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ちょっと知的な雑学&トリビア

自転の速さ

2003年5月08日 【コラム
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 買い物をして家に向かう途上、山の端に日が沈むのを子どもとカウントダウン。天が、というかコペルニクス的には地が動くのを実感する瞬間。自分たちのからだが秒速466メートルで東に向かっているとイメージできるわけではないけれど。
 長い目で見ると地球の自転は徐々に速度を落としている。初期の地球は4時間とも6時間ともいわれる速度で1回転していた。それが、長い年月のあいだに減速。理由は明らかでない。海洋がブレーキをかけているともいうし、偏西風の強さ次第で自転速度に影響が出るそうだから、さまざまな要因がからまってのことだろう。
 かつて地球の自転を基準に決められていた時間が、1958年からは原子時計を基準にするようになった。1日は原子時計の24時間よりわずかに長いため、ほぼ1年から1年半ごとに1日を24時間より1秒だけ長くして調整する。うるう秒と呼ばれるものだが、これが一九九九年一月を最後に実施されていない。
 地球の自転速度が上がり、原子時計との差が小さくなっているのだ。国連機関の国際地球回転事業が自転を精密に測っている。それによると、1973年には原子時計より1日で1000分の3秒以上遅れていたのが、今は1000分の1秒以下に短縮。気候変動で風の分布が変わったせいなのか、地球深部で巨大地震が起こって核の形が変わったせいなのか。ともあれ長い目でみて遅くなっていた地球の自転が、近年に限っていうなら、速くなっている。
 もちろん、そのことが日常生活に影響することはない。子どもと夕日が沈むのを眺めている時間が1000分の何秒か短くなったとして、決定的な違いを生むわけでもなかろう。ただ、このニュースを目にして、ぼくは自分の足元を見つめていた。この大地さえ日々変動しているという思いに、なぜか胸を揺さぶられて。

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11 comments to...
“自転の速さ”
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小橋昭彦

国際地球回転事業については、『INTERNATIONAL EARTH ROTATION SERVICE』をどうぞ。


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shimizu

(この質問が直接パブリックの場所に出ることはないと思いますが、アドレスや名前は非公開が条件です。それが出来なければ削除してください)

質問です。

「1日は原子時計の24時間よりわず かに長いため、ほぼ1年から1年半ごとに1日を24時間より1秒だけ長くして調整する。」とあります。

これは事実ですか?
小生の理解は「原子時計」と「自転に基づく時刻」のずれを調整するのがうるう秒です。つまり自転が遅くなればうるう秒が必要ということで、24時間より長いか否かではないと思います。

実際、一日の長さは23時間56分台ではないでしょうか?
一日が24時間より短いからこそ「うるう年」が出来ると理解しています。

ご教示いただければ幸いです。


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chief@goodbyeinternet.com

多くの物事って、このように「綺麗には割り切れな
い」んでしょうね。「うるう」という概念には非常に
関心があります。

そういえば学生時代、海外旅行で往路と復路で所要時
間が異なるのは、「地球が自転しているせいだ」と
思っていました(笑)。つまり、たとえば米国の場合
は行きよりも帰りのほうがだいぶ時間がかかります
が、その原因は地球の自転によって“行きは目的地が
近づいている”のに対して、“帰りは目的地を追いか
けなければならない”からだと真剣に思っていました
……。


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小橋昭彦

shimizuさん、小橋です。すみません、舌足らずな文章だったかもしれません。

この場合、1日=地球がちょうど1回転する間、という意味で用いています。それが、原子時計が24時間を刻むあいだよりちょっと長い、つまり地球がちょうど1回転したとき、実際には原子時計では24時間と1000分の1秒経っていると。それが積み重なると1回転しているのに24時間1秒たっていると。そういうとき、うるう秒を1秒入れて、いわば時刻の方を1秒遅らせるっていうことです。おっしゃっている主旨と違っていないと思います。

ただうるう年は、自転との関係ではなく公転との関係ですので(公転周期が365日より少し長い)、ここでは別に考えた方がよいかと思います。


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a okada

小橋さん、いつも興味深い情報を頂き有難うございます。
ところで、今回の秒速466Mはちょっと遅いように思いますが、正しいでしょうか? いずれにしましても 日の出や 日没の時に地球が動いていると実感できるのは 神秘的な感動をいつも感じますが。 あのスタンリーキューブリックの映画の音楽が そんなときいつも頭をよぎるのは
私だけでしょうか?


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小橋昭彦

a okadaさんありがとうございます。

>秒速466Mはちょっと遅いように思いますが、正しいでしょうか?

掛け算で1日分を求めると約4万キロ。そんなものですね。


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k.sato

最近ここを知りました。大変楽しく読ませていただいております。ちょっと細かいことなんですが、速度について…
秒速466mとありますが、日本(東京)だと、北緯35度くらいだから、円周は4万キロメートルじゃなくて、もすこし小さくなるので、速度はもうすこし遅くなるのではと考えています。極端に言うと、自転軸上に立ち続けている人は、1日かけて1回その場でくるりと回っていることになりますよね…。つまり、自転による移動はないと(なんと表現してよいやら。わかります?)。赤道にたっているひとが自転に関していちばん激しくうごいているんだなぁと。そんな想像をしてみました。(公転を無視して考えればですよ…)


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小橋昭彦

k.satoさん、ありがとうございます。

まさに、その通りですね。だから、体重を軽くしたければ、赤道上にいけばいい(遠心力で軽くなる)ってことにもなります。まあ、それがダイエットといえるかどうかは疑問ですが。


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hamu

はじめまして。

e-typingというホームページのタイピングで、
雑学どっとこむの「ハエ以上、イネ以下」というところを見て、おもしろいなぁ・・・、と思い、それからちょくちょく来るようになったのですが・・・。

