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ちょっと知的な雑学&トリビア

人と人のあいだ

2001年6月26日 【コラム
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 乗りこんだ駅では満席だったのに、一駅ひとえきと人が降りていき、終点につくころ車両に残っていたのは、ぼくを含め二人だけだった。いまひとりの女性とは隣の席。移動しそびれてそのままになってしまっている。今さら席を移るのも嫌味だし、終着駅につくまで気づかぬふりをするか。ほかに誰もいない車両で、見知らぬ人と隣り合わせに座っている居心地の悪さ。満席だったときは気づきもしなかったのに。
 人には個人空間、あるいはポータブル・テリトリーと呼ばれる領域がある。自分の身体の延長として、自分の一部と認識している領域。京都は賀茂川のほとりに見られる、ほぼ等間隔で腰をおろしたカップルの列は有名だし、電線の上にとまるスズメもポータブル・テリトリーにあわせて同じ間をあけて並んでいる。この距離、種類によっても違うという。
 文化人類学者のエドワード・ホールによると、知らない人との対人距離が45センチを切ると不愉快になったり緊張したりするとか。男性用トイレで、二人が便器の前に立つとき、たいてい間にひとつあけて立つものだけど、これが隣にこられると、排尿までの時間が長くなるという実験結果もある。パーソナル・スペースを侵されることは、生理的な影響ももたらす。
 個人空間の広さは、一般的には腕を伸ばした半径60センチくらいの円が目安。前方だけはこの1.5倍くらい。満員電車内ではとても守られていず、さてこれが最近の暴力事件と関連しているかどうか、近年、個人空間に異変が起こっていることを指摘する研究者もいる。
 座ったときは個人空間も狭くなるようだが、空の車両で並んでいた二人は、はた目からは恋人に見えたことだろう。学生時代のできごと。これをきっかけに話しかけてその後、なんて展開があればしゃれていたのだろうけれど、残念ながらそれはない。終着駅に着くなり、それぞれに席を立ち、別の扉から出ていった。
 改札に向かいざま、それでも気になって、一瞬振り返る。ちら、と目が合い、改札を抜けた。駅前スーパーの人ごみの中、個人空間のはるか向こうに消えていく。その後、見かけない。きれいなひとだった。

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3 comments to...
“人と人のあいだ”
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小橋昭彦

渋谷昌三教授の「対談記事」をご参照ください。


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こま

今日は小説のような余韻のあるコラムでしたね。

昨日NHKでも電車や駅での暴力の原因に
パーソナルスペースの侵害があることを
採り上げていました。
でも、それだけではないと思う。

日本の満員通勤電車の歴史は大正時代から始まっている。
パーソナルスペースを保てない状態に
個人がうまく対処する知恵はある。
言動がきっかけにならないで、本人の身に何の覚えもないのに暴力を受けることも増えているのを見ると、
(歩いていて突然後ろから殴られるなど)
暴力を振るう方は、
パーソナルスペースを保てない場にこれまであった「暗黙の掟」を共有できないで
自分だけが被害者と思ってしまうのではないか。
日本人が得意としていた「周囲の様子を読み取って自分を合わせる」ことができなくなっているのではないか。
文脈が読み取れない。
他人がどう感じるか予測できない。
いわゆる「ジコチュー」な考え方・感じ方しかできない。
そんな気がしてならない。

そうなったのは教育のせい?(家庭や学校だけでなく広い意味での教育)


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シュニ

満員電車って、今の日本人の性格を
作った原因なんですかね。




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 1973年の12月8日。卒業を間近に控えた女子高生3人が自分たちの就職先についておしゃべりをしていた。そのうちひとりの就職先を、別のひとりが「信用金庫なんてあぶないよ」とからかう。朝の通学途中の、たあいもないおしゃべり。しかしこれが、その後13日から17日にかけて、健全な信用金庫から20億円もの預金が引き出されるという取り付け騒ぎに発展する。うわさ研究史上有名な豊川信用金庫の流言。 この流言は発生源が特定されたことで有名だが、通常、風説なんて言葉もあるように、流言の発生源や広がりは風のように定かでない。流言の広まりは状況のあいまいさと内容の重要度に比例するという公式がある。もっとも、各種の研究では重要度についてはあまり実証されていない。むしろ、あいまいさと不安感のかけあわせではないかという説もある。豊川信用金庫の場合も、オイルショックでトイレットペーパー買占め騒動が起こった直後という不安な世情があった。 流言はしゃべらないと広がらない。確かに人は、あいまいな状況、不安な状況にあるとしゃべりたくなる。確認したいし、安心したいから。そんなわけで、相手の様子を見つつ、確認できそうならちょっと話を脚色して、相手の同意をうながしたりもするわけだ。こうしてうわさに尾ひれがついていく。 うわさには流言のほかゴシップや都市伝説なども含まれる。ぼくたちがコミュニケーションを求める人である以上、それらがなくなることはきっと、無いのだろうな。

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 人は、完璧じゃない。失敗は成功のもと、間違いをおそれずのぞめばいい。ただ、同じ間違いを繰り返さないこと。新人時代にそんなことを教わった人も多いことだろう。とはいえ、なぜか間違いには驚くほどのバリエーションがあって、前とはほんの少し違う間違いを重ねてしまう。それもまた愛敬か。 もっとも、間違いが大事故につながると、とりかえしがつかない。記憶に新しいところでは茨城県東海村の臨界事故やサクシゾンとサクシンを間違えていた投薬ミス。あるいはニアミス時に管制官が航空機の名前を間違えて呼びかけていたできごとや、メートル法とヤード・ポンド法の単位の取り違えが主因だったNASAの火星探査機の失敗なども思い返される。 人は間違うということを前提に見直すこと。たとえば記号で呼ぶのではなくニックネームを付けるといったネーミングの工夫や、航空機だと車輪の出し入れのレバーはタイヤの形にするなど形状の工夫。同時に、失敗から学ぶ。文部科学省では、失敗知識活用研究会を開催し、失敗のデータベース化を進めてもいる。 ぼくもまた、ときにコラムで間違いをおかす。そのたびに反省もし、気をつけもするのだけれど、ゼロにすることはできない。それほど不完全な人間ということだが、読者の方々からの指摘に助けられている。それはぼくにとって、どんなコンピュータシステムより、どんなリスクマネジメントルールより、すてきなフェイルセーフ機能だ。人を救うのは、最終的には人なんだな。

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