ざつがく・どっと・こむ
ちょっと知的な雑学&トリビア

こころの病

2005年7月28日 【コラム
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 ヨーロッパの精神病院は監獄から出発し、日本の病院は寺院から出発したと、『日本精神病治療史』にある。日本では社会の態度が緩和であった証拠ではないかと、著者の八木氏が指摘している。江戸期の精神医療は現在からみても高い水準にあったという。
 江戸時代のこころの病といえば「きつねつき」などが多かった様子。今ではまず見られないけれど、それはある同じ症状を別の名で呼ぶようになったということではなく、実際に、病が変わってしまったということらしい。こころの病は時代と密接に関係している。
 現在においては、うつ病対策が大きなイシューになっている。うつ病を含む気分障害の総患者数は増加傾向と厚生労働省の資料にある。社会学者の鈴木謙介氏は『カーニヴァル化する社会』で若い人にうつ状態が増えていることを労働問題とからめて論じ、「理想」という遠い目標に躁的に向いつつ、ふと冷静になった瞬間にうつ状態に陥る自身の経験を述べている。「理想」に実体はない。ぼくたちはただ理想を追うことを理想とし、ふと冷めたとき、理想郷への途上ではなく、出発点に立ったままの自分に気付く。
 精神科医のなだいなだ氏は、1978年の著書で自分をものさしにすることは不確定なことで、それを確定したものとみなそうというのがうつ病的状態だと指摘している。だとすれば自己決定が言われる今、ぼくたちはうつ病的時代に生きているということかもしれない。なだ氏はこうも指摘している。病とは、時間の流れのなかで瞬間を切り取って、相対的にみて「ずれ」を指摘した状態にすぎないと。だから本来なら、患者ではなく社会の側を治すことこそ「治療」かもしれないと。
 阪神淡路大震災でPTSDが注目され、「心療内科」という科名が認可されたのが1996年。こころが操作できるかのように扱う心理系娯楽番組も増えた。そんな「こころの時代」にあってぼくたちは、ほんとうのこころをつかみかねているようだ。

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14 comments to...
“こころの病”
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小橋昭彦

今回は、お悩みの方も多いだろうと思い、どう書いていいものか、苦しかったです。なんとか、着地できたでしょうか。

8月いっぱい、こちらのコラムは夏休みをいただきます。実はぼく自身、ちょっと整理しないとまずいなあと思う部分もあり、他のもろもろをひとつひとつ片付けさせていただきます。勝手なことで申し訳ないですが、お許しください。9月にまたこちらでお会いしましょう!

今回の参考としては、厚生労働省「地域におけるうつ対策検討会報告書」を。また、「健康日本21」も参考にどうぞ。

著作としては、『日本精神病治療史』『カーニヴァル化する社会』『くるい きちがい考』が今回著者名をあげた参考書。加えて、『心理学化する社会』もお薦めです。


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エンヴィ

去年過労により心療内科に通っています。周りにも沢山うつの人がいます。私はうつではありませんが・・。
社会が人を焦らせる状況を早く改善して欲しいものです。

このままでいいんだよ。急がなくていいんだよ。が救いになります。

欲張りにさせることで経済効果を狙う、「ねばならない社会」はどこかで止まって欲しいものです。


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山崎

しばらく日本を離れ、日本語コミュニティーから遠ざかっていたので、久し振りにこのコラムを読んで、少々驚いたという気持ちが正直なところ。なんだか、ものすごく知識、情報、構造の中の毎日の生活が悲鳴を上げているように感じました。

小橋さんのセンテンスを読んで、「え?これって、僕{たち}という括りなのかしら?」と疑問を持ち、このページのコメントで、苦しい着地の状況を理解しました。構造の中に入ってしまって(しまわざるを得ず)、自由発言をつづけるには、かなりの勇気と忍耐と大きな心、そしてそれを支えてくれるサポーターの存在が不可欠だと思います。

私、広告代理店勤務時代時代から今日雑のお世話になっているファンのひとりです。8月はゆっくりとスピリットの休暇をとって、9月にまた戻ってきてください。

淡々と、的確に物事をロジカルに捉え、体温をもって時代を切ってくれているこのコラム。きっと他の読者の方々もみな、構造の中に入り込まない、当初の自由なスピリットが大好きなんだと思います。おっと、私だけかもしませんが。(苦笑)。

Have a great vacation!


