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ちょっと知的な雑学&トリビア

静と動のあいだ

2005年7月14日 【コラム
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 あるイベント会場からの帰り、友人と進化についてのとらえ方の話になった。たとえばキリンの首が長いのは、一般には「高い木の葉を食べるため」と考えてしまう。しかしそう表現すると、キリンに首を長くする意思があるように受け取れる。
 実際には、こう考えた方がより「進化」の本質に近い。まず、突然変異によって首の長いキリンが生まれる。世の中には首の短いキリンもいて、それぞれ子孫を作っていく。しかし、首の長いキリンの方が多くの木の葉を食べることができるため、子孫を残す確率がより高くなった。こうして何世代かあとには、首の長いキリンが優勢になる。それが自然選択。キリンが高い枝の葉を食べるために首を伸ばしたわけではないのだ。
 擬人法については以前にもふれたことがあるけれど、人はものごとに「意思」を感じとる傾向があるし、それが世の中に詩的な美しさを与えている側面もある。しかし一方で、たとえば進化の場合なら、意思を見るより結果としての現在と見たほうが、時間の積み重ねのダイナミックさを感じられないだろうか。
 ところでここに、センダックの絵になる絵本がある。子どもたちに物の定義を尋ねた結果を絵にしたものだ。この本は、動と静についてまた別の観点を教えてくれる。あなたは「穴ってなに」と尋ねられると、何と答えるだろう。平面にうがたれた空間とか、地面のくぼみとか、そんな答えをするかもしれない。子どもたちはどう答えているか。穴は「掘るもの」であり「落っこちるところ」「隠れるところ」だという。そう、彼らは自らを主体とする動詞形でものごとをとらえている。それは、ものごとを静的にとらえてしまう自分の癖に気付かせてくれ、絵本を読むたびぼくは、自分はいま世界と動詞形で関わっているだろうかと、問い返している。
 自然の営みを静かにそのままうけとめ、一方で世界に対して身を乗り出して動詞的に関わっていく。この振幅の中に、日々の楽しさがある。

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11 comments to...
“静と動のあいだ”
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小橋昭彦

センダック『あなはほるもの おっこちるとこ』は、こちらのコラムでははじめての紹介ですが、ぼくがしばしば例に出す絵本です。


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うり助

 私も物事を静的に捉える癖があるようで、そのことに気づかされました。たいへん、興味深いお話です。今後、静的に捉えることと、動的に捉えることでは、どのような違いや影響があるのかなど、続きが楽しみです。
 ところで、前半部分の進化の話しとの関連がよく分かりませんでしたが・・・?


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六道十界

うーむ,納得.としか言いようがないです.
毎回うなっています.うーむ.
昨年,ふとしたきっかけで玄侑宗久氏の「禅的生活」他を読みました.最近では,ベトナムで平和活動を続けておられるティク・ナット・ハン氏の「禅的生活のすすめ」,一方で脳科学,神経学のビックリするような最新成果にも触れることができました.モノの見方,体感の仕方というのは本当に大切だと思います.21世紀は確かに「心を探求する時代」だと感じております.


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末席研究員

キリンの話はよく聞きますが、ではキリンより背も首も短い草食動物がいるのはなぜかということを説明できないように思います。


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nakajima

非常に興味深いお話、ありがとうございます。

仕事柄、物事を多面的に見ることの重要性を日々
感じています。静と動という切り口、面白いですね。

参考にさせて頂きます。


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tom

耳学問で申し訳ないですが、突然変異による適者生存説では、現在の人間や動物などまでに進化するには時間が足りないという話を聞いたことがあります。
生物の遺伝子の中に進化を促していく誘引(ウイルスなどを介して他の遺伝子を取り込むなど)があるというような・・。
現代社会では、生活実感というのもが、どんどん希薄化しているような気がします。
自分の関わる範囲での実感できる事を増やしていく事で、
生きているという感覚を再認識できるのかもしれませんね。


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Key

前に「進化とはなにか:今西錦司」を読みましたが、この著者は「突然変異ははじめから方向性をもち、おこるべき必要性にせまられておこるのだ」という考えのようでした。

キリンの意思で突然変異が起きるというと違ってしまうでしょうけど、自然界の意思(とまでは言えないかな...)で、ある方向性を持った突然変異が起こると考えたほうが、感覚的に合う気がします。


