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ちょっと知的な雑学&トリビア

喜びも痛みも

2002年7月08日 【コラム
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 子どもと接するとき、つい「残さず食べたらデザートだから」とか「お片づけしてから絵本読もう」とか、あることを成し遂げてから何かいいことがある、といった表現をしてしまう。打算的な言い方はいけないなあ、と思いながらやってしまうあたりが親の弱さか。
 もっとも考えてみれば、ぼくたちの行動の多くは、こうした「目標設定」と、それを達成したときの「報酬への期待」から動機付けされている。「あとどのくらい終えたらゆっくりできる」とか「これを発表すればみんなに誉められる」とか。産業技術総合研究所などの研究グループによると、どうやらこれは、脳細胞の働きと関連しているという。
 研究グループは、サルに対して「数段階のテストに正解すると報酬がもらえる」という課題を実験、脳の働きを観察した。エラー率は、報酬が近づくほど低くなる。報酬がもうすぐもらえる、という期待が高まるからだ。このとき、前頭葉内側部の前帯状皮質に、期待が高まるほど反応が強くなる神経細胞があったという。この部分、報酬がもらえるまでの回数をランダムにすると、秩序だった反応をしない。目標に近づいているという期待が高まってこそ、反応したのだ。
 ところで人間は不思議なもので、報酬がなくても、苦痛そのものを喜びとする人がいる。マゾヒストに限らない。辛い食べ物を喜ぶ人だって多い。マサチューセッツ総合病院のデビッド・ボースック博士らの研究によると、痛みを感じたとき、まず活性化される脳の部分は、報酬を得たときに活性化される部分と同じだったという。痛みの瞬間、脳はまず喜びを感じ、それから痛みを感じる部位が活性化される。
 ベンサムを思い出す。立法にあたって「最大多数の最大幸福」を提唱した彼は、幸福を快楽と苦痛から説明し、快楽の総量を増大することを善としたのだった。以来200年あまり。その功利主義が遠く感じられる今日、脳に分けいって快楽と苦痛を説明しているぼくたちを、彼はどんな目でみているだろう。ぼくたちの幸福は、どこにあるのか。

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5 comments to...
“喜びも痛みも”
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小橋昭彦

産業技術総合研究所の研究については「脳は頑張れば褒美が貰えることを知っている」を、マサチューセッツ総合病院の研究については「Study finds brain’s reward areas also activated by pain」をご覧ください。


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ながさわ

興味深く拝読しました。
そう云えば、苦境に立たされてこそ本領を発揮するとか、俄然やる気を奮い立たす人っていますよね。
そういうのも、やはり苦痛から何かを得ているんでしょうか?


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おおくぼ

私の妻は片づけが大好き。自分だけでやっている分には良いが、私を利用する。それはよいのだが、どこまでやれば終わるのかが分からない。こちらとしてはこの辺までやれば終わりだと考えて手伝うのだが、その先をまた指定されてしまう。そうするとがっくりと来る。よって片づけ(季節の変わり目、大晦日等)は大嫌いである。ものすごく疲れる。たいした仕事をしていないのにものすごく疲れる。目標がないからだとわかりました。ここまでやってと言って目標をもたされれば頑張るのだが、そうではないので草臥れるばかりである。それを言うと怒られる。こわ00いのである。


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noa

はじめまして。上記の情報とても役に立ちました。
私はこれから感情についてのレポートを作成しなければならないのですが、その題材として「苦痛そのものを喜びと感じる」感覚を取り上げたいと思っています。
(辛いものや苦いものを好む人や、S・Mの心理、悲しくても嬉しくても涙が出るなど、心と矛盾する体(脳)の反応etc…)
参考文献として、マサチューセッツ総合病院の研究の報告を見たいのですが、和訳で記載されている資料があれば教えてください。


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小橋昭彦

noaさん、ありがとうございます。
直接的な日本語文献はないのですが、右上の検索窓に「痛み」と入れて検索してみてください。いくつかクリップした情報と、過去の痛みに関連したコラムをご覧いただけます。そこで紹介しているリンク先など、ご参照ください。