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細野孟士

心の病を治すのは社会を変えること…という言葉に共感です。リスク・カウンセラーという立場で、家庭内トラブルや債務超過の人の相談を受けていますが、多くの人が鬱の状態であることに驚きます。その原因となっている問題の解決の目処が立ったり、解決できると多くの人が目つきや顔色…言葉の調子まで生き生きとしてくるのが分かります。
古い医の文字には、「医+殳+酉=醫」と「医+殳+巫=毉」の字がありますが、後者の巫の付く医の文字などはまさに心の部分を解決していく医の世界ではと感じています。
心の問題は難しく、債務超過などの問題を抱えた人を鬱から自殺に追いやってしまうことの内容に精一杯取り組んでいきたいと思っています。
今後も貴重な情報をいただけると大変嬉しい限りです。取り急ぎ、感想を述べさせていただきました。ありがとうございました。
”細野孟士”


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渓太

病とは…相対的にみて「ずれ」を指摘した状態にすぎない。 まさに言い得て妙な事ですが、心理学の歴史も時代背景や文化/思想と深く関わり合って今日に至ってると思いますが、今の日本は敗戦で有無を言わせず定着した?民主主義や資本主義(個人主義)と日本的文化の村社会とのギャップから生じる矛盾にある樣な気もします。資本主義の内在的矛盾はそろそろ限界に近づいているのかもしれませんね。そういえば、その昔心療内科に行った時危うく鬱病の認定を受けそうになりました。何でも取り敢えず薬を処方して症状(当時は朝起きられない事で来院しました)が改善されればその病気でしょう。と言われ困惑しましたが、そんないい加減な医者も世の中にはいるみたいです。心の問題とは心が解決しなくてはいけないので、すぐれた臨床心理士が今後さらに必要とされる世の中なのかもしれません。昔は学校の先生やお寺の和尚さんがその役目をしてくれていたと思うのは私だけでしょうか?


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子持ちSE

毎回楽しく拝読させていただいております。
私は、うつ病を患って4年になります。いまは、ほぼ健常に戻ったのですが、発症時は悲惨でした。会社は無断欠勤するし、給料は下がるし、子どもはいるし。
今から思い返すと、自分が自分でなかったような気がします。
高度経済成長時代に生まれバラ色の未来を夢見て育った自分は、会社の業績を右肩上がりにすべく、「『理想』という遠い目標に躁的に向いつつ」ありました。誰でも会社にいる限りは、そうせざるを得ないのではないでしょうか。
今は少し考えが変わりました。男性人口が戦後初の減少に転じ、間もなく日本の人口は減り始めます。原理的には、移民を受け入れない限り、右肩上がりの経済成長は成り立たなくなるわけです。
そう考えると、だいぶ楽になりました。
会社が傾いたって仕方ないわけですし、子どもに無理矢理勉強を押しつける必要もなくなりますし。


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tom

一口に『理想』と言っても色々な幅が有ると思います。生活レベルに関する理想もあるでしょうし、政治的、社会的な理想も有るでしょう。

以前、『最近の子供達には夢が無い。』という様な話があったと思いますが、夢とは理想と似たものなのではないでしょうか?

