乗りこんだ駅では満席だったのに、一駅ひとえきと人が降りていき、終点につくころ車両に残っていたのは、ぼくを含め二人だけだった。いまひとりの女性とは隣の席。移動しそびれてそのままになってしまっている。今さら席を移るのも嫌味だし、終着駅につくまで気づかぬふりをするか。ほかに誰もいない車両で、見知らぬ人と隣り合わせに座っている居心地の悪さ。満席だったときは気づきもしなかったのに。
人には個人空間、あるいはポータブル・テリトリーと呼ばれる領域がある。自分の身体の延長として、自分の一部と認識している領域。京都は賀茂川のほとりに見られる、ほぼ等間隔で腰をおろしたカップルの列は有名だし、電線の上にとまるスズメもポータブル・テリトリーにあわせて同じ間をあけて並んでいる。この距離、種類によっても違うという。
文化人類学者のエドワード・ホールによると、知らない人との対人距離が45センチを切ると不愉快になったり緊張したりするとか。男性用トイレで、二人が便器の前に立つとき、たいてい間にひとつあけて立つものだけど、これが隣にこられると、排尿までの時間が長くなるという実験結果もある。パーソナル・スペースを侵されることは、生理的な影響ももたらす。
個人空間の広さは、一般的には腕を伸ばした半径60センチくらいの円が目安。前方だけはこの1.5倍くらい。満員電車内ではとても守られていず、さてこれが最近の暴力事件と関連しているかどうか、近年、個人空間に異変が起こっていることを指摘する研究者もいる。
座ったときは個人空間も狭くなるようだが、空の車両で並んでいた二人は、はた目からは恋人に見えたことだろう。学生時代のできごと。これをきっかけに話しかけてその後、なんて展開があればしゃれていたのだろうけれど、残念ながらそれはない。終着駅に着くなり、それぞれに席を立ち、別の扉から出ていった。
改札に向かいざま、それでも気になって、一瞬振り返る。ちら、と目が合い、改札を抜けた。駅前スーパーの人ごみの中、個人空間のはるか向こうに消えていく。その後、見かけない。きれいなひとだった。
渋谷昌三教授の「対談記事」をご参照ください。
今日は小説のような余韻のあるコラムでしたね。
昨日NHKでも電車や駅での暴力の原因に
パーソナルスペースの侵害があることを
採り上げていました。
でも、それだけではないと思う。
日本の満員通勤電車の歴史は大正時代から始まっている。
パーソナルスペースを保てない状態に
個人がうまく対処する知恵はある。
言動がきっかけにならないで、本人の身に何の覚えもないのに暴力を受けることも増えているのを見ると、
(歩いていて突然後ろから殴られるなど)
暴力を振るう方は、
パーソナルスペースを保てない場にこれまであった「暗黙の掟」を共有できないで
自分だけが被害者と思ってしまうのではないか。
日本人が得意としていた「周囲の様子を読み取って自分を合わせる」ことができなくなっているのではないか。
文脈が読み取れない。
他人がどう感じるか予測できない。
いわゆる「ジコチュー」な考え方・感じ方しかできない。
そんな気がしてならない。
そうなったのは教育のせい?(家庭や学校だけでなく広い意味での教育)
満員電車って、今の日本人の性格を
作った原因なんですかね。