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心脳問題

2002年7月11日 【コラム
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 喜びや痛みと脳の活動の関係を前回述べた。そうした探求は、じつは最終的にひとつ大きな疑問とつながっている。心と、脳の関係だ。心脳問題と呼ばれたりする。ぼくたちの心はどこで生まれているのか、という問いかけ。
 心は精神的なものだし、脳は物質だ。たとえばあなたは、念じただけで物を動かせる念動力を信じるだろうか。あるいは、コンピュータが意識を持っていると思うだろうか。疑ってかかる人が多いことと思う。一般常識では、精神世界と物理世界は相互に切り離されていると考えられることが多いわけだ。
 ところが、脳と心はそうはいかない。仮に脳の活動が意識を生んでいるとすると、まさに物理的な動きが精神を生んでいることになる。であれば、物理世界と精神世界は行き来できるということなのか。
 科学技術振興団による、数を表現する大脳の細胞活動発見は驚きだった。サルに、回数ごとに動作を変更する課題を与えると、回数を数えて正しく動作を変更する。このときの大脳の活動を調べたところ、脳頭頂葉の「5野」と呼ばれる部分に、3回目や5回目だけに活動する細胞、あるいは4回目と5回目だけ活動する細胞といったように、数と細胞の間に固有のパターンが見つかったのだ。数という抽象的なものが、細胞活動として発見されたわけ。
 こうした成果からは、コンピュータとしての大脳を連想する。ただ、いくら細部に分け入っても、意識にたどり着けるかどうか。りんごを見て赤色を感じるとか、森林浴の気持ちよさとか、ぼくたちが感じる「質感」をクオリアと呼ぶ。このクオリアを、脳活動から説明することの難しさ。
 ぼくたちの脳を構成する1000億というニューロン。そのひとつひとつがクオリアと対応するわけでは無く、細胞や素粒子が意識を持つわけでもない。それでも脳全体として、つまりぼくたち全体として、ぼくたちは意識を持っている。関係性こそが、越えられないと思われる境界を越えさせている。

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5 comments to...
“心脳問題”
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小橋昭彦

科学技術振興事業団の発見については「数を表現する大脳の細胞活動を発見」をどうぞ。数に関係しては、「『損』に反応する脳領域」というのもありました。クオリアについては、NHKブックスの『心を生み出す脳のシステム』、あとこちらはちょっと難しいですが『意識する心』をご参考に。


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MAX

「3回目や5回目だけに活動する細胞」「4回目と5回目だけ活動する細胞」
・・・というのは、驚き。

だけど、例えばコンピュータも0”1で全てを管理できるわけだし、
点字だって点の並びのある”なしで数字を表すわけだし、
極端かもしれないけど、脳も同じように小さな細胞の活動で認識しているんですね。

・・・何だかミクロのマスゲーム??を想像してしまいました。


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松本秀人

ちょっと話題がずれてしまうかもしれませんが、確か“顔細胞”というのもあるんですよね。丸が横に並んでいて、その中間ちょっと下にもう一つ丸があると“目と口で顔”と識別するような。これがあるため赤ちゃんは生後すばやく親に反応できるとか。
調べていけばいくほど、なにかめちゃくちゃ固有に用意されたセンサー的脳内細胞が見つかるような気もします。


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小橋昭彦

固有に用意されたセンサー的脳内細胞といえば、AIに宇宙全体を理解させるにはどうすればいいか、という(笑い?)話がありました。

宇宙の現象に固有に対応するチップを用意して積めばいいですよね。で、AIを小型化するために、チップは小さいほうがいい。たとえば原子とか。じゃあ、宇宙の各原子に固有に対応する原子を持たせたAIを作ればいいんじゃないか。

わかるでしょうか? それって、単なるイミテーション(コピー)だったりします。


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野崎 宏

—関係性こそが、越えられないと思われる境界を越えさせている。

そうだなぁと思った。
論理的に出された悲観的な結論に押しつぶされそうなと
き、自分の大好物の食べ物が目の前に突然出されるとし
て、悲観色に染め上げられていた自分の脳細胞は、大好
物細胞と関係して、全体として楽観&積極色の脳細胞関
係を築いていく。それまでの自分とそれ以後の自分の心
は、違っている。違う人格になっているかもしれない。
そんな無茶苦茶なことを連想した。




