質量の起源と題した科学誌の記事を目にして、少しばかり驚いた。かつて重量と質量の違いについて学び、おもしろいと思った記憶はあるが、質量があることの理由を問うたことは、これまでない。
ゾウとアリには、大きな質量差がある。ゾウがアリよりも多くの原子からできているからだ。ところが、それと同じくらいの質量差が、ニュートリノとトップクォークの間にもあるという。どちらも大きさのない粒子だ。それなのに大きな違いがあるのはどうしてか。質量はなぜ、生じるのだろう。
現代科学では、質量はヒッグス場によって生じると考えるという。この宇宙は真空ではなく、ヒッグス粒子に満たされている。そこを別の粒子が進むとする。するとヒッグス粒子が集まってきて進行を妨げる。その結果粒子は速度を落とし、質量を得るというわけだ。水の中を歩くとき、水がまとわりついて抵抗を感じるイメージとでもいうか。ただし、光にはヒッグス粒子は寄ってこない。だから光は光速を維持するし、光子には質量がない。
ヒッグス粒子はまだ発見されていない。加速器を利用して探索する計画が進んでおり、近く発見される可能性が高いと言われている。実は「標準理論」と呼ばれる現代の宇宙を説明する理論は、粒子の質量がゼロであることを前提としており、実際の観測で発見されたニュートリノなどに質量があるという事実と矛盾している。この矛盾を説明するのが、ヒッグス場でもある。ヒッグス粒子が見つかることは、標準理論を新しい次元に押し上げる画期的な出来事でもあるのだ。
質量の起源が問われるようになったということは、これまで「どうやって」を探っていた問題に対し、「なぜ」と問うところまできたということでもある。古代ギリシアの哲人タレスが万物の起源を探ったことを持ち出すまでもないだろう、なぜ、という問いは、哲学の問いであると同時に、科学の原点でもある。科学は、終焉をむかえたどころか、まだ端緒についたばかりなのかもしれない。
このテーマについては、「現在の素粒子像「標準模型」」が分かりやすいです。また、冒頭に述べた科学誌の記事とは、「日経サイエンス2005年11月号の記事」がそれです。
ヒッグス場が質量を与える説明は、「粒子の質量を与える仕組み」にあるように、集団の中を進む人で説明されることが多いようですね。
なお、最終段落はジョン・ホーガンの『科学の終焉』を下敷きにした表現です。念のため。
今回は物理でしたね、宇宙空間は「何によって満たされているのか」と言う疑問から開始して到達したのは「電磁波」と言う説が最も新しいとされているのが「新星爆発により生じた宇宙はやかで冷えてゆく過程」で「単なる波の性質」になるとするのがホーキングによる宇宙論です。一般的には物質は温度が下がると性質に変化が生まれる、変化とは質量も含めていますが、それが常識的な古典力学と量子力学では少し趣が異なります、小橋さんの今回の記事の地平はここからスタートするようです。今回の「質量問題の提起」は「宇宙空間を満たしている物質は何か」という疑問時代(1900年のプランクの「プランク常数h」の発見⇒「真空空間の空洞放射」当事)の設問になるのでしょうか、叉メールします。
最近,宗教特に禅に関心が集中してしまっている中で久しぶりに興奮する物理のお話でした.私は大学入学後すぐに量子力学研究会に入ったのですが,ジャズ喫茶入りびたりのクラブ活動で全然理解できておりません.トクツトミオ様のコメントもチンプンカンプンです(笑).それでも今回の記事の示唆するところは何となくわかります.21世紀は「心の時代」と言われますが,正に「何故?」を問う段階に来たのでしょうね.人類が初めて精神的な進化に遭遇する時代になったのかも知れません.
宇宙空間を満たしている「ヒッグス粒子」、何だか昔言われていた「エーテル理論」みたいですね。(非常に低レベルで申し訳ないですが) 縁起空さん同様、物理学の高度な話は良く判らないのですが、今後も、時々はこういう課題について思いを馳せ続けたいものです。
原初の疑問符?
何故人間は疑問を持つようになったのか?
に執りつかれ
物理法則(存在間の関係)とは意識を内包しているか?
最近意識が物質ではないか?という馬鹿な概念に執りつかれ
根源の意識とは何か?
物理法則そのものが意識の原点ではないのか?
などとあらぬことを考えつつ辿りつきました
法則とは関係の認識であり 、宇宙自体が爆発過程であるように
生物の生長も爆発プロセスであり、脳もある種の爆発過程ではないのかとか
初期のRNAやらDNAから人間の思考に至るまである一環した力が働いていて
法則とはそれ自体自己認識、乃至は関係認識を内包している
常に関係を維持するにはエネルギーが必要であり
そのエネルギー形態の変化段階における相互作用が意識の根源ではないか?
などと・・・
父了吉の著書からプランク常数の発見により、万有一元が科学的に証明されたとして、宗教の深遠さを科学的に説明できて、現代人に判り易い安心感が出来たと、喜んで居りましたが、未だその先があって、不安を作ろうとしているようで、無間地獄とはこのことかと、思っております。一九会道場の日野先生は、親父の書いたものを、ドンドン焚き付けにくべて居られたと、現道場長の蛭田様から伺いましたが、理屈で安心感は得られない教訓と存じます。然し、レベルは遥かに向上し、殺人が日常化してしまっています。一九会道場も外人が多くなり、日本人の衰退を表しています。ふがいない息子です。