研究員らがつきとめた答え。さまざまな距離と時間間隔の組み合わせで光と音を発生させ、どちらが早かったかを被験者に尋ねる実験を行った。おもしろいことに、距離を1メートル離すごとに、音を3ミリ秒ずつ遅らせて呈示すれば、被験者は光と音が同時だと感じられたという。ズレを脳で自動的に補完しているのだ。1メートルで3ミリ秒というのは、まさに音が大気中を進む速度。つまり人間は、音速をあらかじめ織り込み、補正している。補正の限界が、40メートル近辺だったという。 あの音速を、脳はあらかじめ知っているということ。あらためて、ぼくたちはこの自然とともに進化してきた生命なのだと実感する。その自然の中で、自らの限界に挑戦しようとしている人がいて、それはつまり自らを、ひいては自然を知りたいという好奇心の賜物なのだろうと、そんなことを思う。

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 決めなくてはいけないことがあって、候補が3つあったとする。話し合って決めるわけだけれど、それぞれの思いがあって決めにくい。そこでまず2つの候補で決をとり、選ばれたほうと、残ったひとつを比べることにする。2つの比較なら決めやすいし、結果としても民主的。その考えが間違いと知ったときは、驚いた。極端にはなるけれど、じゃんけんを例にしてみよう。まずパーとグーで決をとる。パーの勝ち。そこでパーとチョキで決をとる。チョキが勝つ。結果、チョキが選ばれる。どこかおかしい。現実の多数決においてもこの状況は起こりえ、投票のパラドックスとして知られる。その場合、議長は自分が通したい案を最後にたたかわせるだけで、思いがかなうことになる。 合議なら三人寄れば文殊の知恵、最高のパフォーマンスを得られるだろうか。社会心理実験の結果によれば、グループで問題を解いたとき、平均的なメンバーの水準よりは上に行くけれど、最良のメンバーほどの成績はおさめられないという。ならば最良のメンバーの中に埋もれているものをいかに引き出すかがポイントか。しかし、これもまた難しい。ステイサーらが行った実験によると、グループで議論する場合、メンバー間で共有して持たれている情報が議題に上る可能性が高くなる。そこで、ひとりの中で眠っている情報を表に出そうと「できるだけ情報を思い出して議論しよう」と言ったとする。ところが意に反して、個人の中で隠されている情報が思い出される以上に、共有情報が話し合われる可能性がいっそう高くなるという矛盾がある。 そんなこんなで、民主的な意思決定って何だろうと悩んでいたとき、民主主義とはやり直しのチャンスを残した実験という言葉に出会った。新しい事実が出てきたとき、いつでも前の決定を見直せるのが民主主義だと。それはなんだかとてもやさしいことに思え、ナイーブにすぎるかとは思いつつ、しばし、心を休めた。

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