初歩的な質問をさせていただきます。
少々日が遅れていますが・・・。

本当に初歩的だと思うのですが、
自分で電卓で計算して、自転の早さが秒速466mってところまでは理解できるんです。ハイ。
ですが、僕は「音」がどうも不思議でたまりません。

音は、状況によって多少異なりますが秒速340mぐらいって言われてますよね?しかし、僕らが常に東に向かって秒速466mで動いてるとしたら、誰かが声を出しても届かないと思うんです。
たとえば、地点Aで「たかし君」が「僕」に対して「あ」と喋ったとします。音の速さは秒速345mで、自転の速度は秒速466m、「たかし君」と「僕」の距離は、ほぼ無と仮定します。
そうすると、1秒後の2人の位置と音の位置は121mも離れてしまいます。当然自転の速度のほうが速いのでそのままどんどん距離は開いていって、約4日で自分たちが音に追いつくことになると思うんです。
ひょっとして音にも慣性の法則って働くのですかね?

非常に初歩的ですみませんが、良ければお答えください。


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hamu

少々言葉が足りなかったかもしれません。

>1秒後の2人の位置と音の位置は121mも離れてしまいます。

ではなく、

>>1秒後には2人の居る位置と音の位置との距離が121mにもなってしまいます。

の方が伝わりやすいと思います。
長々とすみませんでした・・・m(__)m


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rnakaji

時間の単位の秒と時刻の単位の秒とは取り扱いが違いますよね。時間の場合は何百秒、何千秒と有るけど時刻は60秒で分に桁上がりするので、59以上の数字はないわけですよね。日は基準が自転周期であって24時間では無いので、秒を修正しますし年は公転周期であるので日を修正します。時刻は共通認識が有ればよく、時間の長さとしての要素はいらないですものね。江戸時代の不定時法と一緒ですね。




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 1歳になった子どもを抱いて散歩。「大きくなったね」と知人に声かけられて、米袋と同じ重さですから、なんて答える。およそ10キロ。上の子のときも同じように答えていたが、口にしつつ、ほんとうに同じだろうかと疑問を抱いてもいた。米袋を抱えて半時間も散歩するのは辛いが、子どもなら大丈夫。 ロボットコンテストの立役者として知られる森政弘博士の『機械部品の幕の内弁当』に印象的な挿話がある。10キロの綿と10キロの鉄ではどちらが重いか、という問題だ。謎かけのようでもある。つい鉄と答えてしまい、同じというのが一般的なオチか。じつは「同じ」という答えも、間違いではないけれど、単純すぎる。森博士はそれを外側発想と呼んでいる。実際に持ってみると、綿の方が重い。鉄なら手で持ち上げられるけれど、10キロの綿はかさばるので全身の筋肉を使う。だからはるかに重く感じる。これが内側発想。その伝でいけば、鉄の10キロ、米袋の10キロより、笑顔を見せてくれる子どもの10キロがずっと軽いのは当然だ。 ぼくたちはつい外側発想をしてしまう。創造力を高めるためには内側発想を心がけようというのがここでのポイントではあるけれど、重要なのは外側か内側かではなく、固定された視点を持たないことにある。有名なエレベーターの待ち時間対策もそう。エレベーターの速度をあげたり、複数台設置するのではなく、エレベーターホールに鏡を設置しただけで顧客の不満が解消した、という逸話。達成すべき課題を顧客の不満の解消と読みかえ、鏡で身だしなみをなおすなどの機会を与えることで不満をなくしたわけ。 手術後疲れやすくなって米袋を運ぶのも大儀そうな父が、孫をにこにこと抱き上げている。重さとはキログラムだけで表されるものではない。初夏の光のなかで笑顔を見つつ、あらためてそう思う。人を動かす力はどこに生まれるかと、そんなことを考えもした。

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 悲しいから涙するのではない、涙するから悲しいのだ。心理学でジェームズ=ランゲ説を説明するとき、しばしば引き合いに出される表現だ。涙という生理的反応が直接悲しみという感情につながるのではないにしても、本質的には外れていないらしい。 よく知られた実験に、ダットンとアロンによるつり橋実験がある。つり橋を渡る男性の被験者に女性のインタビュアーが質問をする。さらに詳しいことを聞きたいときは電話して、と電話番号を渡す。安全なつり橋より、危ないつり橋で声をかけたときの方が、後から電話をしてくる男性の比率が高かったという結果。自分が揺れる橋にどきどきしていたのを、女性への心の高鳴りと考えて、より魅力的に感じたというわけだ。 バリンズは、自分の心音を聞かせながら、女性写真のうち好きなものを選んでもらう実験を行っている。このとき、偽の心音を聞かせてある写真のときに速くうたせると、その写真を選ぶ確率が高くなる。偽の心音でも、自分はその写真に興奮したと勘違いを起こさせられたという結果。生理的反応と心理的反応をつなぐのにあたって、生理的反応を認知する自分をおく考え方だ。 それでもやはり、感情とはそんなに単純なものかとも思う。思う一方で、セロトニンというホルモンの分泌が気持ちを落ちつかせるのに関係していると聞くと納得する自分がいて、それって結局生理的反応が感情に先立つと考えているということではないか、と自らの矛盾を笑いもする。 涙するから悲しいという表現は冷笑的だろうか。涙を流すことによってぼくたちが自らの悲しみを知るとすれば、ぼくたちは涙の数だけ、自分を見つけていることになる。涙を流すこと、悲しむことは小さな自分探しなのだ。小さな自分を重ね、明日を生きる勇気とする。そうであれば確かに、涙の数だけ強くなれるのだ、ぼくたちは。

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