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ちょっと知的な雑学&トリビア

現実と想像と

2005年6月30日 【コラム
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 リアルとまぼろしの境界。ノースウエスタン大学の研究者らが昨年発表したひとつの実験結果がある。被験者に磁気共鳴画像装置に入ってもらい、単語リストを見せながら、それぞれの単語が表すものを思い描いてもらったもの。なかには実際にその写真を見せる単語と、想像だけしてもらう単語がある。その後、写真を見たかどうかを答えてもらう。
 以前紹介した、誤った記憶の実験を覚えていらっしゃるだろうか。事故の映像を見せた後、ガラスは割れていたかと聞くと、「衝突したとき」と聞くより「激突したとき」と聞いたときの方が「割れていた」と誤った答えをする人が多かったというものだ。人の記憶は、たやすく組み変わる。今回の実験でも、被験者は写真を見たと誤って答えたケースがあった。そして誤って記憶していた事例では、実際にイメージを作り出すのに関わる脳の領域が活性化していたのだ。つまり、脳にとっては、誤って写真を見たと記憶している単語も、実際に見た単語も、この時点では変わりがない。
 関連して思い出した話にミラーニューロンがある。サルでの観察結果をもとにリゾラッティらが1996年に発見したもので、バナナの皮をむくなど、ある行動をサルが見ているときに活性化する。おもしろいのは、実際に自分がバナナの皮をむくときにも、同じ箇所が活性化していること。つまり、自分が実際に行った行為と観察だけした行為が、ミラーニューロンで重なっている。
 誤った記憶やミラーニューロンのことを思うとき、ぼくはいつも想像力の偉大さに畏怖の念を抱く。アスリートがイメージトレーニングを行うとき、彼・彼女はまさにその競技を「リアルに」体験しているのだろう。ならば他者の記憶違いを単純に責められるだろうか。正しい過去というまぼろしを追うより、これからどうするかに目を向けたほうが有意義な場合もある。アスリートがイメージトレーニングのあと立つリアルなフィールドに、人生をかけるように。

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9 comments to...
“現実と想像と”
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小橋昭彦

偽の記憶については「嘘をつく記憶 [2003.03.13]」をご参照ください。またミラーニューロンについては、以前「あくびがうつる [2003.09.29]」でも少し触れました。

リゾラッティについては「Giacomo Rizzolatti」をどうぞ。論文もダウンロード可能。また写真での実験は「Ken A. Paller」によるもので、論文もダウンロードできます。解説記事では「False Memories: As Believable as the Real Thing?」あたりの記事がわかりやすいかな。

最近ではミラーニューロンのロボット研究への応用もされているんですね。「学び行動するロボットから人を知る」など。それから、「フォワード思考,MOSAICモデルとミラーニューロン」にもありますが、心の理論との関連なども探られています。心の理論については、「心の理論 [2005.04.21]」でご紹介しました。


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よう

イメージトレーニングは「祈る」と言う行為と近く無いでしょうか?
強く祈る事で現実となり得うる事が有っても不思議では無い。
それはたんに、祈りの強さの問題なのだろうか?


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いんこ

脳に記憶される情報が現実の視覚、映像、言葉や文字の他
に自らの脳が産み出す想像も含め、同じような電気信号で
あるとMRIなどで次第に客観化されているところをみると、
空恐ろしい未来が想像されます。
裁判での目撃証人の脳からデジタル信号を取り、ディスプ
レイに表示するならば、嘘でも信じ方の強いものがより真
実らしくみえ、精神鍛錬を受けた盲信者が有利となる。裁
判官は検事、弁護士の脳まで見ても判断がつきかね、判決
を放棄する。最後に機械が裁判官の脳まで見て機械に裁決
すさせるべきか、たとえ間違っても人間がするべきか。脳
はどのような状況下でも柔軟に適応し進化していくのでし
ょうか。


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猪花栄治

 誤った記憶の、「誤った」を何を以って誤ったとするかですよね。最終的には、自己検証をしてみるしかない。それは、日常あることに打ち込んでいても、何か一向に成果が上がらないと。例えば、川がある方向に流れてて、一生懸命反対の方向に進んでいるとする。川の流れに一生懸命逆らっていて、エネルギーをとられるばかりで一向に目に見えて前に進まない。一生懸命やっているから、何かいいことがあるよと、自己暗示・自己満足に浸っても一向に成果が上がらない。時に、自分が今進もうとしている方向が流れに沿っているんだろうか。時々、冷静になって考えて見る必要がある。こうやって、偉そうげに言っている私でも失敗の連続で、本当時々冷静になって方向性なり検証してみないと、深みにはまってでは遅い。


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しゃあ

標的射撃の場合 8点は「失敗」です。では どんな時に 8点を撃つのか調べていたら その射手は 8点ばかり撃つようになってしまったそうです。 そしてこう考えました。「失敗」の研究をしても 意味が無い。10点満点の研究をしよう。 そして その人は「神様」と呼ばれるようになりました。
もう 30年も昔の話で 当時はイメージトレーニングなんて 「サボリ」と同義語でした。
「良い経験は 良い結果を生む」が「神様」のモットーでした。イメージする事は その入り口だそうです。


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tom

以前、何かの本で『人間の脳は見聞きした情報全てを覚えている。但しその情報の引き出しを随意に開けることができない。』という話を聞いた事があります。この話の真偽は分かりませんが、今回のお話は『記憶』と『認識』のずれが問題なのか、それとも『記憶自体』が間違って保存されているのかという点で興味があります。どちらなのでしょう?


