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思い込みの歴史

2003年3月24日 【コラム
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 ぼくたちには歴史は徐々に発展してきたという思い込みがある。進歩史観と言われるもので、哲学者ヘーゲル、あるいはマルクス唯物史観の影響が指摘される。産業でいえば狩猟採集社会から農耕社会、産業革命へという見方だろうし、戦争でいえば一対一の白兵戦から飛び道具の使用、そして大量殺戮兵器の時代へといったところだろうか。
 戦国時代においてさえ白兵戦は例外だったと指摘するのが鈴木眞哉氏だ。戦闘に参加した武者が自分の戦功を指揮官に申し立てた軍忠状などの資料をもとに分析、戦場での負傷の60%以上が矢によるもので、残りもほとんどが投石や槍が原因、刀での負傷はわずかだったと指摘している。武士の主たる武器は、本来弓矢だったのだ。
 歴史への観点という点で新しい視野を開いてくれたのは、網野史学で知られる網野善彦氏だった。その著書『「日本」とは何か』には、そもそもわれわれは「日本」という国名がいつどのようにつけられたかを学んでいないという指摘があり、はっとする。「建国」記念との整合性がとれないからかと皮肉られてもいるが、どうだろう。「日本」の誕生はおよそ7世紀末のこと。中国からの独立性を強く意識し、古事記をはじめとした「歴史」が作られた時期でもある。
 ちなみに、武士の白兵戦伝説は日露戦争後、日本陸軍によって古来の戦法として喧伝されたことから生まれたという。それがその後の無謀で悲しき戦術につながったかと思うと、歴史の解釈はおそろしい。網野氏はその著書で、三内丸山遺跡の豊かな樹木文化に出会ったことで意識して史料を読み返すと、それまで少ないとされてきた山野に関する史料が不思議なほど集まってきたと述べている。いかにそれまで自分が不注意だったかと。歴史を読むときに問われるのは過去ではなく、いまを生きる自分たちの視点なのだ。

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6 comments to...
“思い込みの歴史”
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小橋昭彦

今回のコラム、前々回「歴史という観点」の具体編的な内容です。
鈴木眞哉氏の説については『謎とき日本合戦史』をどうぞ。網野善彦氏の『「日本」とは何か』はおすすめです。サイトでは網野氏の「WEB講義」をぜひどうぞ。同じく網野氏には『日本社会の歴史〈上〉』『日本社会の歴史〈中〉』『日本社会の歴史〈下〉』があります。こちらもおもしろいです。


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平山

ゲストコラムは、鬱陶しい。
宣伝収入が欲しい事情は理解できるが、なんか邪悪な感じを否定できない。


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大島

平山さんとやら
そういうのを邪推という。
そもそもメルマガの広告収入なんて、たかが
しれているものだ。

作者がやる気をなくすので余計な口は謹んで欲しい。


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その

現在、日本も

敗戦直後、占領軍CIE(民間情報教育局)が企図しWGIP
(戦争についての罪悪感 を日本人の心に植え付けるための宣伝計画)
によってもたらされた「思い込みの歴史」から、いい加減開放されたいものです。


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小橋昭彦

平山さん、大島さん、ありがとうございます。

『今日の雑学+(プラス)』においては、一般的な広告枠は設けず、受け付けていないことから、作者としての姿勢をご理解いただければと思います。誌面すべてが、広告ではなく読者のためにあると考えています。

コラムジャック(と呼んでいます)等は、弊誌のファンの方が、同じファンである読者の方に、お金を出してでもこの情報を教えてあげたい、そんな場として活用いただければと願っています。(情報を出したいという読者からの声をお断りするのも横暴かと思って、ジャックというしくみを作りました)

コラムジャックは今年から設けたもので、活用方法が模索されている段階だと思います。読者にとって有益なコラムになるように、こちらとしても立ち入り過ぎない範囲でアドバイスをしています。様子を見ながら、今後のあり方を検討したいと思います。


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げじ

思い込むのはいけないと言いながら、鈴木眞哉の論を鵜呑みにする。矛盾してませんか?




