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ちょっと知的な雑学&トリビア

出アフリカ

2003年3月03日 【コラム
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 人類はアフリカで生まれ、世界に広がった。そう唱えるのが、クリス・ストリンガーを旗手とする「出アフリカ」説。これに対抗するのが、人類は各地域でそれぞれに進化したという「多地域進化」説だ。DNA解析の結果などもあり、現在では出アフリカ説が優勢になっている。
 われわれ東アジアの新人はどうだろう。じつは長く疑問が残っていたのだけれど、ジャワ原人の頭骨の進化を新発見の化石をふまえてシミュレートしたところ、ぼくたち新人とは別の、独自の進化を遂げたことが解明されたという。国立科学博物館などがインドネシアと共同で行っていたもので、これで東アジアのホモ・サピエンスも、ルーツをジャワ原人ではなく、アフリカに求めることになる。
 そのジャワ原人だけど、もとをたどれば、およそ200万年前にアフリカで進化したホモ・エレクトス。そう、出アフリカはただ一度ではなく、少なくとも旧人時代のホモ・エレクトスとぼくたち新人であるホモ・サピエンス、二度は行われている。
 昨年は出アフリカ説にも転機があった。脳の小さい原人の化石が旧ソ連のグルジア共和国で見つかったことで、大脳が発達して知能を得てからアフリカを出たという説が揺らいだのだ。700万年前のトゥーマイ猿人の化石も、人類発祥の地から2500キロも離れた地で見つかっている。なんだか人類はみな、発祥の地を離れるのに駆け足だった様子。出アフリカも、何度も繰り返されたかもしれない。
 それにしてもなぜ、人類はアフリカを離れたのか。人類学のウィリアム・レナード博士は、肉食をはじめたことで、草食と比べ広い縄張りが必要になり、活動範囲を広げたと推測している。なるほど、そうなのかもしれない。ただ、アフリカからの遠い道を思うとき、ふと、理由などない、外を目指すことは、ぼくたちが生きていくことと同義じゃないかと、そんなことも思う。そしてきっとぼくたちは再び立ち上がり、宇宙へ向かうのだろうと。

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5 comments to...
“出アフリカ”
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小橋昭彦

ストリンガー教授の著書に『出アフリカ記 人類の起源』があります。その訳者のサイト「河合信和の人類学」がおすすめ。「進化研究と社会」もよいですね。コラムの中で紹介した研究は「馬場悠男教授」によるもの。「自然科学入門」の第6回もご参考に。なお、関連した過去のコラムには「ルーツ [2001.06.01] 」「脳の大きさ [2002.08.08] 」があります。


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小橋昭彦

あ、しまった、ホモ・エレクトスは「旧人」ではなく「原人」です。人類の種については、次回もういちどまとめます。


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吉谷 修二

「外を目指すことは、ぼくたちが生きていくことと同義じゃないかと、そんなことも思う。そしてきっとぼくたちは再び立ち上がり、宇宙へ向かうのだろうと」
 という言葉には、目からウロコです。
 ほんとにそのような気がします。
 いや、そうあって欲しい。
 人間は、常に新天地を求めて欲しい。
 科学にも、心にも、場所にも!


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鶴 喜久

私は「文化人類学」に対抗して(?)「蛮化人類学」を、畢生のテーマとして、インターネットの掲示板に投稿しています。
「蛮化人類学」について書いておきます。どうぞ存分にお笑いください。
◎とりあえず「蛮化」の定義なんぞ
(1)文化が開けないこと、むしろ退化していること。またその人民。また、その国。
(2)死者を哀悼する詩歌。挽歌とも言う。
◎ 「蛮化人類学」設立の趣旨
「文化」とは
(1)世の中が進歩し文明になること。
(2)文徳で民を教え導くこと。
(3)人間が学習によって社会から習得した生活の仕方の総称。 (広辞苑より )
現在の「ヒト」はどれを取っても該当しない。
外交、紛争、政治、経済、金融、どれ一つサルの社会より進んでいるとは思えない。
ヒトはサルと共通の祖先を持つが、「何故かくもサルに劣るようになったのか」。
その辺を謙虚に反省し、今からでも遅くは無い、サルに出来るだけ追いつきたいと思います。
ヒトは「遺伝子」の乗り物である「個体」の「本能」が壊れているのですが、それを補うはずの「文化」までが、「退化」しているのが、ヒトの現状なのです。
遺伝子が嵐の海で「翻弄」されているのです。ああ、可哀想なヒトの遺伝子!