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 子どもと接するとき、つい「残さず食べたらデザートだから」とか「お片づけしてから絵本読もう」とか、あることを成し遂げてから何かいいことがある、といった表現をしてしまう。打算的な言い方はいけないなあ、と思いながらやってしまうあたりが親の弱さか。 もっとも考えてみれば、ぼくたちの行動の多くは、こうした「目標設定」と、それを達成したときの「報酬への期待」から動機付けされている。「あとどのくらい終えたらゆっくりできる」とか「これを発表すればみんなに誉められる」とか。産業技術総合研究所などの研究グループによると、どうやらこれは、脳細胞の働きと関連しているという。 研究グループは、サルに対して「数段階のテストに正解すると報酬がもらえる」という課題を実験、脳の働きを観察した。エラー率は、報酬が近づくほど低くなる。報酬がもうすぐもらえる、という期待が高まるからだ。このとき、前頭葉内側部の前帯状皮質に、期待が高まるほど反応が強くなる神経細胞があったという。この部分、報酬がもらえるまでの回数をランダムにすると、秩序だった反応をしない。目標に近づいているという期待が高まってこそ、反応したのだ。 ところで人間は不思議なもので、報酬がなくても、苦痛そのものを喜びとする人がいる。マゾヒストに限らない。辛い食べ物を喜ぶ人だって多い。マサチューセッツ総合病院のデビッド・ボースック博士らの研究によると、痛みを感じたとき、まず活性化される脳の部分は、報酬を得たときに活性化される部分と同じだったという。痛みの瞬間、脳はまず喜びを感じ、それから痛みを感じる部位が活性化される。 ベンサムを思い出す。立法にあたって「最大多数の最大幸福」を提唱した彼は、幸福を快楽と苦痛から説明し、快楽の総量を増大することを善としたのだった。以来200年あまり。その功利主義が遠く感じられる今日、脳に分けいって快楽と苦痛を説明しているぼくたちを、彼はどんな目でみているだろう。ぼくたちの幸福は、どこにあるのか。

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 ぼくは「ぼく」を用いている。編集者に原稿を渡すと、媒体によっては「ぼく」が「私」に変わっていることがある。それを見て、「私」に変わった「ぼく」って何者だろうと考える。自分はそこにいるだろうか。それならと、その媒体向けには最初から一人称を使わなくなった。一人称がなくても書ける日本語は便利だなあと、そんなとき感謝する。 もちろん「ぼく」が「私」に置換可能ということは、自分の未熟さでもある。著名作家の「オレ」が「私」に変更されることはぜったいに無いだろう。その程度の「ぼく」であるとは自覚している。 そんなこともあって日本語の「私」が気になっていたのだけれど、国文学者の中西進氏のエッセイに目を開かれた。いわく、日本人はふたつの「私」を使い分けていると。海外のレストランで、日本人のグループには「セーム」という料理があると笑い話にされる。最初の人がある料理を頼む、すると次の人たちはつい「same(同じで)」と頼んでしまう。それをもってよく日本人には自我が無い、「私」がないと言われる。 だけど違う、という。古典の和歌集をひもとけば、「われ」「われ」のオンパレードなのだ。たしかに源氏物語のような散文には主語が無い。でも和歌の中で日本人は、深く自分の内面に旅をし「われ」に出会っている。日本人は、日常的な、社会的な、散文的な「私」は消す一方、特別な、内面的な、詩的な「私」はたいせつにしている。 個人という言葉が、明治になって輸入された言葉という話は以前書いた。いまブームになっている「私」探しの「私」は、その明治以降の「私」なのか。メディアの中で拡散して、希薄になっていく他者との関係における「私」。この身体の中に、深い内面を持った「私」があることを、ぼくたちは忘れているのか。 万葉集を検索すると、多くの「われ」に出会う。たとえば、大伴家持に寄せた、笠女郎(かさのいらつめ)の歌。 我が形見 見つつ偲(しの)はせ あらたまの 年の緒長く 我れも偲はむ 恋する我、別れを痛む我、形見に託す我。そこには確かに、ごつごつした手触り感のある「私」がいる。

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