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ちょっと知的な雑学&トリビア

不気味の谷

2003年11月05日 【コラム
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 ロボット工学界で「不気味の谷」として知られる説がある。人型ロボットの進化をグラフに描く。横軸には外見がどのくらい似ているか、縦軸には親しみを感じる度合いをとる。はじめ右上がり描かれるグラフだが、ある一点で急落する。そこが「谷」。ロボットは人間に似るほど親近感が増すけれど、似すぎるとかえって不気味になるという、森政弘博士が1970年に発表した説だ。
 最近多いペットロボットを含め、ロボットづくりに携わる人なら、多くが意識する。一方で、その谷を越えようとする人もいる。全米科学振興協会での発表で注目を集めたデビッド・ハンソン氏は、人の顔そっくりのロボットを作っている。悲しい顔、困った顔、笑った顔。確かに精巧に作られている。映像や写真からは本物と見分けがつかないほどだ。額がはえぎわでばっさり途切れ、首が台座の上に載っていることを別にすれば。
 ロボットのモデルとなっているのは彼の婚約者。バーで「きみの頭蓋骨を測らせてほしい」と声をかけたとも、「きみをロボットにしてもいい」と尋ねたとも言う。顔ロボットを見つめるハンソン氏の眼差しはやさしい。その瞳はロボットを見ているのか、あるいはそれを通して恋人に向けられているのか。
 ショッピングセンターへ車を走らせていた土曜の午後、子どもがふと「おとうさん、にせものやったりして」とつぶやいた。「大丈夫だよ」言いながら、自分も子どもの頃、祖母に同じ疑問を投げかけたことを思い出す。あれは江戸川乱歩の小説を読んだことがきっかけだったか。自分が自分であること。愛する人が、愛する人であること。その確からしさが失われる谷は、誰もの日常のすぐそばに存在するのかもしれない。そのとき谷を越える助けになるのは、外観の類似性ではない。自分と相手とをその瞬間に結んでいる、愛情だ。人に似たロボットは、不気味の谷の向こうから、ぼくたちがぼくたちであるゆえんを問いかけている。

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11 comments to...
“不気味の谷”
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小橋昭彦

David Hanson」らのプロジェクトをご参考に。詳細記事が「The Man who Mistook his Girlfriend for a Robot」にあります。ソニーが不気味の谷を意識していることは、たとえば「土井利忠氏インタビュー」などからも読み取れます。森政弘氏は、以前のコラム「どちらが重いか」でも取り上げた方ですが、不気味の谷については「ロボコンNo.28」の連載「ロボット博士の創造への扉」でも取り上げられています。顔関係では「日本顔学会」などをご参考に。また、やや類似したものとして「テレヘッド」も気にかかりますね。


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とよし

私もよくそんなことを考えてました。
今度のマトリックスでも、そのロボット技術によるところが大きいみたいです。
顔の表情をあそこまで模倣できるようになってるんですね。


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こま

人間は昔から人間を創ることに
造物主になることにに
憧れてさまざまなことをしてきました。
とくに西洋では
錬金術もそうだし
人形を人間にする話しもたくさんあります。
クローン技術などはその意識の延長上にあるような
気がしてなりません。

ところで「本物のお父さんではないかも」という疑問
誰にもそういう時期がありますね。
これが後年になると
「すべては自分の意識の中の出来事でしかない」
という独我論になったり
「自分の存在根拠」を求めても空しかったり
(実存主義などはそこに由来している)
とても人間らしい疑問へと発展するのでしょう。


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中野 勲

似すぎると、気持ちが悪くなるというのは、興味ある発見ですね。でも、その理由は何ですか。人間とは一面で自分に害をおよぼしたり、緊張を与えたりする存在であり、そういったネガティブな面が、人間に似すぎたロボットにも感じるのでしょうか。


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小橋昭彦

こまさん、ありがとうございます。じつは子どもに何と答えようか、一瞬ではありますが、深く悩みました。けっきょく、「大丈夫だよ」と無難にしちゃいましたが、哲学者になるきっかけを奪っちゃったかなあ(笑

中野さん、ありがとうございます。中野さんが投げかけられていることに答えようとすることが、すなわち不気味の谷の存在を確認したり、それを越える努力につながっているのが現状かと思います。

なお、コラムで述べたかったのは、仮に不気味の谷が存在するとすれば、それは純粋にロボットという他者へのネガティブな感情ゆえではなく、ロボットに反映されるようにして自らの存在への問いかけもなされるからではないかと、そんな意味合いであったとご理解ください。


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MAX

「自分に瓜二つの人に出会った人はその後すぐに死ぬ」・・・なんて迷信がありますが、そっくりの人間がこの世に2人いてはいけないという恐怖から発生した迷信なのでは?
自分と他人は違っているし、人間とロボットは違っているし、この葉っぱと向こうの葉っぱは少し違って完全な対象形ではない。そこから現実感が生まれるような気がします。

最近では子どもを虐待する親が、自分のネガティブな面を子どもに投影している場合があるようです。自傷行為の替わりに、より弱い存在としての我が子を虐待してしまう・・・そんな苦しい連鎖は断ち切りたいものです。ぜひ不気味の谷を越えたその先を見てみたいものである。

