ざつがく・どっと・こむ
ちょっと知的な雑学&トリビア

そらへ向かう

2003年2月06日 【コラム
Share...Share on FacebookShare on Google+Tweet about this on TwitterShare on LinkedIn

 鳥の鋭い眼光やうろこのような模様をした脚が苦手という人もいると聞いて、なるほどなあとひとり感じ入っていた。進化系統図をたどれば、始祖鳥の分岐からほど近いところで、肉食恐竜ティラノサウルスへの分岐がある。鳥の脚から無意識にティラノサウルスの足音を連想したとしても不思議ではない。
 このほど中国の1億3000万年前の地層から見つかったミクロラプトルの化石は、鳥にもっとも近い恐竜として注目されている。全長約77センチ、前脚だけでなく後脚にまで羽がある。羽ばたくまではもう少しで、樹上から滑空して飛んでいたらしい。
 恐竜がどのようにして飛ぶに至ったのかはまだわかっていない。地面を走って飛び上がることから進化したという「疾走離陸説」が有力になりつつあったところに、今回の発見は「樹上降下説」を復活させることになる。始祖鳥にしても現在の鳥類の直接の祖先ではない。羽ばたきながら飛び上がったり、樹上から滑空したり、さまざまな試行のなかから、現在の鳥類につながる進化が生まれたか。
 空を飛ぶのは鳥類だけではない。昆虫にも翅のあるものは多い。進化生物学のマイケル・ホワイティング博士らは、ナナフシのDNAを調べた結果、一度飛翔能力を失ったものの、ふたたび翅を得たものがあると発表した。複雑な進化が繰り返すなんてこれまで考えられていなかっただけに、理論を見直すきっかけになるとされる。
 空への挑戦。スペースシャトル・チャレンジャー号の事故のとき、今は作家として活躍する友人が、その残骸がそれでも上昇を続けようとしているのを、なおも宇宙へ向かおうとする宇宙飛行士の願いを見るようだと形容していた。あの惨事から17年。立ち上がったぼくたちを襲った、再びの悲報。
 ナナフシのなかには、飛翔能力を失って5000万年後になって、翅を再進化させたものもあるという。ぼくたちの挑戦は、まだ始まったばかりだ。

Share...Share on FacebookShare on Google+Tweet about this on TwitterShare on LinkedIn

4 comments to...
“そらへ向かう”
Avatar
小橋昭彦

Michael Whiting博士の研究は「Sharing fame with an insect」を参考に。論文掲載はNature 421 264-267「Ups and downs of evolution: Insects that lost their wings ? but flew again」、日本語で要約を読むなら「進化:ナナフシ類に起こった翅の消失と復活」へどうぞ。また、中国で見つかった恐竜については「Four-winged dinosaurs from China」で発表されました。ちなみに、コラムで触れた友人の作家というのは「星野亮」氏です。


Avatar
港の洋子

ちょうどミロクラプトルの化石発見ニュースを見た前後にイギリスのBBC、アメリカのディスカバリーチャンネル共同制作のデビッドアッテンボローの「哺乳類の生活?LifeOfMammals」でモモンガの滑空の様子を見ました。ですから、そうか地面からではなく地上から飛行は始まったんだと勝手に思い込みましたが・・・未知の世界への憧れ、探訪とその危険。永遠のパラドックス。なくなった宇宙飛行士の笑顔はいつも純粋に美しく、私はまだ正視できません。


Avatar
中野 勲

いつも有難うございます.

進化や再進化は今でも,おこなわれているのでしょうか.