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Your Comment:

 抽象表現は苦手なんだけれど、ジャクソン・ポロックの絵画はいい。ドリップペインティングという手法で描かれたそれは、とりとめもなく描線が踊りカンバスを埋めている。だけどそこに感じるのは、乱雑さよりむしろ落ち着き。古里の山に分け入るような。だから、物理学者のリチャード・テイラー教授の論文でポロックの絵画にはフラクタル構造があるという指摘を読んだとき、そうか、と目を開いた。フラクタル構造というのは、細部を拡大しても似たような構造になっているもので、リアス式海岸や木の枝など、自然のなかに多く見かけるから。 大きなカンバスに立って絵の具をたらすポロックのドリップペインティング。しかし、ただ絵の具をたらせばフラクタルになるかというとそうではない。素人が描くと、細部を拡大すれば線がまばらになり、全体との相似性をもたない。なのにポロックの作品は、彼が技法の洗練を重ねる晩年ほど、フラクタル次元D値と呼ばれる値が高くなっているというから驚く。複雑さを増しているのだ。 ちなみにD値は1から2の値をとり、平面状に描いた木の枝で表すなら、1なら単なる直線でフラクタルにならないし、2だと全面が枝になりやはりフラクタルにならない。ポロックは一度D値1.9という絵を描いているのだが、破棄している。複雑すぎると直感で気づいたのだろう。 芸術を科学するなんて無粋だろうか。でも、ぼくがテイラー教授の論文から感じたのは、むしろ芸術家の深遠さだった。木の枝などの自然を生んだものを神と名づけるなら、ポロックはまさに神の感性を身につけていた。いかにして、それは可能だったのか。答えはない。ポロックは1956年、交通事故で一生を終えた。44歳。マンデルブロがフラクタル幾何学を生んだのは、それからおよそ20年のちのことである。

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 大阪の交通科学博物館に入って最初に目につくのは、巨大な蒸気機関模型だ。蒸気によるピストン運動を、たくみに車輪に伝えている。動力の歴史は、力を回転運動に変えることと切り離せない。ワットの貢献はそれだけでなく、回転運動を利用して、力が大きくなると遠心力で弁が絞られる仕組みも作った。力の発揮も制御も、回転を利用している。 回転運動はさまざまな機械に不可欠だ。自動車はもちろん、パソコンだって記憶装置にモーターが組み込まれているし、人工衛星は回転を利用して姿勢を制御するジャイロ・スコープがあってこそ。それなのに、動物には回転がない。車輪を持った動物はいないし、歯車を利用して動く生物もいない。人工物での回転の重要性を考えると、不思議な気もする。車輪動物が登場する石原藤夫氏の「ハイウェイ惑星」で指摘されているように、生物界に車輪が無いのは、でこぼこがあるからではある。車輪があっては動けないのだ。 この作品が発表されたのが1965年のこと。その後、1970年代半ばに生物界でモーターが発見された。細菌についているべん毛がそれで、後ろに伸びたべん毛を回転させて推進力を得ている。回転しているように見えるだけではと疑う声も多かったのだけれど、発見者のメル・サイモン博士は、しごく簡単な実験で実証した。べん毛の一本をつかむ。すると細菌自体がくるくる回る。なるほどである。 ただ、べん毛モーターが実現できるのも、ミクロの世界だからこそ。べん毛は水素イオンを利用して、軸から回転する側にほとんどロス無くエネルギーを伝達しているけれど、大きな世界ではできない。だからぼくたちのなかにモーターはない。ただ、それを模した二足歩行ロボットには、モーターが使われている。回転運動を利用した人もすごいが、それなしで複雑な機構を実現している自然は、さらに奥深いとあらためて思う。

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