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標準化

2002年9月02日 【コラム
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 とあるビジネス誌向けに「技術の標準化」に関する小文を執筆しつつ、標準という言葉の扱いにくさを感じていた。
 ぼくたちが何らかの標準を必要としていることは間違いない。このコラムが届けられるのも、相手に通じる標準と考えられる言語を共通に持っているゆえだし、相手と共通の時間を持っているがゆえに約束もできる。単位についてもしかり。一方で、「標準的な人」に含まれるニュアンスはどうだろう。
 東京大学先端科学技術研究センターの橋本毅彦教授によると、技術の標準化が進められたきっかけは、戦場において武器の部品の互換性を保ち、修理をすばやくするためだったという。なるほど、とすれば誰だって自分が互換性のある部品とは思いたくない。
 標準という言葉には、人と人が気持ちをやりとりするために必要な標準と、物の互換性のために必要な標準というふたつの側面があるといえるのかもしれない。もっとも、気持ちの交換、部品の交換と考えれば、つまりは交換が必要なところに標準が芽生えるわけで、貨幣などもその代表例。「交換」をキーワードにふみこむと別の話になるので、いったんここでおく。
 QWERTY配列のキーボードに見られるように、標準は必ずしも最良のものを意味しない。より速く打てるドボラク配列も提案されたのに、タイプライターが壊れないことを第一に考えられたQWERTY配列がいまだに使われている。8時間タイプを叩く間に指先の動く距離の総計は、ドボラク式では1マイル、QWERTY式では10マイルなんて数字も、橋本教授の著書にあるのだが。
 標準というのは明確なようでいて、ほどほどのものでもある。共通点を探し求める一方で、規則や基準に杓子定規な対応には疑問を抱く。ぼくたちには、ほどよいバランス感覚があるということか。

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9 comments to...
“標準化”
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小橋昭彦

橋本毅彦教授」による著書、『<標準>の哲学』をご参考に。時間という標準化については、かつてのコラム「時間厳守」をどうぞ。標準規格については「日本規格協会」、キーボード配列については「日本語をどう書くか」の第二部が詳しいです。


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ミケ

「標準化」という言葉は、品質管理・品質保証分野の技術的な専門用語なので、「標準的な人」という一般用語と同じ文脈で語られると、ちょっと困りますね。「共通認識」みたいな言葉ではどうでしょうか?

また、「世界標準」になっているものが最良のものではないのは事実ですが、少なくとも「誰でも使えるもの」を目指して設定されています。ですから、ほどほどのものになってしまうのです。

******
日本で出回っているものの多くが標準化されたものなので、その恩恵の方はあまり気付かないのではないかと思います。
製造に携わった経験があると分かるのですが、例えば半導体分野で、未だにインチとセンチが並列に使われています。その見えないコストはいかばかりかと思います。

尚、製造現場の作業標準などは、常に改良が加えられて書き換えられるのが普通です。螺子など、サイズが合わなかったら笑い話にもならないものはともかく、人間の動き等に関する標準は、技術の分野でも変更することができます。


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ながさわ

標準って書くと、どうも不変的なものにとらえられがちだけど、実はそうでもない。
時の流れとともに、標準はどんどん移り変わってゆく。
標準に求めるものも変わってゆく。

>規則や基準に杓子定規な対応には疑問を抱く。
>ぼくたちには、ほどよいバランス感覚があるということか

ほどよいバランスを得るために、標準を設けるんではないかな?
バランスが崩れれば(時が経てば)、それを改訂しながら……。


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小橋昭彦

ミケさん、そうですね、最終稿では削りましたが、メートル法とヤード・ポンド法が混在していたため失敗したNASAの火星探査機など、標準化されていなかったことが生んだコストの典型とも思いました。

標準という言葉の使いにくさは、専門用語と一般用語を混同してしまうところにもあるという指摘、なるほど、その通りかと思いました。

ながさわさんも書いていただいているように、これを機会にふだん何気なく接している「標準」を見つめなおすきっかけになれば本望です。


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OGIN

今回のコラムは(技術)標準の負の面が強調されすぎたようですね。標準が果たしている役割は計り知れないと思います。キーボードの話にしても普及しないのには標準化のせいだけではないと思います。
標準は改訂される物で,絶対ではありません。時間の話も江戸時代標準がなかったのではなくそれが標準だったのですから。余り短期間で変わったのでは標準の意味がありませんが。


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小橋昭彦

あれ、標準を否定的に書いているように読めちゃいましたか。ごめんなさい。確かに、今読み返すと、そう読めますね。そのつもりはなかったので、これは純粋に文章力の未熟さゆえです。お恥ずかしい。