Avatar
小橋昭彦

中野さん、ありがとうございます。

再進化については、これから検証ということかと思います。鯨は将来また足を持って地上に上がってくるのか、なんて想像すると楽しいですね。

進化は、常に行われています。ただ、個体ではなく、集団でとらえるものなので、ある個体の特定部分を取り上げて「ここが進化中」とは言いにくいですが。




required



required - won't be displayed


Your Comment:

 野口雨情は幼い子を亡くしていたと読者から教わって、あらためて彼の経歴を読む。生まれて2週間の幼子。失意のどん底から彼は、亡くした子に励まされるように数々の童謡を生む。それを下敷きにすると、七歳か七羽かという「七つの子」の解釈にも、新しい光があてられる。「山の古巣へ 行ってみてごらん/まるい眼をした いい子だよ」と書きとめるとき、彼は何を想像しただろうか。 雨情が歌詞にこめた思いは定かでない。カラスに人間の親子を重ねるのは聞く側の感性。擬人法を含め、部分的な類似から未知の類似へ広げていく手法をアナロジーというけれど、ぼくたちはふだん、ただ目の前にある物質だけではなく、アナロジーを付加した豊かな世界に生きている。 川の流れに人生を思い、動物の姿に社会を学ぶ、ぼくたちならではの能力。未知のものに出会ったとき、ぼくたちはすでに知っているものから類推して理解しようとするし、「そういえば」というひらめきは創造を生む。だいたい、今使っているコンピュータだって、デスクトップやゴミ箱、フォルダなど、アナロジーのおかげで利用できているようなものだ。 いま少し調べてただけでも、アナロジーは、芸術はもちろん、言語学、心理学、数学、哲学、建築学、その他広い分野で重要なテーマになっている。学問としては注目度があがっているようだけれど、実際のぼくたちの、アナロジーを受け止める力、生み出す力はどうだろう。アナロジーの豊穣さを失った世界は、殺伐としてしまう。 雨情は、アナロジーによって救われたろうか。ふとそんなことを思う。彼による「しゃぼん玉」を、最後に。屋根まで飛んだあとになぜこの歌詞が続くのか、かつてぼくは不思議だった。雨情さん、ぼくは今、この歌詞を涙なくしては聞けません。「しゃぼん玉 消えた/飛ばずに消えた/生まれてすぐに/こわれて消えた/風 風 吹くな/しゃぼん玉 飛ばそ」。

前の記事

 男は狩猟で家族を支えてきた。わかりやすい構図だけれど、そういうものに限ってときにあやしい。人類学者のジェームズ・オコネル教授の論文がある。いわく、初期の人類にとって男が果たした役割なんてたいしたことなかったのではないかと。 オコネル教授は、人類が食べた動物の骨に残った痕を調べている。その多くが、狩猟の結果ではなく、肉食獣が襲ったときの痕に似ているという。初期の人類は、肉食獣が倒したあとの死肉をあさっていたのだ。多くの量がまかなえるはずもなく、それだけで生き延びるに充分だったとは思えない。だとすると人類を支えたのは、女が採集した木の実だったか。 ぼくたちは、採集生活をもっと評価すべきなのだろう。旧石器時代の食事の方が人類の健康にとって良かったと指摘する学者も少なくない。季節ごとのさまざまな味覚を混ぜ合わせた、栄養的に偏りのない食生活。日本では里山保全の役割もあって高く評価される田園風景だけれど、こうした視点からは、一様な植生をもたらした農業は分が悪い。肉だって家畜の肉より野生の肉の方が脂肪分が少なく栄養価値が高いと、コロラド州立大学のローレン・コーデイン教授らのグループの研究発表にある。 こうした発表を目にするたびに抱くのは、人類はほんとうに進歩してきたのか、という思いだ。ぼくたちは漠然と、農耕が食糧生産を安定させ、人類の栄養状態を改善したと信じている。しかし生態学者のジャレド・ダイアモンドのように、農産物の登場で食物がでんぷん質に偏って栄養失調になり、栽培植物が絞られることで飢饉の影響を受けやすくなり、人口密度が高くなって伝染病リスクが高くなりと、悪影響を指摘する声もある。人類が積み重ねてきた変化は、確かに貴い。ただ、昔より今のほうが進んでいるといった考え方は、わかりやすすぎて、やっぱりあやしいのだろうな。

次の記事