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ちょっと知的な雑学&トリビア

コトを選ぶ

2003年5月01日 【コラム
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 コラムで多数決について書いた週末、町議会選挙の投票日。16の議席に18人の立候補者。用紙に書ける名前は一人、得票数が多い順に議員に選ばれる。こうした単記投票は多数決の結果を反映しにくいと、コラムを書く際に佐伯胖教授の『「きめ方」の論理』で読んでいたので、投票行為そのものを興味深く楽しんだ。なるほど、単記投票での多数は、他の選択肢との優劣を意味しない。簡単な例をあげれば、16番目で当選した人と17番目で落選した人とで決選投票をしたなら、17番目の人が選ばれるかもしれないわけ。
 優劣を反映したいなら、1位から順に点数をつけて投票するボルダ方式がある。年末の書籍ベスト投票などで見かける方法だ。この場合は、多数決の結果と一致する確率が高くなる。もっとも、18人の候補に順位をつけるなんてまず無理。そういう場合は、おおむね立候補者数の半分くらいの候補を選んで投票する方法なら、多数決の結果と一致する確率が高くなるという。ただ、選挙制度は多数決原理だけで判断できるものではなく、これだけをもってあらためるべきとは言えない。
 そもそもぼくたちは選挙で、いちばんいいと思う人に投票しているのだろうか。あの人は当選確実だからこっちの人を応援しておこうなんてこともあるだろうし、ほどほどにバランスよく、それなりに納得できる方向であればいいと思っている気がする。佐伯教授の著書には、ぼくたちは「モノ」ではなく「コト」を選んでいるとあって、印象深かった。確かにぼくたちは、厳密にモノの優劣だけではなく、選ぶプロセスや、選んだ後の関係などを総合的に判断している。多数決をとりあげたコラムへの感想にも、きめ方の正確性というより、決める過程や決めた後の人間関係を含んだ意見が多く、そうだよな、ぼくたちはそうして日々を生きていく社会的な動物なんだよなと、そんな感慨を抱いたのであった。

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6 comments to...
“コトを選ぶ”
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小橋昭彦

佐伯胖教授『「きめ方」の論理』。気軽に読んでいると置いてけぼりになる部分もありますが、ご興味のある方、ぜひどうぞ。なお、「萩原能久研究室」の講義録には参考になる記述がたくさんあります。


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小橋昭彦

没ネタ。疫学研究の中では「前向きコホート研究」の信頼性が高い(朝日9月21日)。若者言葉のルーツ方言にも(朝日7月8日)。「とても美人だ」のとてもは大正から昭和にかけて流行した新用法(朝日11月10日)。バブル崩壊後の日本の状況を解明・解決できればノーベル経済学賞級(朝日11月30日)。計量分析で写楽に迫る(朝日12月15日)。インフレの世紀はむしろ例外(日経12月4日)。霊長類の祖先は樹上生活が得意(日経11月22日)。「知っているけど思い出せない」という感覚のとき、大脳前方が活発な動き(日経11月4日)。砂糖と塩は手触りが違う。最古の「虎口」(朝日9月14日)。江戸文字にも各種(日経8月9日)。日本人の魔女のイメージが明るい理由(朝日7月12日)。カリスマ左官(朝日6月5日)。日本キチ学会(日経6月4日)。中南米向け「移住者送出事業」120年で幕へ(朝日12月12日)。こくは強ければおいしいというわけではない(日経12月8日)。絶滅の危機にある地上の植物は2割から5割(朝日11月1日)。動物園の檻のなかでは性欲を失うライオン(日経10月20日)。マレーシアは称号社会(朝日12月31日)。ミラーニューロン(日経8月18日)。大規模化する森林火災(日経サイエンス03年3月号)。気泡の苗床はグラスについた繊維屑(日経サイエンス03年3月号)。地震連鎖のメカニズム探求で予知に新しい光(日経サイエンス03年4月号)。


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小橋昭彦

多数決と単記投票のズレについては追加説明が必要かもしれません。

いま、ある町の選挙があって、議席は2席だったとします。その町には4地域があって、各地域から立候補者を出したとします。住民数はA地区40名、B地区30名、C地区20名、D地区10名。

さて、その地区に住んでいる住民は当然自分たちの地区の代表が当選して欲しいと思っています。そしてもう一議席は、まあ住民数の多い順でいいと思っているとして、ただA地区の人たちは、自分たちとまったくカラーの違う、もっとも人口の少ないD地区の代表がもう一議席に選ばれたらいいと思っているとします。

整理すると、投票にあたって脳裏にある議員構成としては、

A地区の人(40人):A代表、D代表
B地区の人(30人):B代表、A代表
C地区の人(20人):C代表、A代表
D地区の人(10人):D代表、A代表

だったとしましょう。さて、単記式だと各地区の人口がそのまま反映され、議会にはA代表とB代表が選ばれることになります。

でも、上記を見ると、もし二人を選ぶなら、A代表とD代表としている人が50人と半数を占めているわけで、多数決を前提にするなら、本来A代表とD代表が選ばれてしかるべきだったわけです。