私は理想を持つ事が悪い事だと思いません。ただ2点、

1.画一的な理想を求めるのではなく個々人が違った理想を持つ事を社会が許容する事。

2.理想に向かっている自分を見たときに、『まだ一歩しか進んでいない。』ではなく『もう(既に)一歩も進んだ。』という考え方が出来るような環境をつくる事

が必要だと思います。(実際に病に苦しんだ人には、『そんなに簡単に言うなと怒られるかもしれませんが・・。)』


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内弁慶

小橋様
暑中お見舞い申し上げます。猛暑が始まっていますが、このたびは「こころの病」の配信有り難うございます。さて、私の恩師(臨床心理学、なだいなだ氏の友人)が米国の病院の遊学から戻られて「日本の統合失調症についてのディスカッションのおり、全ての事例について、それはうつ病ではないか」と言われたということを思い出します。
最近のメンタルヘルス関係者は「うつ」について心の問題としての治療をお勧めのようです。しかし、私たちの社会が活動モードを最優先していて、身体のリズムで大切な休憩モードを犠牲にして、数字を挙げてきた付けのように見えて仕方有りません。うつ=depressionは不景気とか恐慌を意味する語源があるそうです。これは、完全に社会経済の仕組みが生み出している現象ではないでしょうか。
私たちが持っている身体リズムの極度のズレに対する、全身の抵抗のあらわれが「うつ」のようであり、もしそうだとすれば「うつ」をこころの病とみるのでは不十分ではないかと思います。
ですから欝対策には医学モデルだけでなく、社会モデル、健康モデルといったアプローチが必要ではないかと思います。


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まーのすけ

日本の病院は寺院から出発したと。。。とありますね。確かにそのとうりです。現代医学の基礎になった当時の経験療法は、アジアに生まれ体系化されました。そして仏教の伝来とともにチベット、中国、そして日本に伝えられています。その一方で、ペルシャにも伝えられています。ペルシャには、シルクロードに近い伝わりだと思います。

現在の寺院の名称で『○○院』とあるのは、その昔、敷地内に医療施設を併設していたことの名残です。そして当時の多くは、地域住民の心のケアを受け持っていたようです。


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小橋昭彦

みなさん、ありがとうございます。いずれのコメントにも、とても学ばされるものがありました。

うつ病が社会的な病理であるというのは、確かにそうだろうと思っています。自由、自己、時間あたりがキーワードかもしれません。

ぼくも「理想」を持つことそのものは否定しないのですが、たぶん、それが個人の問題に帰着してしまっているのもひとつ苦しい原因だろうなあと。

理想って、仲間が共有し、先輩から後輩へ、親から子へ、そのまた子どもへと引き継がれていくような、息の長いものじゃないかと思っています。時代にあわせて、適応するというか、形を変えていきもするでしょう。だから、いまこの時代に個人が自己決定して自己責任で達成できるなんて、無理に重荷を背負わなくていいんじゃないかと。

進化の過程では、役立っているかどうかわからないような変化が実は大きな意味があったりもします。だから、いまという一瞬を担うに過ぎない個人としては、ただ昨日と少し違う今日、合わせようにもあわせられないちょっとした違いを持っていれば、それだけですごく貴重な多様性を世の中にもたらしている。

それは固まったものであるはずはなく、環境に合わせてゆらいでこそ価値がある。そんなことを考えています。


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Watanabe

小橋さんが常に「自身の問題」として引き寄せてお話してくださっているのを感じていますが,にも拘わらずその社会状況や統計的な事柄を個人は(私を含めて)自分の外の世界として客体化して安心する,というか自分は別と捉えていることが多いように感じます.多くの障害に直面した時に初めてそれを自身の問題として血肉化できるのだなあと,正に今痛感しています.人生苦しいです.楽しく生きている人がいれば本当に羨ましいです.


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山崎

つらい時期、つらいことを、知識だけでなく
心で感じた経験があるからこそ、
真っ暗な場所・時間の本当の「暗さ」を
知っているからこそ、
太陽のまぶしさをいとおしく感じることができる。

美しい虹を心から楽しんでいる風景とその瞬間は
大雨の嵐があったからこそもたらされた恵みであることを
忘れてはいけない。

構造が変わるのを待つのではなく、ひとりひとりが
変えることができるパワーを持っていることを思い出す時です。
なぜなら、社会は人間がつくりあげてきたものだからです。
ただし、勇気がいります。サポートも必要です。
だからインターネットでのつながりが、ツールとして
提供されているのではないでしょうか。Unity Humanityです。

1929年世界大恐慌の年は、多くの人が財産を失ったと記されて
いる一方で、多数の億万長者を誕生させたという点については
あまり語られていません。どちらも事実であり、どちらの現実を
「事実」として受け止めるのか、認識するのか、最終決定権は
私たち自身が持っています。メディアでもなければ構造でもなく、
私たちひとりひとりが「事実」として認識し選択できる権利、
自分のフィルターを使うことができるのです。

