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ちょっと知的な雑学&トリビア

熱が出た話

2002年7月18日 【コラム
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 疲れからだろうか、突然の発熱でふせっていたのだった。喉がはれて、40度近い熱が出る。子どもの頃はよくやったものだが、最近無かった。それで、高熱を指し示す体温計を懐かしく見つめる。
 もっとも、デジタル表示の電子体温計と違って、あの頃は水銀式だった。37度のところが赤くなっていて、いかにもそこから上は病気ですよという印象。実際は平熱は人によって違うし、37度だからといって必ずしもあわてる必要はない。
 もっとも高すぎる体温は個人差といっていられない。体温計にも42度までしか表示は無かった。42度を超えると、人間を構成しているタンパク質が変質してしまうわけで、たとえば45度を超えて生きていられる人はいない。フライパンで温めれば、どんな卵の白身だって透明から白く変質する。あれと同じだ。
 高熱が親に甘える口実になった子供時代と違って、いまは余計な知識があるから測っていて体温が上がってくると心配が募る。それからふと、そういえば動物の温度と成長の時間についての研究があったと思い出す。ふ化するまでの時間は、トリでもバッタでもプランクトンでも、大きさと温度というふたつの因子に左右されているというのだ。ニューメキシコ大学のジルーリィ博士らの研究だが、卵を産む動物に特によくあてはまるという。
 大きさと温度といえば、恒温動物についていえば、一般的に身体の大きい動物ほど体温が低い。ゾウは35.5度、ウマは38度、イヌは39度。身体が小さいほど外気温につれて冷える速度がはやくなるから、できるだけ高めに保っておいたほうが有利なわけだ。鳥類はおおむね40度を超えるが、これは空を飛ぶための莫大なエネルギーを燃焼で生じる必要があるからだろう。
 人間の場合、いくら体温が上がったからといって空を飛べるわけもなく、倦怠感が募る。早く下がるにこしたことはない。もっとも、このところの忙しさから身体を逃避させてくれたうえ、こうしてコラムのタネともなった。なにごとにも利点はあるものだ。

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4 comments to...
“熱が出た話”
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小橋昭彦

人の体温については「テルモ ヘルスケア情報局」「知っておきたい体温の話」などをご参考に。ふ化と体温の関係についての研究は「サケの時間、バッタの時間」にわかりやすいです。動物の体温については、「動物の体温」をどうぞ。


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小橋昭彦

なお、現在は平熱に戻っています。喉にはまだ違和感が残りますが、ご心配なく、ありがとうございます。


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じゅん

そんなことないよ。人間もあまりに熱が上がると,雲の上を歩いているような感じになるんだよ。 降りてこられてよかったですね。 私が小さい頃,高熱を出すといつも見ていた夢・・黒雲立ちこめる空から一本の白い紐がおりてくるんだ。


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馬場亮二

*何時も楽しく読んでいます。博学に感心ですね。
さて、豚の体温は何度ですか0?。
人間に近い体温の動物のウイルス、病原は人間に感染し易い様ですね。        禿山一夜。




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 ぼくは「ぼく」を用いている。編集者に原稿を渡すと、媒体によっては「ぼく」が「私」に変わっていることがある。それを見て、「私」に変わった「ぼく」って何者だろうと考える。自分はそこにいるだろうか。それならと、その媒体向けには最初から一人称を使わなくなった。一人称がなくても書ける日本語は便利だなあと、そんなとき感謝する。 もちろん「ぼく」が「私」に置換可能ということは、自分の未熟さでもある。著名作家の「オレ」が「私」に変更されることはぜったいに無いだろう。その程度の「ぼく」であるとは自覚している。 そんなこともあって日本語の「私」が気になっていたのだけれど、国文学者の中西進氏のエッセイに目を開かれた。いわく、日本人はふたつの「私」を使い分けていると。海外のレストランで、日本人のグループには「セーム」という料理があると笑い話にされる。最初の人がある料理を頼む、すると次の人たちはつい「same(同じで)」と頼んでしまう。それをもってよく日本人には自我が無い、「私」がないと言われる。 だけど違う、という。古典の和歌集をひもとけば、「われ」「われ」のオンパレードなのだ。たしかに源氏物語のような散文には主語が無い。でも和歌の中で日本人は、深く自分の内面に旅をし「われ」に出会っている。日本人は、日常的な、社会的な、散文的な「私」は消す一方、特別な、内面的な、詩的な「私」はたいせつにしている。 個人という言葉が、明治になって輸入された言葉という話は以前書いた。いまブームになっている「私」探しの「私」は、その明治以降の「私」なのか。メディアの中で拡散して、希薄になっていく他者との関係における「私」。この身体の中に、深い内面を持った「私」があることを、ぼくたちは忘れているのか。 万葉集を検索すると、多くの「われ」に出会う。たとえば、大伴家持に寄せた、笠女郎(かさのいらつめ)の歌。 我が形見 見つつ偲(しの)はせ あらたまの 年の緒長く 我れも偲はむ 恋する我、別れを痛む我、形見に託す我。そこには確かに、ごつごつした手触り感のある「私」がいる。

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