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ちょっと知的な雑学&トリビア

衛生展覧会

2003年11月02日 【コラム
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 都市部から来た子どもたちが、どじょうをすくおうと田んぼに入った。おそるおそる足を踏み入れていたのに、すぐに「予想以上におもしろい」とはしゃいでいたのが印象的で、泥にまみれた手足をみながら、「きれい」って何だろうと、そんなことを考えていた。
 衛生という概念は、明治になって広がったといっていい。コレラの流行などがあり、衛生環境の改善が求められた時代。田中聡氏による『衛生展覧会の欲望』に、さまざまな事例が並んでいる。トラホームになって海外留学ができなくなった少年を描く「砕かれた希望」という啓蒙漫画。「保菌者は危険」と書かれたチフス対策チラシ。糞尿を運搬する者は日の出の一時間前に作業を終えるように指示した京都府のお達し。そして「妙齢婦人性病模型」と題された、椅子に座って着物の裾をはだけ、脚の奥をのぞかせる蝋人形。
 蝋人形などは県などが主催する「衛生展覧会」と呼ばれる展示会の出し物として全国をまわり、学校からの集団見学など、多くの人に「衛生」観念を広めた。「日本一の健康児探し」というコンテストも行われている。決められた審査基準があり、健康「すぎる」児童は発達が歪んでいるとしてはねられる。入賞者を掲載したパンフレットには半裸体の児童らの写真が並ぶ。小さくふくらみかけた胸をはってカメラを見つめる、健康少女の写真から感じる痛々しさ。
 衛生展覧会において病人は、あるいはカタログの優良児たちは、モノになってしまっている。本来、心ある生きた主体であるはずなのに、対象物として扱われて。生きる輝きを伸ばすのが、衛生や健康ではなかったか。問いかけつつ、健康が商品化される現代もまた、衛生展覧会的な世の中なのだろうかと、そんなことを振り返る。いっしょに遊んで汚れた子どもの服を手ではらいつつ、こうした泥に違和感を感じるところに戻ろうとしている自分とは何だろうと、そんなことを考えていたのだ。

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6 comments to...
“衛生展覧会”
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小橋昭彦

田中聡『衛生展覧会の欲望』そして小野芳朗『「清潔」の近代』が参考になります。「衛生展覧会へ行こう!」「衛生博覧会」もご参考に。


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廣岡英一郎

68歳。完全リタイアして2年になりますが、現役時代、定期的に消化器系の不調に悩まされ苦労しました。リタイアしてからある病院で「一度ピロリ菌駆除をやってみよう」と言われて実施。その結果、この2年間消化器系の不調は感じなくなりました。医者によれば60歳代の日本人のピロリ菌保有率は70%を超えるのに対して、10代の人達の保有率は10%台だとの事。その原因は我々世代の人間共通の終戦直後の不衛生な環境にあるとの事。そう言えば田舎育ちの小生など、下肥を薄めて直接掛けた野菜を食い、排水溜りのような池で泳いで育ったものです。衛生展覧会と言う文を読みながら、そう言う行事も必要な時代だったのだと考えた次第。


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kiyokake

今回の内容とはいささか違うような気もしますが最近はやりの「抗菌グッズ」とはそも何者なんでしょうか。
我々が生きていく過程ではそれこそ数知れない細菌にさらされ、ある細菌には抗体が作られある細菌は体内に取り込まれ消化を助けたりするのではないでしょうか。抗菌は「殺菌」とは違うのかも知れませんが宣伝文句を見ていると同じような気もしますし、このままでは菌の力を高めるようで更に強力な菌が出来ていくような錯覚におちいります。衛生博覧会の意義はそれなりに有ったとは思いますが抗菌即ち健康ではないような気もしますし有識者のコメントが欲しい所です。


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嶋 すみえ

はじめまして。
いままで、コラムを読んで、共感するところがたくさんあったので、一読者の「つぶやき」として読んでください。
(アメリカ在住なので不適切な日本語もあると思いますが目をつぶってくださいね)

都会に住んでいると、どうしても土に触れる機会が少なくなります。私もそうでした。
小さい頃は平気だったのに、いつの頃からか、虫を触ったり捕まえたりすることができなくなって。
清潔でいることと、自然と触れあうこと、が相反するもののように感じられます。