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k.yanai

未知への期待!
それが生命の基本かなと。




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Your Comment:

 トンボの眼は複眼であると理科で習って、悩まれたことはないだろうか。トンボには世界がどう見えるだろうと。いくつもの像が万華鏡のように見えるのだろうか。その答えは、簡単には見つからなかったと思う。動物心理学者のロイド・モーガンが唱えた公準というのがあって、動物の行動を人間の視点から解釈することを戒めている。餌を見て鳴いているだけなのに、自分への愛情表現だと考えてしまうような過ちをするなってことだ。 情報処理機関である脳が違うんだから、見え方を想像しても仕方ないというのは一理ある。でもトンボの視界を想像するところに科学のおもしろさがあるはずでもあり、もっと踏みこんでほしいとも願う。そんなところに、認知心理学の鈴木光太郎教授による『動物は世界をどう見るか』を知り、興味深く読んだ。 結論からいえば、トンボだって世界はひとつに見えているはず。眼が二つある人間でも像はひとつだ。ただ、解像度は人間の100分の1程度なので、仮に人間の眼をトンボの複眼で置きかえるなら、最低でも直径1メートルくらいが必要という。 ミツバチの視覚実験もおもしろい。さまざまな色の台紙と餌場で実験したところ、同じ白い紙なのに結果が違う。ミツバチは紫外線を見ることができるとわかって謎は解消。同じ白紙でも紫外線の吸収率が違っていたわけだ。ところで、ミツバチは紫外線「も」見えるのではなく、人間とずれていて、逆に赤が見えない。とすると、ミツバチにとっての色ってどう見えるのかと気になる。人間の黄色はミツバチにとっても黄色なのか、それともずれる形で赤なのか。紫外線は何色なのか。 モーガンの公準はこうした問いを避けることを薦めるけれど、鈴木教授は補色と色円環の考え方をふまえ、赤ではとあえて推測する。それが小気味いい。相手の立場になって想像するっていうのはぼくたちだからできることだし、科学論文はともかく、日常生活でペットの行動に愛を見たって不都合はないよね。

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 人類の起源について書こうとすると、落ち着かない気分になる。それというのも、今も新発見が続いている分野で、日々見直しが重ねられているから。おまけにぼくたちには、ヒトは一直線に進化したという誤った思いがある。たぶん、四足の猿が歩くたびだんだん背を伸ばし現代人に至る、しばしば見かけるイラストが原因だろう。場合によっては、その下に猿人から始まってネアンデルタール、クロマニョン、現代人などと解説が振ってあったりして、そうなるとやはりちょっと違う。 ぼくたちホモ・サピエンスは、ホモ属のサピエンス種に属する。ホモ属というのがいわゆるヒトだが、クロマニョン人が含まれるいわゆる新人、サピエンス種以外に、旧人に分類されるネアンデルターレンシスや原人と分類されるハビリス、エレクトスなどが含まれる。ぼくたちはその一種にすぎない。さらに言えば、ホモ属以外にも、人類には猿人に分類されるアウストラロピテクス属があり、アフリカヌスやアファレンシスといった種が知られている。21世紀に入ってさらにケニアントロプス属なども発見されており、人類を構成する種の数は、20種はくだらないと言われるようになった。 それらのなかでぼくたちサピエンス種だけが生き残ったのは、おそらくはほんの偶然。ニューヨーク州立大のズブロウ博士は、大災害や明らかな優劣に理由を求めなくても、死亡率がわずか2%違うだけで、一千年後に一方の種は繁栄し一方の種は絶滅すると指摘している。 人類学者のタッターソルは、約180万年前のケニア北部では、4種類の人類が共存していたと指摘している。交流はあったろうか。あったとすればどんなだったろう。ネアンデルタールが生き残っていれば、ぼくたちは生物の頂点に立っているなんて思いあがらずに済んだろうか。ホモ・サピエンス同士で争うことの愚かさにも、気づいたろうか。現生人類の孤独を思う。

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