それからどうでもいい話ですが、デビッド・ハンソン氏の恋人は自分によく似た自分より有名?かもしれないロボットをみてどんな気分になったのでしょう? 「やっぱり気持ち悪いから、あなた、よしてよ。」と言わなかったのは・・・・愛情が確かなものだったから? うーん、I love you はちゃんと口に出して言っておかないと贋者に負けてしまう(笑)。


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K

「おとうさん、にせものやったりして」なんて言うなんて、お子さん可愛いですね。僕はまだ独身なので子供はいませんが、代わりと言っちゃなんですが犬を飼っています。今は東京で一人暮らしなので、実家の両親にみてもらっています。たまーに実家に帰るのですが、僕が到着する数十分前からそわそわ落ち着きが無くなるんだそうです。僕がもうすぐ来るってことを感じてくれてるんでしょうかね?僕と愛犬とをつなぐ何かがあるんだろうと、自分勝手に喜んでいます。
「そのとき谷を越える助けになるのは、外観の類似性ではない。自分と相手とをその瞬間に結んでいる、愛情だ。」っていうお言葉、素敵だなって思いました。これから先、どんなに素晴らしい人間ロボットが作られたとしても、自分と相手とをその瞬間に結んでいる愛情だとか気持ちだとかまではインプットできないままでいて欲しいですね。意地悪かもしれませんが、有名なロボット研究の学者のみなさんに、「不気味の谷は越えられても、愛情の谷は越えられないな」って言ってもらいたいですね。これだけは、僕達人間の宝物であり続けないと。


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Shoson

ロボットの前に既に人間が「不気味の谷」に陥っている様に思えます。
携帯電話での仕草を観察すると、老若男女関係無く一様の動作ですし、親はおろか友人でさえも文字情報でのコミュニケーションが主になってる今、本当に本人かどうかなんて意識してないのでしょう。

人間に近づくロボットというシチュエーションはSFの古典ともいえるプロットですが、実際に実現した時には、無表情な人間の言葉に表情豊かに答えるロボットなんて光景が生まれているのでしょうか?


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小橋昭彦

>人間に近づくロボットというシチュエーションはSFの古典ともいえるプロット

これ、その通りですね。『ブレードランナー』の世界でもあり。ディックに触れようとも思ったのですが、コラムがややこしくなるので通り過ぎました。


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モモやん

人間型ロボットに限らない気がしますね。
どっかのメーカーから出てた、猫ロボット。リアルを意識しすぎて、AIBOや、低価格なトイ・ペットロボットなんかよりもずっと気持ち悪かった。
ただ、人間型だと正直、完全でないものに対するネガティブな感覚って、たとえば差別視みたいなものがあるんじゃないかと思ってしまうんですが。本能的に。違うかなぁ。


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かたろにあ(中井有造)

どうもおひさしぶりです。
この心理学実験のこと、昔「新建築」という雑誌の
エッセイで読んだのですが、うろおぼえで元ネタがわ
からなくて探してました。
 どうもありがとう。助かりました。

 ところで、僕も子供の頃、ふと障子の向こう側の両
親が、「実はタヌキだ」という想像をしてしまい、し
ばらく親が怖くて、まともに話ができませんでした。
 子供にはそういう一時期があるのかも。「物心がつ
く」というのかもしれません。




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 都市部から来た子どもたちが、どじょうをすくおうと田んぼに入った。おそるおそる足を踏み入れていたのに、すぐに「予想以上におもしろい」とはしゃいでいたのが印象的で、泥にまみれた手足をみながら、「きれい」って何だろうと、そんなことを考えていた。 衛生という概念は、明治になって広がったといっていい。コレラの流行などがあり、衛生環境の改善が求められた時代。田中聡氏による『衛生展覧会の欲望』に、さまざまな事例が並んでいる。トラホームになって海外留学ができなくなった少年を描く「砕かれた希望」という啓蒙漫画。「保菌者は危険」と書かれたチフス対策チラシ。糞尿を運搬する者は日の出の一時間前に作業を終えるように指示した京都府のお達し。そして「妙齢婦人性病模型」と題された、椅子に座って着物の裾をはだけ、脚の奥をのぞかせる蝋人形。 蝋人形などは県などが主催する「衛生展覧会」と呼ばれる展示会の出し物として全国をまわり、学校からの集団見学など、多くの人に「衛生」観念を広めた。「日本一の健康児探し」というコンテストも行われている。決められた審査基準があり、健康「すぎる」児童は発達が歪んでいるとしてはねられる。入賞者を掲載したパンフレットには半裸体の児童らの写真が並ぶ。小さくふくらみかけた胸をはってカメラを見つめる、健康少女の写真から感じる痛々しさ。 衛生展覧会において病人は、あるいはカタログの優良児たちは、モノになってしまっている。本来、心ある生きた主体であるはずなのに、対象物として扱われて。生きる輝きを伸ばすのが、衛生や健康ではなかったか。問いかけつつ、健康が商品化される現代もまた、衛生展覧会的な世の中なのだろうかと、そんなことを振り返る。いっしょに遊んで汚れた子どもの服を手ではらいつつ、こうした泥に違和感を感じるところに戻ろうとしている自分とは何だろうと、そんなことを考えていたのだ。

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