平日はきちんとした格好で、仕事に行きます。
ほぼ毎週末、ハイキングや、山登りに出かけます。
雨が降った週は泥だらけになります。
でもなぜか、自然の中に、木々の中にいると気にならないんですよね。

都会にいると、手を洗わずに食事なんて考えられなくても、山の中なら軽く拭いてリンゴをかじったりできます。
同じスーパーで買ったものなのに、家にいるときはきちんと剥いて食べる。

自分の中で、境界線があるんです。

以前、機会があって、直売農場でバイトすることがありました。
泥だらけになって野菜を採ったり、雑草をむしったり。同時に、お客さんとも会話したり。
お客さんは仕事帰りなどで、きれいな格好をしているのに対し、泥だらけのジーンズで対応している私。
でも、こういう時が、なぜか一番、素直に笑えるんですよ。自然に心が開ける、そんな感じでしょうか。

境界線がなくなるひととき。
不思議ですよね。


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あらあら

小橋様、こんにちは。
いつも楽しく、面白い視点に感銘しております。
私も、田舎育ちのせいか、虫のついている野菜や曲がったきゅうりなど、全く気になりません。
今は都会にすんでいますが、知り合いなどは、何て虫が苦手なのか!といつも(私)驚いています。
また、花粉症などは、田畑の虫やぎょうちゅうの経験のない子供たちや大人が、かかりやすいとの話もありますよね。

衛生と自然。まったく逆のベクトルかと思いきや、これが結構シンクロしているのだと思います。

やはり、その環境にどれだけ馴染んでいるかですよね。
馴れたら、それがデファクトになります。
だって、泥にまみれてる時のそのぬくもり、経験した人にしか分からないこともあったりしますよね。


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小橋昭彦

嶋さん、ありがとうございます。

まさに今回コラムを通して考えていたのが、「境界線を無くす」ことのたいせつさでした。衛生がいけない泥がいいといった分け隔てる視点ではなく、生きていくという同じ土壌から考えたらどうなるかなあと。あらあらさんの表現をお借りすると、「シンクロしている」ということになるかもしれません。

みなさま、そこまで考えていただいて、とっても感謝しています。




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 なにげなく接していたものが、ある日とつぜん不思議に見えてくるという経験が、ときにある。たぶんそれは誰でも持っている感性で、「そそそそそ」と文字を連ねていると、「そ」という文字のあり方にだんだん自信が持てなくなって、それはほんとうにそういう形だったか、そもそもなぜそんな形なのかと考え込んでしまう、そんな経験を多くの人が持っているのじゃないだろうか。 いま手もとにあるペーパークリップにしてもそうだ。針金を二回まわした楕円形の、いわゆるゼムクリップとして知られているもの。技術史に詳しいヘンリー・ペトロスキー博士の著書でその歴史をたどっていて、多くの工夫が重ねられた結果、そこにあることを知る。そうするとがぜん、不思議になってくるのだ。外側の円周と内側の円周の間隔はなぜこの距離だったか。針金の先が円周より短いのはなぜか。紙からはずすとき、針金の先が短いため紙にひっかかったりするのに。 ペーパークリップが発明される前、人々は小数の紙を留めるのにピンで貫いていた。ゼムクリップはノルウェー人の発明と言われているそうだけれど、それに先立つ1899年、米国の技師がクリップを作る機械の特許を取っていて、そこに完全なゼムクリップの形が見える。発明品が市場に出回るには、製造機械と切り離せない。ゼムクリップを手作業で作るなら、人はピンを使い続けたかもしれない。 これまで多くのペーパークリップが考案され、特許をとってきた。今でも見られる三角形のクリップや紙を挟みやすいように先端が持ち上がったクリップ。日本での特許広報を検索すると、2003年に入ってからでも、ペーパークリップの特許が新しく取得されてもいる。加えて、ボールペンのキャップやメモパッドをはじめ、クリップする機能が含まれる製品の数々。見なおせば、工夫の余地はまだまだあるのだ。今あらためて身の回りを眺めると、すべての品々が「発明してくれ」と訴えている、そんな気にさえ襲われる。

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