町の中心部に弥生時代の遺跡があって、住居の復元図が掲げられている。さらに時代を遡れば、あたり一帯は列島を南北に行きかうマンモスの通り道だったそうで、西に広がる沼地にマンモスを追い込んで狩っていたという。季節になると近くに仮住まいし、マンモスを待ったのだろうか。
人類最古の住まいは、洞窟など自然の地形を利用したものだった。今に残る壁画が当時の様子をしのばせる。その絵は何かのおまじないか、あるいは現代において絵画を飾るのと同じく、インテリア的な工夫なのだろうか。絵を前に、狩りに出た者たちの帰りを待った人たちがいたのだろう。
その人たちはどんな間柄だったのだろう。家族だろうか。あるいは一族、ないし一集落とでもいった方がいい間柄だったろうか。建築人類学と銘打たれたシリーズの一冊を読んでいて、家と家族が必ずしも一致するとは限らない、世界にはさまざまな住まい方があると教えられる。そもそも、家族が家を作るのか、家が家族を定義するのか。最近リビングにこだわる家族が多いのは、個室が強調された時代の反動として、交流の場が求められているということだろう。家は、現実の家族ではなく、家族の理想像を投影するものだ。
高校生の頃だったか、台風に備えて準備をしていた夕べ、家があるゆえに脅えるのではないかと考えたことがある。たとえば森の中ならどうか。木々は倒れてもまた再生する、そんな自然の流れに任せて嵐を待てば。家は、人を守ると同時に、喪失のおそれも与えているのかもしれない。
そういえば、人は必ずしも家が必要な生物ではない。チンパンジーも巣があれば充分(ちなみに巣の平均寿命は50日から150日くらいだとか)。そう考えると、もっとも単純な家の形は、円形だ。鳥の巣のように、自分の身の回り、寝るに必要な範囲だけを確保する。ささやかな、住まい。冒頭に述べた復元図の住居も円形だった。現代の住まいは、その延長にあるだろうか。
文中にとりあげた『住まいにつどう』(学芸出版社、1999)は残念ながら店頭から切れているようです。各地の住居が紹介されている充実した書籍として、『世界住居誌』をオススメ。また、手軽な本としては『人類と建築の歴史』があります。
むかしのコラム「間取り [05.02.24]」もご参考に。
なお、チンパンジーの巣の寿命については、「Life Span of Chimpanzee Beds at the Mahale Mountains National Park, Tanzania.」を参考にしました。
高齢者の一人として、”終の住まい”を考えないといけない時期に来たようです。然りとて、身体に異変が起こると家族は、一応に”119″に電話して、病院へ入れて医者任せです。悲しいかな、その時には、ご臨終の”終のすまい”は、病室です。
人間の住まいの原型は、公園で寝起きする”段ボール個室”に見られると思いますが如何でしょう。貴男はそうならない絶対の自信がありますか? 何時襲われるかも知らない天変地異の時は、”段ボール個室”で我慢します。
こう考えると家族は、有っても”家”ほど当てにならないものはないような気がします。
球状の個室を住まいの展示場で見かけたことがあります。まるで小さな宇宙船のような空間。体脂肪もそうだけれど、身の回りのムダをそぎ落とす方が先かもしれない。
マンモスを追い込む暮らしを想像して、お腹がすいてきたことを思い出し、同時に、小橋さんの文章は、帰宅を急ぎ仰ぎ見る月のような、古代に舞い戻った幻想的なひとときを喧噪のオフィスに運んできました。
kenさん、ありがとうございます。段ボール個室といえば、まさに『ダンボールハウス』を読みました。ダンボールハウスを建築的視点からレポートした異色の書です。「寝るところからはじまって、だんだん凝ってくる」という言葉が印象的でした。
komoさん、ありがとうございます。マンモスとお腹がすいたといえば、もしかして大貫卓也さんのカップヌードルCM「hungry?」の影響?……という話はともあれ、ぼく自身は茅葺にトタン屋根をかぶせた民家で育ったので、当時の質素な家の中を思うと、ほんとおっしゃるとおり、今の生活のモノの多さにため息が出ます。
はじめて書き込みいたします。きまぐれなものですから、以後続くかどうかわかりませんが、よろしく。
私は、「住居」=「日常」という状況から離れる生活にあこがれておりました。
古くは、西部劇のなかでの幌馬車での移動生活、キャンピングカー、長ずるに及んでは、チンギスハンの舞台となったモンゴル平原のパオ(ネットで見ましたが、70万ぐらいで国内で販売されているのには驚きました。)、キャンピングカー・・・と。
しかしなかなか日常にがんじがらめの私には夢想で終わりそうです。
以前、テレビで取り上げられていた、最強の構造体である三角形で球体住宅(ドームハウス)ってうれてるんでしょうか。多少ともたたずまいとしては、非日常ではあると思えますが。