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ちょっと知的な雑学&トリビア

なぜ旅を

2005年7月21日 【コラム
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 地元で里山ウォークデイなるイベントをここ数年企画し行っている。ウォークといっても道順が決まっていたりガイドがつくわけではなく、集落の地図を片手に自由にのんびり歩いてくださいと、そういう一日だ。民家も開放されているから、縁側でお茶したり、しめ縄を編んだり、農作業を手伝ってみたり、いわば里帰り気分で楽しめる。
 先日、観光関連のセミナーを開催したとき、エコミュージアムに詳しい吉兼秀夫教授が、観光は「みる」から「する」「しる」と魅力を追加してきて、「ひたる」時代になっていると話されていて、確かにそうだとうなずいた。ひたるというのはつまり、お客さん気分じゃなく、現地に溶け込んで同じ立場でその土地を経験することで。
 1962年、ブーアスティンという学者が『幻影の時代』で「擬似イベント」という概念を提唱した。報道や宣伝物などの情報伝達手段によって作り出されたイメージとでもいった意味合いだ。日本といえばフジヤマ・ゲイシャなんてのもその一種だろう。観光で言えば、観光パンフや名所案内番組などが擬似イベントを創出する。そして観光客は「ああ、イメージどおりだ」というところに旅の喜びを感じていた、と考えるといい。
 でも、旅にはそうじゃない楽しみもある。伊勢志摩へのイメージを旅の前と後に尋ねた調査によると、旅の前には33.4%あった「真珠と海女」が旅行後には13.3%に減少し、逆に「素朴な人情」が2.2%から9.9%に上昇している。真珠と海女はまさに擬似イベントだろうけれど、素朴な人情というのは、旅館経営者側が魅力としてあげていたもので、旅という経験を通して、観光客と提供側のイメージがすりあわされたと言える。そんな、いい意味で期待を裏切られる経験も旅の楽しみのひとつ。
 今年、地元での里山ウォークデイは10月2日。来訪者と出会うことは、地域の人のまなざしも変えていく。今年はどんな出会いがあるのだろう。どんな発見があるだろう。

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6 comments to...
“なぜ旅を”
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小橋昭彦

伊勢志摩についての調査結果は、前田勇『観光とサービスの心理学』より引用しました。観光学というのがあって、『観光学入門』がまとまっており、その他「観光学ドットコム」などご参考に。

文中で述べましたが、今年、10月2日(日)に里山ウォークデイを予定しています(どんなものかについては、「昨年の案内」をご参照)。同日、集落内にあるわが家で読者交流会を行います。よろしければ、あわせてご家族でご参加ください。東京方面からだと、宿泊が必要になります。農家民宿「みのしょうの里」が近くです。小橋に聞いたってお伝えください。割引があるわけじゃないけど、話のネタくらいにはなるかも。


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もみやま

伊勢志摩取り上げてくれてありがとう
旅行前のイメージで素朴な人情が2.2%しかないということが、現状の伊勢志摩を表してるなあ。。。
広告宣伝方法を見直すべきだとは俺も思ってます。
真珠なんかのイメージではこの時代を生き抜けないよ。


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tom

受動から能動へ。修学旅行で一番記憶に残っているのが
宿での枕投げというのと一緒なのでしょうか。
ただ、地方の観光という点では、今回の文はかなり違和感があります。
私の実家も田舎の観光地ですが、都会の人が、田んぼや
農村を見て自然を感じるというのが不思議でなりませんでした。
『農薬いっぱいの田んぼや、下草を刈り払った林の何処が自然なの?』、『田舎を体験しに来たのなら虫や臭いはあたり前じゃないの?』
結局、田舎を体験するといっても、都会の人がイメージに合う『田舎』を疑似体験するという本質は、同じだと思います。


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tom

民宿が「素朴な人情」が売りというのも結局は逃げだと思います。
田舎料理といえば聞こえは良いが、味付けや調理法はどこも一緒で、中の材料が少し違うぐらい。部屋の模様替えも殆んどしない。お金を掛ける必要は無いが、もっと経営努力が必要だと思います。
最後に、里帰り気分を楽しみたいなら、里帰りすればよい。ふるさとが無い人だって、親戚ぐらいはいるはずなんですけどね。


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しゃあ

ウチは 全員 東京生まれの東京育ちです。でも どこの観光地に行っても 東京とあまり差はないと思います。
情報伝達のスピードと多様さのせいでしょうか。日本全国が均一化されていると感じます。
「里帰り」なんて考えたコトないナ0。