個人が自分が幸せでいることに責任をもち、それがつながって
ひろがって、共有され時間軸を超えていくのだと思います。
友人や家族はそれをサポートする役割を果たすのでしょう。
自分勝手なように聞こえますが、自分自身が幸せであることに
集中することが最初の一歩でしょう。人間は本人でしかその人を
変えることはできないのですから。きっかけを提供することは
できますが、変える・変わる決定権を持っているのは本人のみです。

相手を変えることも、社会を変えることもできませんが、自分が
変わることはできます。自分が変わると、周りは確実に変わります。
その輪が大きくなると、社会を動かす力になるのだと思います。
なぜ変えることができない対象にエネルギーを集中し、反応し
人生の楽しみをあきらめることを選ぶのでしょうか?それよりも
自分で変えられることに集中し、もっと楽しくする・なる方向へ
エネルギーを使うように努力することを、「私は」選びます。(笑)


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桃井 豊

いつも質の高いコラムを有難うございます。
普段の生活と違う視点が得られ、非常に啓発されます。
ただ、1点だけ。
「こころの病」とよく言われますが、
「うつ」は「こころ」の病であると同時に、あきらかに「脳」という臓器の失調でもあります。
「うつ病」までいってしまうと、悩みの原因が解決に
向かっても、「脳」は治癒に向かわないことがあります。
(だから本来なら、患者ではなく社会の側を治すことこそ「治療」かもしれない)
私もこれは間違いとは申しませんが、そこを強調し過ぎることで、治癒できる人が治癒できなくなってしまう
危険だけ、指摘させてください。
「悩みは落ち着いたのに何故俺は職場復帰できないんだろう。自分がだらしないからだ」と、うつ病の人ほど自分をどんどん追い詰めてしまうからです。
「心理」の治療と「脳」の治療は重なる部分も多いですが、それでも違うものです。
精神障害者の血統に生まれ育ち、社会に受け入れられる
かどうか不安に怯えつつ苦しんで色々な事を学び人並みの大人になれた者の一人として、強調させていただきます。
お邪魔しました。


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シロ

私は、気分循環性障害です。
長く無職で、今年28になる今も何もしていません。
鬱のとき、何もする気にならず、早く楽に死ねたらいいなぁ・・と思います。
躁のとき、毎日が楽しく、この病気でよかった?♪ と思います。
不思議な病気と共に居ます。




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 地元で里山ウォークデイなるイベントをここ数年企画し行っている。ウォークといっても道順が決まっていたりガイドがつくわけではなく、集落の地図を片手に自由にのんびり歩いてくださいと、そういう一日だ。民家も開放されているから、縁側でお茶したり、しめ縄を編んだり、農作業を手伝ってみたり、いわば里帰り気分で楽しめる。 先日、観光関連のセミナーを開催したとき、エコミュージアムに詳しい吉兼秀夫教授が、観光は「みる」から「する」「しる」と魅力を追加してきて、「ひたる」時代になっていると話されていて、確かにそうだとうなずいた。ひたるというのはつまり、お客さん気分じゃなく、現地に溶け込んで同じ立場でその土地を経験することで。 1962年、ブーアスティンという学者が『幻影の時代』で「擬似イベント」という概念を提唱した。報道や宣伝物などの情報伝達手段によって作り出されたイメージとでもいった意味合いだ。日本といえばフジヤマ・ゲイシャなんてのもその一種だろう。観光で言えば、観光パンフや名所案内番組などが擬似イベントを創出する。そして観光客は「ああ、イメージどおりだ」というところに旅の喜びを感じていた、と考えるといい。 でも、旅にはそうじゃない楽しみもある。伊勢志摩へのイメージを旅の前と後に尋ねた調査によると、旅の前には33.4%あった「真珠と海女」が旅行後には13.3%に減少し、逆に「素朴な人情」が2.2%から9.9%に上昇している。真珠と海女はまさに擬似イベントだろうけれど、素朴な人情というのは、旅館経営者側が魅力としてあげていたもので、旅という経験を通して、観光客と提供側のイメージがすりあわされたと言える。そんな、いい意味で期待を裏切られる経験も旅の楽しみのひとつ。 今年、地元での里山ウォークデイは10月2日。来訪者と出会うことは、地域の人のまなざしも変えていく。今年はどんな出会いがあるのだろう。どんな発見があるだろう。

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