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猪花栄治

 遺伝子レベルにおいて、過去3代位の行動・判断実績が遺伝子上に刻まれていて、現時点でどう判断し行動すべきかを、自分自身の経験だけでなく、幅広く判断・行動の指針となっている。この遺伝子上の過去の実績が、突然変異と相まって進化を加速しないだろうか。
 遺伝子上の過去の判断・行動実績で一番分かりやすい説明は、鳥の巣立ちにおいて、親がひなの傍にいない種もある。誰から教わったわけでもなく、見よう見まねで羽ばたいて、巣立っていくのは、遺伝子上に先祖の行動・判断実績が刻まれていることに相違ない。人間とて例外ではない。誰から教わったわけではないが、見よう見まねでやってできたという経験は、皆さんお持ちだろう。
 ミトコンドリアは、生物の進化を急速に加速させた。高レベルエネルギー伝導体。でもこれは、宇宙から飛んできたという説もあるが。宇宙からの飛散物によって、生物の進化を加速させる可能性ですね。


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小橋昭彦

進化については、ダーウィンを乗り越えようとする努力も一方であるので、今西さんの見方など、単純な突然変異と自然選択だけで説明できないとする論もあります。今回のコラムでは削りましたが、ダーウィン自身、自然選択以外にも性選択を入れていますしね。

コラムの前半と後半ですが、確かに、つながりがわかりづらいかなあと思いつつ、ばっさりつないでしまいました。「あなはほるもの」というのは、本人の意思をベースにものごとを説明する視点であることをふまえれば、前半との関連がご理解いただけるかと思います。


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キリンの首が進化の過程で意思ではなく、変異の中でより生存確率の高い「長い方」に選択されたというのは納得できる考え方です。それと同じで人の一生においても成長する上で、動的より静的の方がより生存確率の高い方法のため、動から静に進化すると考えると「静」もそんなに悪くないのではと思います。例えばお店に素敵な宝石が展示してあった場合、盗んでしまうのは動、どうやったら手に入るか冷静に計画を立てるのが静、もひとつ素敵な女性を見たら飛びつくのが動、恥ずかしくて声も掛けられなかったり、どうやったら口説けるか考えるのが静。かつて「オンディーヌ」という戯曲で「今すべてが手に入らないのなら何もいらない!!」(手元に本がないのでうろ覚えですみません。)と叫んだ彼女に共感したのは、「静の束縛感から逃れたい。」という思春期の進化の過程のせいだったのかもしれません。


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ゆん

進化のお話が続いていますが、穴のことについて。
「落とすもの!(落とし穴)」と、思わず考えてしまった私は、
子どものままで、動より静の割合が少ないのかしら?振幅が狭いのか
しら?
んにゃ、ただたんに、本質が現れただけ?
と、思って笑ってしまいました。
なんだか、今日は愉快な感じです。




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 音楽はぼくたちにとって何なのだろう。ある研究者が言うように、チーズケーキのように好みの問題なのか。ノーマン・D・クック教授による実験がある。「宝くじで10万円が当たった」といった喜びや「探したけれど、見つからなかった」といった悲しみの表現を、感情を込めて読んでもらう。そのピッチを半音階単位でグラフ化したところ、喜びの文章を読んだときにはBメジャーの和音にあたる部分に、悲しみの表現の時にはBマイナーの和音にあたる部分に山があったという。逆に、クラシック音楽の作曲家を調べた研究では、音楽は母語のトーンの影響を受けているという報告もある。コミュニケーションにおける、音楽的要素の役割を考えさせられる。 北米と東インド諸島に住む母親たちに、自分の赤ちゃんがいるときといないときで同じ歌を歌ってもらい、その録音を第三者に聞いてもらった実験では、第三者は、母語が何かに関わらず、どちらが赤ちゃんの前で歌っているか、正確に言いあてられたという。赤ちゃんを前にした母親の歌には、共通するなにかがあるようだ。そして、聞くほうの赤ちゃんも、音楽のテンポやリズムの変化に気づくことを、いくつかの研究が裏付けている。6ヶ月にならないうちから、不協和音より協和音を好むという報告もある。 モルモットを利用した実験によると、特定の音が重要であることを電気刺激などで教えると、神経細胞が敏感に反応する周波数がその信号音に近づくという。脳の応答はある意味「調律」できることになる。 奈良教育大学の福井一氏によると、音楽を聴いたあとの唾液テストステロンの分泌を調べたところ、男性の被験者で有意に値が下がったという。音楽は、性欲や攻撃性を弱めるということか。原始において、歌わずけんかばかりした集団と、歌うことで連帯した集団があり、後者の方が生き残ってきたと想像することは、「音楽は国境をこえる」という言葉につながって、魅力的だ。

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