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ちょっと知的な雑学&トリビア

わたし

2002年7月15日 【コラム
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 ぼくは「ぼく」を用いている。編集者に原稿を渡すと、媒体によっては「ぼく」が「私」に変わっていることがある。それを見て、「私」に変わった「ぼく」って何者だろうと考える。自分はそこにいるだろうか。それならと、その媒体向けには最初から一人称を使わなくなった。一人称がなくても書ける日本語は便利だなあと、そんなとき感謝する。
 もちろん「ぼく」が「私」に置換可能ということは、自分の未熟さでもある。著名作家の「オレ」が「私」に変更されることはぜったいに無いだろう。その程度の「ぼく」であるとは自覚している。
 そんなこともあって日本語の「私」が気になっていたのだけれど、国文学者の中西進氏のエッセイに目を開かれた。いわく、日本人はふたつの「私」を使い分けていると。海外のレストランで、日本人のグループには「セーム」という料理があると笑い話にされる。最初の人がある料理を頼む、すると次の人たちはつい「same(同じで)」と頼んでしまう。それをもってよく日本人には自我が無い、「私」がないと言われる。
 だけど違う、という。古典の和歌集をひもとけば、「われ」「われ」のオンパレードなのだ。たしかに源氏物語のような散文には主語が無い。でも和歌の中で日本人は、深く自分の内面に旅をし「われ」に出会っている。日本人は、日常的な、社会的な、散文的な「私」は消す一方、特別な、内面的な、詩的な「私」はたいせつにしている。
 個人という言葉が、明治になって輸入された言葉という話は以前書いた。いまブームになっている「私」探しの「私」は、その明治以降の「私」なのか。メディアの中で拡散して、希薄になっていく他者との関係における「私」。この身体の中に、深い内面を持った「私」があることを、ぼくたちは忘れているのか。
 万葉集を検索すると、多くの「われ」に出会う。たとえば、大伴家持に寄せた、笠女郎(かさのいらつめ)の歌。
 我が形見 見つつ偲(しの)はせ あらたまの 年の緒長く 我れも偲はむ
 恋する我、別れを痛む我、形見に託す我。そこには確かに、ごつごつした手触り感のある「私」がいる。

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11 comments to...
“わたし”
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小橋昭彦

万葉集の「我」に出会いたい方、「万葉集検索」で検索してみてください。「たのしい万葉集」もいいサイトですね。「中西進」博士のエッセイは「WEDGE」2002年6月号に掲載されていました。


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Line

「私探し」が流行っているというが、「私」も「私探し」をしている。流行っているからといって始めたわけではない。が、世の中がそうなってきているのはどうしてなのか?今、文章をちょこちょこ書き始めている。文章を書くということはまさしく「私探し」だ。文章を書き始めて「私探し」をし始めたのか、「私探し」がしたくて文章を書き始めたのか?


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元尾 四郎

言葉の強さからいったら 俺>僕>私 でしょうか

子供の時にしか使わない 僕 
おとこは僕、女は 私と教わっているのと男と対等だと思い 僕 を使う女の子。 何かほほえましいですね
大人の人が子供に向かって 僕ちゃん と言っているのを聞いていると、何か からかっているように聞こえませんか?
確か 僕 を使うのは 自分より目下とかランクが下の時だけだとか記憶しています

俺を使う人は 自分が天下だと思う人が使っていますね
有名人とか腕力に自信があるチンピラだとか・・・
俺を連発する人は意識的に使いますから、編集者も自意識過剰の人と分かりますから訂正する事はないでしょう

僕を使う人は中途半端ですから
話を聞く相手は話し手がどういう考えで 僕 を使っているか考えてしまいます
1:知らずに使っている
2:知っていて使っている(俺を使いたいがそこまでの自信がない)
3:ム”ド的に使っている
4:その他

訂正する編集者はたぶん常識派ではないのでしょうか?


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小橋昭彦

>訂正する編集者はたぶん常識派ではないのでしょうか?

そうですね、ぼく自身原稿を提出前に、おそらくこの媒体なら「私」だろうな、とわかっていて「私」としかけてなんだか落ち着かず「ぼく」にしましたから、結果的に、まさに常識的な判断かと思いました。

ちなみに、「ぼく」と「僕」も使うときは意識的になりますね。「僕」はぜったい使わないですね。でも編集段階で漢字にされることも、やはりあります。


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たけお@沖縄

今回も楽しく読ませてもらいました。

”ぼく”個人としては、「わたし」よりも「ぼく」

の方が好きです。

その方が、物事を謙虚に観察している、というニュア

ンスを文面から感じて取れるからです。

「俺」とか「ワシ」だと、押しつけがましく、強制的

な感じがします。

「わたし」という表現は、無難でしょうね。使いやす

い単語だけれど、何か違う。なんだろう。自問してい

ます。

以上、とりとめなくてすいません。


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小橋昭彦

確かに「私」は無難。ぼくがそれをあえて避けているのは、「私」と書くことでいわば無難なよそゆきの服を着ているような気持ちになるからだと思います。生身の自分で勝負しようとすると「ぼく」になる。

もっとも、「ぼく」にするとその分幼い感じもします。それは多分、ぼく自身の人間的成長が足りなくて、「ぼく」という表現が上滑りしているからではないか、と自己批評しています。


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moon

あるサイトにて、「メールで男性が使う一人称の好み」についてアンケートが取られたのを見たことがあります。そこでは、半数以上の女性が「ぼく(僕)」を好み「私」を嫌うという結果が出ていました。