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tom

イメージの重要性について:最近の日本の子供達は夢が無いと言われます。夢もまた、将来に対するイメージの一つだと考えれば、日本の将来が心配になります。


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小橋昭彦

tomさん、「記憶」という固形のものがあるのではないと考えてみてください。ぼくたちが記憶に現実的に向き合うのは、認知し覚える瞬間と、思い出す瞬間しかありません。従って、記憶というのは必ず現在進行形でぼくたちの前に現れます。

そして、そのいずれにおいても、いわゆる「現実」とのずれは必ず生じるもの、と考えておいた方がよいと思います。経験そのままを覚えていたとしても、人によってそれへの解釈は必ず違いますので。


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tom

小橋さん、ご返事ありがとうございます。確かに自分が認知しない事は意味の無い事かもしれませんね。
でも、脳は何らかの方法(電気刺激、神経細胞の結合など)によって物理的に記憶を保存するのですよね?
保存された原記憶とでも言いますか、それと認識が違っているとしたらそれもまた面白い話だと思います。
無意味な事を探求するのも科学の面白いところかもしれません。




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 健康に気をつかうのは、あたりまえなのだろうか。健康観の変遷を振り返りつつ、そんな疑問が頭をもたげてきた。健康という言葉が日本に根付いたのは明治になってからのこと。衛生観が根付いたいきさつは以前のコラムで書いたけれど、健康についても並行する形で、翻訳語として定着していった。 江戸時代に似た概念がなかったわけではない。貝原益軒『養生訓』にある、養生という言葉がそれだ。ただ、養生という言葉の背景にあるのは、私欲を抑えて孝行につとめようといった考え方で、つまり人間は生まれつき父母から授かった身があるわけで、天の理に従えば天寿をまっとうできるとするわけだ。ところが健康はそうじゃない。むしろ強くなりたいといった私欲を肯定し、それを追及することが公益につながると考える。 ややこしいのはそれを国家が推進した点で、明治以降、コレラ対策や富国強兵などの要請から国家がある意味「健康」を強制した。その構図は、医療費抑制などの必要性から国が健康対策を進める現代もそれほど変わらないのかもしれない。ただし今では、テレビや雑誌の影響の方が強い気はするけれど。 悲劇的なのは、そうして不安をあおられつつも、あなたは健康だと証明してくれる人がどこにもいないことだ。夏の甲子園大会に出場するために必要な健康証明書の文面を調べた上杉正幸氏は、1970年代にそれまでの「野球競技に耐えられる」から「健康診断の時点では異常がなかった」に証明内容が変わったと報告している。医師でさえ、証明できるのはある一時点の検査の範囲内での異常の不在であり、その後の健康な生活ではない。 健康づくりなんて言葉が一般化している状況を考えると、現代においてぼくたちは、自分の身体は普通に暮らしていると不健康になると感じているのだろう。それは養生の時代からはずいぶん遠く、それを思うとき、あるいは不健康なのはぼくたち個人ではなく、社会ではないかという思いを禁じえない。

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 音楽はぼくたちにとって何なのだろう。ある研究者が言うように、チーズケーキのように好みの問題なのか。ノーマン・D・クック教授による実験がある。「宝くじで10万円が当たった」といった喜びや「探したけれど、見つからなかった」といった悲しみの表現を、感情を込めて読んでもらう。そのピッチを半音階単位でグラフ化したところ、喜びの文章を読んだときにはBメジャーの和音にあたる部分に、悲しみの表現の時にはBマイナーの和音にあたる部分に山があったという。逆に、クラシック音楽の作曲家を調べた研究では、音楽は母語のトーンの影響を受けているという報告もある。コミュニケーションにおける、音楽的要素の役割を考えさせられる。 北米と東インド諸島に住む母親たちに、自分の赤ちゃんがいるときといないときで同じ歌を歌ってもらい、その録音を第三者に聞いてもらった実験では、第三者は、母語が何かに関わらず、どちらが赤ちゃんの前で歌っているか、正確に言いあてられたという。赤ちゃんを前にした母親の歌には、共通するなにかがあるようだ。そして、聞くほうの赤ちゃんも、音楽のテンポやリズムの変化に気づくことを、いくつかの研究が裏付けている。6ヶ月にならないうちから、不協和音より協和音を好むという報告もある。 モルモットを利用した実験によると、特定の音が重要であることを電気刺激などで教えると、神経細胞が敏感に反応する周波数がその信号音に近づくという。脳の応答はある意味「調律」できることになる。 奈良教育大学の福井一氏によると、音楽を聴いたあとの唾液テストステロンの分泌を調べたところ、男性の被験者で有意に値が下がったという。音楽は、性欲や攻撃性を弱めるということか。原始において、歌わずけんかばかりした集団と、歌うことで連帯した集団があり、後者の方が生き残ってきたと想像することは、「音楽は国境をこえる」という言葉につながって、魅力的だ。

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