小橋 昭彦 2005年3月10日

 観光について調べている中で、<身(み)分け・言(こと)分け>理論を目にして、20年ほど前のことを懐かしく思い出していた。丸山圭三郎氏の著書をむさぼるように読んだのがちょうどその頃。
 身分けというのは、動物一般が持つ外界のカテゴリー化のことで、世界を分節すると同時に自身も分節する。腐った肉を前にした犬は、それを「食べられないもの」として境界線を引くと同時に、自らを、食べられないという視点で境界を引く身(み)として世界と切り分けている。
 一方の言分けは、人間だけが持つ、ものごとをシンボル化する能力だ。人間は、腐った肉を本能だけで身分けられず、「腐っている」という概念に頼って言分ける。この能力は、人間に環境を操作するという過剰性を与えた。「腐った肉」とシンボル化できるから、「腐らさない」発想が生まれ、人工的手法でそれを達成しようとする。
 身分け・言分け構造は、二重構造ではない。コトバを持たない人間があり得ないように、身分けだけの人間はあり得ない。本能だけで生きていた時代に戻ることはできない。ぼくたちは身分けつつ言分け、言分けつつ身分ける存在となっている。
 それで冒頭の観光論だけれど、風景について考察したその文章は、身分け・言分けを記憶の種類として扱い、それに基づく「まなざし」が、視覚によって知覚した情報に意味を付加し、風景を生むと論じていた。身分け・言分けがまなざしを生むのは確かだけれど、まなざしは決して入力情報を処理する客観的な何かではない。むしろ、風景を見出すその動きこそ、身分けつつ言分ける生命のはたらきそのものであり、ぼくらはそうしてまなざしつつまなざしとなっている。
 ザツガク性もまた、ネタとしての客体の中にではなく、身分けつつ言分けようとする、その場に芽生える。そういう意味で、ぼくたち自身こそザツガクなのだけれど。

3 thoughts on “身分け、言分け

  1. コラムとしてはちょっと脱線。ふだんは、「視点」は用いるもので、テーマとしてとりあげるものじゃないというスタンスなので。まあしかし、懐かしさから、つい取り上げてしまいました。実は昨年読んだ『人口減少社会のマーケティング』も丸山理論をベースにしており、シンクロニシティというか、コラムでいちど触れておけっていうことなのかなあ、と思って。

    文中で触れた観光についての話は、『観光学入門』におさめられた安島博幸さんによる「観光と風景」です。

    丸山さんの著書としては、『言葉と無意識』が入りやすいです。個人的にはその次のステップとして『生命と過剰』『ホモ・モルタリス』あたりをお薦めしたいのだけど、品切れですね。「欲動」を持ち出すあたりを批判的に読むスタンスもあるけど、その視点は今も有効だと思います。

  2. いつも楽しく読ませていただいています。
    実はこの日のコラムはRAMっていて、本日22日に読みました。いつもと違う切り口で、でも、納得のいくないようです。
    言い分は人間だけのもの。
    心して使わないと・・・と思ってしまいました。
    まなざしは思いの先にあるのですね。

    また、いろんな雑学を教えてください。
    ありがとうございました。

  3. 「腐らさない」って言いますか?
    「腐らせない」がしっくりくる感じです。
    間違ってると言いたいわけじゃなくて、どうなんだろうと気になったので。。

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