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猪花栄治

 鉄道趣味いわゆるテツである私は、特に鉄道を利用するにおいて、パック旅行など考えたことがない。完全オーダーメイドでないと気がすまない。
 高校の修学旅行で、学校側は何を考えたか、生徒に1日分の行程を考えてもいいと生徒に行程案を出させて、私の案が採用された。その時も明確なポリシーを持っていた。大人たちが、生徒の行程を決めるのに、何が分かるんだ。自分たちの年代でないと分からない部分がある、生徒全体が、必ずここに行って良かったと言わせるものを作ってやると。
 完全オーダーメイド。オレンジレンジのタイアップ曲の作り方にも似ている。関連性のない、何かの映画・ドラマと曲を無理やりくっつけるんじゃなくて、原作・脚本を読破し、撮影現場まで足を運んで作り上げる。製作担当者がここまでやるアーティストは珍しいと絶賛するほどだ。映画「いま、会いに行きます」「花」と映画「電車男」「ラブ・パレード」がそうですね。
 提案型営業。相手の企業に合った営業提案をしていく。直接タッチはしていないが、まあ営業が決めてきたことを現場できっちり形にしてやる方に関わっているが、企業が生き残る最後に残された営業パターンといっても過言ではない。




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 あるイベント会場からの帰り、友人と進化についてのとらえ方の話になった。たとえばキリンの首が長いのは、一般には「高い木の葉を食べるため」と考えてしまう。しかしそう表現すると、キリンに首を長くする意思があるように受け取れる。 実際には、こう考えた方がより「進化」の本質に近い。まず、突然変異によって首の長いキリンが生まれる。世の中には首の短いキリンもいて、それぞれ子孫を作っていく。しかし、首の長いキリンの方が多くの木の葉を食べることができるため、子孫を残す確率がより高くなった。こうして何世代かあとには、首の長いキリンが優勢になる。それが自然選択。キリンが高い枝の葉を食べるために首を伸ばしたわけではないのだ。 擬人法については以前にもふれたことがあるけれど、人はものごとに「意思」を感じとる傾向があるし、それが世の中に詩的な美しさを与えている側面もある。しかし一方で、たとえば進化の場合なら、意思を見るより結果としての現在と見たほうが、時間の積み重ねのダイナミックさを感じられないだろうか。 ところでここに、センダックの絵になる絵本がある。子どもたちに物の定義を尋ねた結果を絵にしたものだ。この本は、動と静についてまた別の観点を教えてくれる。あなたは「穴ってなに」と尋ねられると、何と答えるだろう。平面にうがたれた空間とか、地面のくぼみとか、そんな答えをするかもしれない。子どもたちはどう答えているか。穴は「掘るもの」であり「落っこちるところ」「隠れるところ」だという。そう、彼らは自らを主体とする動詞形でものごとをとらえている。それは、ものごとを静的にとらえてしまう自分の癖に気付かせてくれ、絵本を読むたびぼくは、自分はいま世界と動詞形で関わっているだろうかと、問い返している。 自然の営みを静かにそのままうけとめ、一方で世界に対して身を乗り出して動詞的に関わっていく。この振幅の中に、日々の楽しさがある。

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 ヨーロッパの精神病院は監獄から出発し、日本の病院は寺院から出発したと、『日本精神病治療史』にある。日本では社会の態度が緩和であった証拠ではないかと、著者の八木氏が指摘している。江戸期の精神医療は現在からみても高い水準にあったという。 江戸時代のこころの病といえば「きつねつき」などが多かった様子。今ではまず見られないけれど、それはある同じ症状を別の名で呼ぶようになったということではなく、実際に、病が変わってしまったということらしい。こころの病は時代と密接に関係している。 現在においては、うつ病対策が大きなイシューになっている。うつ病を含む気分障害の総患者数は増加傾向と厚生労働省の資料にある。社会学者の鈴木謙介氏は『カーニヴァル化する社会』で若い人にうつ状態が増えていることを労働問題とからめて論じ、「理想」という遠い目標に躁的に向いつつ、ふと冷静になった瞬間にうつ状態に陥る自身の経験を述べている。「理想」に実体はない。ぼくたちはただ理想を追うことを理想とし、ふと冷めたとき、理想郷への途上ではなく、出発点に立ったままの自分に気付く。 精神科医のなだいなだ氏は、1978年の著書で自分をものさしにすることは不確定なことで、それを確定したものとみなそうというのがうつ病的状態だと指摘している。だとすれば自己決定が言われる今、ぼくたちはうつ病的時代に生きているということかもしれない。なだ氏はこうも指摘している。病とは、時間の流れのなかで瞬間を切り取って、相対的にみて「ずれ」を指摘した状態にすぎないと。だから本来なら、患者ではなく社会の側を治すことこそ「治療」かもしれないと。 阪神淡路大震災でPTSDが注目され、「心療内科」という科名が認可されたのが1996年。こころが操作できるかのように扱う心理系娯楽番組も増えた。そんな「こころの時代」にあってぼくたちは、ほんとうのこころをつかみかねているようだ。

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