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 田舎に越してきて、5キロほど体重が減った。動く距離が違う、畑の野菜を中心に食事をする、そんなことが奏効しているのだろうか。標準体重になって以降は減らない。 京都大学の清野裕教授らの研究によると、肥満になるには、十二指腸から出る「GIP」というホルモンが重要な役割を果たしているという。GIPが働くことで血液中の脂肪が細胞に取りこまれやすくなるのだ。肥満治療薬というとこれまでは食欲を抑える薬だったが、GIPを抑制する薬ができれば、成人病の予防に役立つのではと期待されている。 それで思い出したのが、オハイオ州立大学のキャスリーン・ストーン博士らの研究。人前でのスピーチや英単語テスト、簡単な計算などを課された被験者は、血中から脂肪を取りのぞく作用が落ちたのだ。ストレスが脂肪の新陳代謝を遅らせるわけ。 ストレスといえば、お酒を飲んで発散、という人も多い。ドイツのマックスプランク精神医学研究所などの実験によると、ストレスを受けたときに分泌されるホルモンに関係する遺伝子を壊したマウスとそうでないマウスでは、ストレスを与えたときのアルコール摂取量に3倍の開きがあったという。ストレスで飲酒をしたくなるのは、遺伝子のせいかもしれないと示唆する研究結果だ。 遺伝子、あるいはタンパク質のはたらきというのは今ホットな分野だから、これからもこうした研究成果が続々と出てくることだろう。とはいえ遺伝子は、こうして生まれた以上、変えようったって変えられない。日々の生き方まで遺伝子ベースで考えることはないだろう。すくなくとも目の前のストレスは遺伝子のせいじゃないんだから。 ちなみに、ストレスが減ったためにやせたのかどうかはわからない。田舎だからストレスが少ないっていうのは幻想だ。ただ、ストレスを感じるとき、青い山並みや広い空を見ていると、それらはぼくのちっぽけな日常に関わらず同じようにあるわけで、現世のストレスなんてどうだっていいことのように思えはするのである。

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 喜びや痛みと脳の活動の関係を前回述べた。そうした探求は、じつは最終的にひとつ大きな疑問とつながっている。心と、脳の関係だ。心脳問題と呼ばれたりする。ぼくたちの心はどこで生まれているのか、という問いかけ。 心は精神的なものだし、脳は物質だ。たとえばあなたは、念じただけで物を動かせる念動力を信じるだろうか。あるいは、コンピュータが意識を持っていると思うだろうか。疑ってかかる人が多いことと思う。一般常識では、精神世界と物理世界は相互に切り離されていると考えられることが多いわけだ。 ところが、脳と心はそうはいかない。仮に脳の活動が意識を生んでいるとすると、まさに物理的な動きが精神を生んでいることになる。であれば、物理世界と精神世界は行き来できるということなのか。 科学技術振興団による、数を表現する大脳の細胞活動発見は驚きだった。サルに、回数ごとに動作を変更する課題を与えると、回数を数えて正しく動作を変更する。このときの大脳の活動を調べたところ、脳頭頂葉の「5野」と呼ばれる部分に、3回目や5回目だけに活動する細胞、あるいは4回目と5回目だけ活動する細胞といったように、数と細胞の間に固有のパターンが見つかったのだ。数という抽象的なものが、細胞活動として発見されたわけ。 こうした成果からは、コンピュータとしての大脳を連想する。ただ、いくら細部に分け入っても、意識にたどり着けるかどうか。りんごを見て赤色を感じるとか、森林浴の気持ちよさとか、ぼくたちが感じる「質感」をクオリアと呼ぶ。このクオリアを、脳活動から説明することの難しさ。 ぼくたちの脳を構成する1000億というニューロン。そのひとつひとつがクオリアと対応するわけでは無く、細胞や素粒子が意識を持つわけでもない。それでも脳全体として、つまりぼくたち全体として、ぼくたちは意識を持っている。関係性こそが、越えられないと思われる境界を越えさせている。

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