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Mr. K

QWERYて統計の取り間違いで決めてしまったと聞いたことがあります。タイプライターが壊れない理由だけだったら、電動のホイール式タイプライタの時代に配列が変わってもおかしくないし、そこから何十年も経ってPC全盛になっても新しい配列は受け入れられないで消えていく理由の説明になりません。使われない、或いはたまにしか使わない標準は、どんどん改訂されるでしょうが、常に使っている標準を改訂するエネルギーは膨大なものになるのではないでしょうか。
単位で言うと日本人は尺貫法からメートル法に切り替えました。計量法も改訂されました。家の表示は、正式にはメートル法だけになりました。でも、ゴルフやアメフトからヤードが消え、パソコンから5インチベイが消えるのはいつになるでしょうか。テレビだって21インチと言えないので21型と言っているだけで国際単位系に変わってはいません。
みんなで決めた標準は改訂しやすいのですが、所謂デファクトスタンダードは大きなイナーシャを持っているのではないでしょうか。QWERTYもJISで決まっていますが、デファクトスタンダードの草分けではないでしょうか。いろいろ考案される新配列が、これを打ち破るエネルギーというかメリットを持たないだけと思います。


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小橋昭彦

デファクト・スタンダードか、デジューレ・スタンダードかといった話も書いていたのですが、専門的になるのではずしました。デジューレはISOやJISに代表されるように、いわゆる公的機関によって決定された標準規格です。デファクトは市場によって決まります。Mr.Kさんのおっしゃるとおり、QWERTY式キーボードはまさにデファクトの代表例ですね。


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安岡孝一

『〈標準〉の哲学』を読んでみたのですが、QWERTY配列の部分に納得がいきませんでした。QWERTY配列が現時点で最良なものではない、というのは確かにその通りなのですが、その説明に至る部分に事実誤認があるように思えるのです。この点に関して、私の日記で多少論じてみましたので、よければごらん下さい。




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 保育園から帰ってくるなり、祖母のところにかけていって、ダイコンとハクサイの種をください、とお願いしている。園内菜園で育てるのだろう。この夏もトマトやキュウリなど、自分たちで収穫した野菜が給食の食卓をにぎわしていたと聞く。小さな手で摘みとられる野菜を想像し、それらの来歴について思いをはせる。 ニンジンやナス、キャベツなどはアジアやヨーロッパでも昔から知られていたが、トマトやジャガイモ、カボチャやトウモロコシは南北のアメリカ大陸が原産だから、コロンブス以前は知られていなかったことになる。トウモロコシやジャガイモが人類を飢餓から救うのにどれほど役立ったかを考えると、新大陸「発見」は食卓にとっても大きなできごとだった。 ジャガイモは地下茎を食べることから、はじめは奇異な目で見られていた。もっぱら花や枝葉の観賞用だったのは有名な話。17世紀ごろから食用に栽培されるようになり、やせた土地でもできることから飛躍的に拡大する。そうなると、戦争にあたっては敵国のジャガイモ畑を荒らすことが重要戦略。1778年のプロイセンとオーストリアの戦争は「ジャガイモ戦争」と呼ばれもしているほどだ。 いまでこそぼくたちは野菜をはじめとした植物の恵みをあたりまえのように消費しているけれど、本来は、食べるものはもちろん、着るものから日用品まで植物に大きく依存していたわけで、むしろ植物に生かされてきたといえる。「だいこんとはくさいのたね」を育てつつ、子どもは、店頭に並ぶ消費するものとしての野菜ではなく、そんな、生きている仲間としての野菜について知ることになるのだろう。そう思いつつ、ふと、そもそもダイコンやハクサイの種ってどんなだったけと振り返る。あわてて保育園かばんを開けて確かめた今朝だった。

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 朝日新聞の「天声人語」に世界一長い物理実験が紹介されていた。オーストラリアのクインズランド大学で行われている石油ピッチの滴落下実験。粘度が高いため、1滴が落ちるのに8年ほどかかる。1927年からはじまり、8滴目が2000年の11月に落ちたところ。 後日、もっと長い実験が紹介される。1843年から続く、肥料が作物に与える影響を調べる実験だ。日本では、1930年から東大農学部の千葉演習林で行われている、モウソウチクの開花とそれに伴う枯死のしくみを解明する実験も息が長い。60年に1回しか開花しないといわれる竹のこと、開花したのはようやく1997年。300年計画の実験なのだとか。 これら息の長い実験の紹介を読みつつ、思い出したのはダーウィンのこと。ビーグル号での航海を終えて、彼はミミズの研究をはじめた。1837年、28歳のときである。手に入れた土地に白亜をまき、それが埋まる様子からミミズが土を食べて排出し、埋めていく過程を観察した。その期間、40年あまり。死の直前になってようやく、1年に6ミリほどの深さで土地を掘り返すという結論を得て報告書を出版する。 数学の分野では、解決にもっとも長くかかった問題としてギネスブックにも登録されているのが、有名なフェルマーの定理。彼がギリシア時代の数学者の本の余白にメモを残したのが1630年頃のこと。証明されたのが1995年。その間350年あまり、多くの数学者の挑戦が積み重ねられてきた。 息の長い実験に対して、科学の進歩のスピードという視点から皮肉る声もあるという。自分の身の回りを考えても、すぐに結果を出ることを求めている気がする。それとて本来はずっと長い視点で見るべきなのに、短い視点しか持っていないのではないか。数十年、数百年の視点を、ぼくは忘れかけていないか。 そう考えて、心の奥で想像する。クインズランド大学の滴や、ダーウィンのミミズ、千葉演習林のモウソウチクの花を。それからひとつ、深呼吸をした。

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