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ちょっと知的な雑学&トリビア

人との間

2003年8月28日 【コラム
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 ヤマアラシのジレンマという寓話がある。寒さに震えるヤマアラシのカップル。暖をとろうと抱きあうと、棘で相手を傷つける。といって離れると寒い。ショーペンハウアーによるこの寓話を利用して、精神分析医べラックはヤマアラシ指数なるものを考案している。刺激の数にその強度と持続時間を掛ける。友人が5人いて平均週3回会っていてそれぞれ80分くらい一緒にいるなら、1200。同じ指数でも、持続の短い表面的なつき合いが多い人もいれば、友人が少なくてもじっくり会っている人もいる。
 棘の長さにもいろいろあるのだろう、他人ととる距離も、人によって違う。これを4種に一般化したのが、エドワード・ホールだ。いわく45センチまでの密接距離、120センチまでの個体距離、さらに3.6メートルまでの社会距離、それ以上の公衆距離。密接距離は親密じゃないと保てないし、個体距離のうち75センチまでの近接相内で男女が並んでいると、夫婦か恋人に見える。社会距離はパーティ会場やビジネス上の会話で利用される。
 米国での実験では、見知らぬ人に頼みごとをする場合は、40センチの距離から熱心に頼むのがもっとも効果的だったという。ただし熱心さが伝わらなければ最悪の結果になる距離でもある。膝詰め談判がいつも効果的とは限らないわけだ。
 日本でもユニークな実験が行われている。女子学生に男子学生へのインタビューをしてもらうものだが、最初に男子学生が映ったビデオを見せて好感度を尋ねている。その結果、好感が持てる人とは平均181センチメートル、好きになれない人物とは154センチメートルの距離をとってインタビューしたという。好きな相手の場合の方が離れていた。なれなれしく思われないようにという配慮か。ヤマアラシのジレンマ以上に微妙な気持ちが隠れているようでもある。人との間と書いて人間。この「間」が、なんとも味わい深い。

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One comment to...
“人との間”
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小橋昭彦

パーソナル・スペースというのがあって、これは以前コラムでとりあげたこともあるので今回は触れませんでしたが、電車内の席のとり方をはじめ、各自の個人空間というのがあります。『人と人との快適距離』に詳しいです。また、本書で触れたエドワード・ホールの代表作は『かくれた次元』です。




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 たとえば、魚にはしっぽがある。生物学的にいう尾部とは肛門の中心から体幹の後端までを言うそうで、魚の場合ならおおむねぼくらの常識でいう胴体の多くが尾部であったりもする。尾びれは含まない。ややこしいから、ここは一般常識でいうしっぽで話を続けよう。変態によって吸収されるカエル類などしっぽのない種はあるにしても、身のまわりの動物を思い出すなら、けっこう多くの種にしっぽがある。犬や猫にはもちろん、鳥類にもあるし、かつての恐竜にもある。クジラにもある。猿にだってある。 そうして考えていくと、むしろなぜぼくたちヒトにしっぽがないのだろうと、そのことが気にかかる。ご存知のように、しっぽの名残はある。脊柱の最下部に下向きに突き出した尾骨だ。おかげで尻餅をついたときに痛い思いをしたりする。チンパンジーやボノボといった類人猿にもしっぽがないから、共通祖先から猿と類人猿に分かれた後のどこかで、ぼくたちはしっぽを失ったということであろう。いつ頃と問われれば、すくなくとも1600万年以上前であったことが、アフリカで見つかった化石からわかっている。ケニア北部で見つかった類人猿ナチョラピテクスの化石の尾椎(びつい)には脊髄が通る穴が無く、しっぽを形成しなかったと判断されるのだ。樹上を機敏に動き回るにはしっぽが不可欠。しかし手足の握力が高まり、ゆっくり登るならしっぽがない方が邪魔にならない。だから「退化」したのではという説がある。 それにしてもしっぽとは奇妙な部分。初期の魚類にとってそれは推進力を生むものだったが、リスにとってはバランス器官だし、鳥にとっては舵取り装置。イヌはそれで気持ちを表し、サソリは武器とし、トカゲは逃亡にあたって切り落とし、ウシはハエ追いに利用する。同じ部位でありつつ、使われ方の多様なこと。ぼくたちにあれば何に使ったろう。

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 感情を抑制し理性的になることが進歩とされていた時代があったように思う。未来の人間は無表情で論理的に描かれて。そう、SFドラマ『スタートレック』の異星人ミスタースポックのように。その光景が懐かしいのは、おそらく現代では、感情はむしろ肯定的にとらえられるようになったからだ。こまやかな感情表現が人間性を表し、機微に通じることがよしとされる。 それでもぼくたちは、感情は社会から理性で隠した、マグマのように心の底にある裸の心のようなイメージを抱いている。でも、実際には感情とて社会に規定されている。こうした考え方を感情社会学として提唱しているのがホックシールドで、彼女によれば感情は二段階を経て生まれるという。最初に理想像があり、現実とのギャップから感情が芽生える。夫婦仲むつまじくあるべきなのにけんかをしたといった状況から、「悪いことした」という罪悪感が生まれるように。ところが、その人が生きている社会に「女に頭を下げちゃいけない」なんて風潮があると、自分の感じている罪悪感とのギャップが生じる。そこでまた新しい感情が求められる。感情というのは、こうして二重に社会的に操作されているというのがホックシールドの論。 感情表現にも差がある。喜びや怒りの表情をアメリカ人とインドネシアのスマトラ島の住民にしてもらい、何を感じるか調べた研究では、アメリカ人は表情に対応した感情を知覚するのに対し、スマトラでは顔面の変化は感情と知覚されなかったという。この実験を行ったレヴィンソンらは、スマトラでは顔面筋の変化より人間関係における経験を重視しているからと分析している。 悲しいときに悲しまないと異端視される。ぼくたちが感じる悲しみあるいは喜びは、どこまでが本当の自分の気持ちで、どこからが社会にあわせたポーズなのか。いや、そもそも「自然な」感情なんて、どこにもないのかもしれない。

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