以来、僕は「僕」を使うようにしています(笑)。


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あらあら

日本人が和歌など、自我を前面に出すのは、スポーツのやり方に似ていますね。
日本固有のものでは、相撲、剣道、柔道など、全て一人で戦うものです。
それに対し、欧米などのそれは、サッカー、野球、など全て、集団で戦うものです。
日本は、村社会として組織的に動いていたので、和歌やスポーツで自分をアピールする機会を作りたかったのですね。


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ジュモン

対象が大勢でも個人でも、「わたし」で話を進めなが
ら、(その時のムードで判断しますが)途中で「ぼ
く」に切換えることが多いです。
内容もたてまえより本音。本来の自分を知ってもらい
たいと思った時は「ぼく」です。
ちなみにぼくは「ボク」です。

最近忙しさに流し読みしていましたが、小橋さんの文
章を読むことができて良かったと、今日はしみじみ思
いました。
「ぼく」を「私」に変えられるのは、小橋さんの親し
みやすさも一因でしょう。執筆の依頼があるのは認め
られ、必要とされているからですよ。


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小橋昭彦

>最近忙しさに流し読みしていましたが、小橋さんの文
>章を読むことができて良かったと、今日はしみじみ思
いました。

ありがとうございます。配信後、手元に残った原稿の、本文の最後に「『ぼく』に足りないのは、たぶんそれなのだろう。」と追加しました。

はじめから「ぼく」を使うには勇気が要ります。その勇気を出すためには、ごつごつした手触り感のある「ぼく」を追求し続けなければと思ったことでした。


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のむら

わたし ではなく  わたくし では なのでしょうか
最近は「わたし」と言うのですか ?
何だか くぬき みたいに思う




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 喜びや痛みと脳の活動の関係を前回述べた。そうした探求は、じつは最終的にひとつ大きな疑問とつながっている。心と、脳の関係だ。心脳問題と呼ばれたりする。ぼくたちの心はどこで生まれているのか、という問いかけ。 心は精神的なものだし、脳は物質だ。たとえばあなたは、念じただけで物を動かせる念動力を信じるだろうか。あるいは、コンピュータが意識を持っていると思うだろうか。疑ってかかる人が多いことと思う。一般常識では、精神世界と物理世界は相互に切り離されていると考えられることが多いわけだ。 ところが、脳と心はそうはいかない。仮に脳の活動が意識を生んでいるとすると、まさに物理的な動きが精神を生んでいることになる。であれば、物理世界と精神世界は行き来できるということなのか。 科学技術振興団による、数を表現する大脳の細胞活動発見は驚きだった。サルに、回数ごとに動作を変更する課題を与えると、回数を数えて正しく動作を変更する。このときの大脳の活動を調べたところ、脳頭頂葉の「5野」と呼ばれる部分に、3回目や5回目だけに活動する細胞、あるいは4回目と5回目だけ活動する細胞といったように、数と細胞の間に固有のパターンが見つかったのだ。数という抽象的なものが、細胞活動として発見されたわけ。 こうした成果からは、コンピュータとしての大脳を連想する。ただ、いくら細部に分け入っても、意識にたどり着けるかどうか。りんごを見て赤色を感じるとか、森林浴の気持ちよさとか、ぼくたちが感じる「質感」をクオリアと呼ぶ。このクオリアを、脳活動から説明することの難しさ。 ぼくたちの脳を構成する1000億というニューロン。そのひとつひとつがクオリアと対応するわけでは無く、細胞や素粒子が意識を持つわけでもない。それでも脳全体として、つまりぼくたち全体として、ぼくたちは意識を持っている。関係性こそが、越えられないと思われる境界を越えさせている。

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 疲れからだろうか、突然の発熱でふせっていたのだった。喉がはれて、40度近い熱が出る。子どもの頃はよくやったものだが、最近無かった。それで、高熱を指し示す体温計を懐かしく見つめる。 もっとも、デジタル表示の電子体温計と違って、あの頃は水銀式だった。37度のところが赤くなっていて、いかにもそこから上は病気ですよという印象。実際は平熱は人によって違うし、37度だからといって必ずしもあわてる必要はない。 もっとも高すぎる体温は個人差といっていられない。体温計にも42度までしか表示は無かった。42度を超えると、人間を構成しているタンパク質が変質してしまうわけで、たとえば45度を超えて生きていられる人はいない。フライパンで温めれば、どんな卵の白身だって透明から白く変質する。あれと同じだ。 高熱が親に甘える口実になった子供時代と違って、いまは余計な知識があるから測っていて体温が上がってくると心配が募る。それからふと、そういえば動物の温度と成長の時間についての研究があったと思い出す。ふ化するまでの時間は、トリでもバッタでもプランクトンでも、大きさと温度というふたつの因子に左右されているというのだ。ニューメキシコ大学のジルーリィ博士らの研究だが、卵を産む動物に特によくあてはまるという。 大きさと温度といえば、恒温動物についていえば、一般的に身体の大きい動物ほど体温が低い。ゾウは35.5度、ウマは38度、イヌは39度。身体が小さいほど外気温につれて冷える速度がはやくなるから、できるだけ高めに保っておいたほうが有利なわけだ。鳥類はおおむね40度を超えるが、これは空を飛ぶための莫大なエネルギーを燃焼で生じる必要があるからだろう。 人間の場合、いくら体温が上がったからといって空を飛べるわけもなく、倦怠感が募る。早く下がるにこしたことはない。もっとも、このところの忙しさから身体を逃避させてくれたうえ、こうしてコラムのタネともなった。なにごとにも利点はあるものだ。

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