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ちょっと知的な雑学&トリビア

しっぽ

2003年8月24日 【コラム
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 たとえば、魚にはしっぽがある。生物学的にいう尾部とは肛門の中心から体幹の後端までを言うそうで、魚の場合ならおおむねぼくらの常識でいう胴体の多くが尾部であったりもする。尾びれは含まない。ややこしいから、ここは一般常識でいうしっぽで話を続けよう。変態によって吸収されるカエル類などしっぽのない種はあるにしても、身のまわりの動物を思い出すなら、けっこう多くの種にしっぽがある。犬や猫にはもちろん、鳥類にもあるし、かつての恐竜にもある。クジラにもある。猿にだってある。
 そうして考えていくと、むしろなぜぼくたちヒトにしっぽがないのだろうと、そのことが気にかかる。ご存知のように、しっぽの名残はある。脊柱の最下部に下向きに突き出した尾骨だ。おかげで尻餅をついたときに痛い思いをしたりする。チンパンジーやボノボといった類人猿にもしっぽがないから、共通祖先から猿と類人猿に分かれた後のどこかで、ぼくたちはしっぽを失ったということであろう。いつ頃と問われれば、すくなくとも1600万年以上前であったことが、アフリカで見つかった化石からわかっている。ケニア北部で見つかった類人猿ナチョラピテクスの化石の尾椎(びつい)には脊髄が通る穴が無く、しっぽを形成しなかったと判断されるのだ。樹上を機敏に動き回るにはしっぽが不可欠。しかし手足の握力が高まり、ゆっくり登るならしっぽがない方が邪魔にならない。だから「退化」したのではという説がある。
 それにしてもしっぽとは奇妙な部分。初期の魚類にとってそれは推進力を生むものだったが、リスにとってはバランス器官だし、鳥にとっては舵取り装置。イヌはそれで気持ちを表し、サソリは武器とし、トカゲは逃亡にあたって切り落とし、ウシはハエ追いに利用する。同じ部位でありつつ、使われ方の多様なこと。ぼくたちにあれば何に使ったろう。

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5 comments to...
“しっぽ”
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小橋昭彦

参考までにコラムで触れたナチョラピテクスの発掘をしたのは「中務真人」助教授らです。


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Minfei

わたしにもし、しっぽがあったら。。。
やっぱり感情表現かしら??
(無意識のうちにぶらぶらさせてそう。)
手癖が悪いから、絶対しっぽ癖も悪そう!!


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rnakaji

私は、もし人間に今でも尻尾があったら、蟹のように後ろから前に回して肛門や局部の保護に利用したと思います。
局部が体の陰の隠れていない動物、たとえば海獣類、の場合、局部は大体収納式になってますが、短期間に完全な直立歩行して、局部を前面に晒すことになってしまった人間はそこまで構造変化できず、結果としてパンツを履くことになったのではないでしょうか。
尻尾を持ったまま直立歩行を手に入れていたなら、パンツは履かずに、代わりに自前の尻尾を利用したのではないでしょうか。


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西山 敬治

小橋先生のお話はたいへん面白く喜んで拝読してます。大変為になることを軽いタッチの文章でいつも感心してます。これからも益々のご健闘をお祈りしてます。知識の深さに全く敬服します。 keiji-西山


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小橋昭彦

西山さん、ありがとうございます。とはいえどうぞ「先生」の敬称はご勘弁のほど。ぼく自身、毎日学んでおりますです。

Minfeiさん、rnakajiさん、示唆的なコメント、ありがとうございます。感情表現、性器保護ともなるほど、です。




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 国立国語研究所で外来語の言い換え提案が行われている。案の中に「アイデンティティー」が含まれていて、「自己認識」「独自性」「自己同一性」といった言い換え例があげられていた。identityというつづりには「I」が含まれているけれど、たとえば米国人の「I」と日本人の「自己」はずいぶん違うだろうとそんなことを考える。 日米の子育てを20年にわたって比較研究してきた結果がある。アメリカの子育ては子どもが独立した思考によって選択・主張することを重んじるのに対し、日本の子育ては社会における役割を受け入れることを重視するという。そういえばぼくも子が電車内で騒いでいたら「他の人が迷惑するでしょう」と叱る。社会という視点を与えているわけだ。 国際比較調査に「私は……」に続いて自己記述を書かせるものがある。「私は会社員だ」「私は母親だ」といった社会的な役割を記述する割合は、アメリカ人よりアジア系の被験者が高くなる。逆に「親切だ」などの抽象的記述は、アメリカ人で6割近くあるのに対し日本人は2割弱。ところが質問を「家庭で私は……」のように限定した状況にすると、日本人は抽象的な記述をする割合が倍増し、アメリカ人は半減する。日本人は周囲との関係があってはじめて「親切」といった内的属性が認識されるのに対し、アメリカ人にとっては周囲の状況はむしろ限定要因なのだ。 どちらが優れているという問題ではない。アメリカ人がアイデンティティの確立を重視するとすれば、それはそういう教育なり社会環境なりがあるからで、そういう意味で個人が文化との相互作用によって成立するという点に違いはない。自分っていうのは、ただひとつの個体じゃなく、文化と呼吸しあって成立してきたダイナミックな何かなんだ。ぼくたちが誰かとつきあうってことは、その人が生きてきた歴史や文化と向き合っているってことでもあるんだよね。

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 ヤマアラシのジレンマという寓話がある。寒さに震えるヤマアラシのカップル。暖をとろうと抱きあうと、棘で相手を傷つける。といって離れると寒い。ショーペンハウアーによるこの寓話を利用して、精神分析医べラックはヤマアラシ指数なるものを考案している。刺激の数にその強度と持続時間を掛ける。友人が5人いて平均週3回会っていてそれぞれ80分くらい一緒にいるなら、1200。同じ指数でも、持続の短い表面的なつき合いが多い人もいれば、友人が少なくてもじっくり会っている人もいる。 棘の長さにもいろいろあるのだろう、他人ととる距離も、人によって違う。これを4種に一般化したのが、エドワード・ホールだ。いわく45センチまでの密接距離、120センチまでの個体距離、さらに3.6メートルまでの社会距離、それ以上の公衆距離。密接距離は親密じゃないと保てないし、個体距離のうち75センチまでの近接相内で男女が並んでいると、夫婦か恋人に見える。社会距離はパーティ会場やビジネス上の会話で利用される。 米国での実験では、見知らぬ人に頼みごとをする場合は、40センチの距離から熱心に頼むのがもっとも効果的だったという。ただし熱心さが伝わらなければ最悪の結果になる距離でもある。膝詰め談判がいつも効果的とは限らないわけだ。 日本でもユニークな実験が行われている。女子学生に男子学生へのインタビューをしてもらうものだが、最初に男子学生が映ったビデオを見せて好感度を尋ねている。その結果、好感が持てる人とは平均181センチメートル、好きになれない人物とは154センチメートルの距離をとってインタビューしたという。好きな相手の場合の方が離れていた。なれなれしく思われないようにという配慮か。ヤマアラシのジレンマ以上に微妙な気持ちが隠れているようでもある。人との間と書いて人間。この「間」が、なんとも味わい深い。

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