手品に詳しくないぼくでも、フーディーニの名は知っている。脱出術で人気を得た、20世紀前半のマジシャン。その芸名のもとになったのが、近代マジックの父ロベールウーダンだ。彼らが活躍した19世紀から20世紀にかけては、近代マジックの黄金時代。当時の軌跡を描いた『ゾウを消せ』を読んでいて、あらためて感じることがあった。
著者のジム・ステインメイヤーがマジックの奥義について「はじめに」で書いている。「最終的な答えはある意味で科学にあり、ある意味では芸人魂にある」と。科学と、マジック。ちょうど別の機会に、クラークの第三法則を引用しつつ、科学心を養うことについて考えたところだった。いわく「十分に発達した科学技術は、魔法と見分けがつかない」。科学と、魔法の境界。
本書によれば、19世紀に人気を得たマジックショーの主催は、ロンドン工芸大学だったという。科学技術に親しんでもらうために開催されたのだ。ステージ上に美女が浮かんだり、消えたり、今ではイリュージョンと言われる大技の数々のタネを明かす、というよりもタネが生まれる過程を描くことで、『ゾウを消せ』は、科学から魔法を生むマジシャンの「芸人魂」を浮き彫りにする。
考えてみれば、手品あるいはイリュージョンはユニークな位置にある。クラークも言うように、科学技術も発達しすぎると、魔法になる。魔法になってしまうと、誰もタネあかしを求めははしない。テレビに映像が映ろうと、魔法の杖で子猫がお姫様になろうと、「そういうもの」ですぎていく。発達しすぎた人工物に囲まれていると、身の回りは「そういうもの」ばかりになる。だけど手品は、魔法になりきれない。
それでいいのだと思う。「そういうもの」で構成された日常より、地域のマジックショーで、タネがあったら見破ってやろうとばかり舞台にへばりつく子どもたちが愛しい。そこには、自分を取り囲む世界に対する、より正しい態度があるような気がする。
『ゾウを消せ』。同じタネあかしをしても、即物的ではなく、過程として描かれていくと、それ自身がスリルに満ちてきますね。
文中で触れた「別の機会」で紹介している「科学技術週間Webページ」にある周期表は秀逸です。ぜひ入手ください。
ボクがトランプ手品をやると 息子は「タネ」を考えます。娘は 「魔法」と言う事で 妙に納得します。
タネ明かしをする時に 少しウソを入れると息子は騙され 娘は 疑惑を持ちます。
男の子の方が科学的に考察するのかな?と思っていたら その後の検証作業は 女の子の方が向いているのかな。
まぁタネ明かしにウソはないと 思ってるんでしょうね。
この前、TVで放映した新進のマジッシャンの演技で、空中浮遊があった。グラウンドでマジッシャンの両サイドに、彼とタレント出演者が手をつなぐ形に立っていた。その時、徐々に体が浮き始め大体1分くらい50センチくらいの高さに浮かんだ。手をつないだまま、またカメラは四方又は上方から撮影していたが、ワイヤーのようなものは写らなかった。これのネタとしてはどういう事が考えられるか。
極めて浮上性の強いガスを封入したミニバルーンのようなものを隠してその浮力を利用したのか。または確認できにくい、強度の強い素材のワイヤを使ったやらせなのか。皆さんはどう思われますか。