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西浦

こんにちは。
いつも刺激されながらコラムを読ませていただいてい
ます。
今日はタイムリーな投票の話題でしたのでしょっと意
見を伝えたくなり投稿と言う程のものではないのです
が書き込み致します。
小橋さんがおっしゃるボルダ方式はもちろん一番正確
だと思います。
日経で一年に一度行われるブランド知名度に関するア
ンケートなどもこれに近い方式で行われているが、
これには多大な時間と知識が求められます。
投票でこんな事をしてもきっとほとんどの方は
拒否反応を示すか、めくら投票になってしまう可能性
が高いです。
それより16議席の中で2人が落選するという事は
確実なのであれば、
「この人には議員は任せたくない」2人を選んでもらう
方が確実な意見の集計にならないでしょうか?
こういう事ができるかどうかはわかりませんが、
最近の政治家の不祥事とモラルの低下により
「この人にだけはなってほしくない」って人だけは
はっきりしています。
残念な事にそんな人が今回の選挙でも
たくさん当選していたのが情けなかったです。
宗教票、医師会票、ゼネコン票、タレント人気票、
訳のわからない数の力が、なってほしくない人を
政治家にする。
この投票方法なら、きっと投票率は上がるし、
政治家も普段の行いが票に直結すると思うと
今の様に汚い行動をとりにくくなると思いませんか?


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鶴 喜久

小橋さん、こんにちは。
いつも面白い話題、楽しく読ませてもらっています。
私も選挙のたびに思うのですが、さっぱり投票したいと思う人がいないのに、然し選挙は国民の義務だと言われて、しぶしぶ出かけます。

古代アテネには「陶片追放」(オストラシスム)と言う制度があり、陶器のかけらに危険な人の名前を書いて、それが一定数に達すると、10年間アテネを追放されました。
これは独裁者を排除するためでしたが、後に政敵を陥れるための手段となり、廃止されました。

でもこの方法を、現代選挙にも活用したらよいと、私は思うのです。(リコールなどは一種の名残でしょう)
賛成票から反対票を直接差し引くのが問題なら、せめて最下位の16人目と17人目に適用するとかすれば、選挙への関心が出て、投票率も向上する筈です。


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田中伸幸

投票は、自分は誰を選ぶか、ということですからどの人が「より良い」かという順番を付ける優劣の発想になって、たしかに自然です。その意味では西浦さんが指摘された「任せたくない」人を二人投票する方法に私も賛成です。しかし、一歩進んで、立候補している人たち、一人ひとりがどのような人なのかを各有権者が判断するのがもっと正当ではありませんか。18人も候補がいたらその全員の候補者について知っているなどということはありえないので、各人が分かる範囲で一人ひとりに「承認」「非承認」及び「判断保留」を記入していくやり方です。やって欲しい人達が最終的に絞られるのではないかなと期待します。しかしながら完璧な方法はなさそうですね。このやり方にしても悪用されれば「非承認」を使って他陣営を妨害することが出来ますものね。なんにしても各個人がしっかり成熟した社会であることが基本であるなあ、と思います。




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 100年近く前、地理学者のハンチントンが、気候が人類の進化に影響を与えてきたと唱えた。当時は注目されたが、証拠の弱さもあって20世紀半ばには人気を失う。これは環境考古学を提唱している安田喜憲教授が書いていることだけれど、1970年代には、気候が人類に影響を与えると唱えようものなら非科学的と批判され学会から追放されかねない雰囲気でさえあったという。歴史を動かしてきたのは文化的要因であり、気候が社会を変えたなんて安易な環境決定論と非難されたわけだ。 そうした空気も近年は変化した。たとえばエール大学のハーベイ・ワイス教授は、紀元前2000年頃の旱魃でエジプトからインドにかけての文明が衰退したと唱えているし、リチャードソン・ギル博士は、古代マヤの文明に影響を与えたのも旱魃と唱えている。1980年代半ばにジョン・フレンリー博士らによって発表された、巨石モアイ像で知られるイースター島に関する研究はひときわ印象深い。巨石文化は別の民族の遺跡というのが定説だったのに対し、イースター島文化の起源は5世紀か6世紀頃にわたってきた数十人の一団で、彼らが後に高度な文化を築いたこと、それが人口7000人以上に爆発、小さな島の資源を使い尽くし、互いに争い食い合うまでになって衰退したことを明らかにした。まさにいまぼくたちが地球規模で直面している問題と同じではないか、と大きな注目を集めた。 気候が歴史を変えたという見方には、いまも冷めた評価をする研究者が少なくないという。そういえばぼく自身、地球環境が大きく変動する現代にあって、最終的に人類はそれを乗り越えると信じている気がする。本当の意味で、気候が歴史を左右するとは信じていないのだ。それは、未来を信じ切りひらくために必要な信念だろうか、あるいは単なる思いあがりだろうか。イースター島からぼくたちが学べるのは、何だろう。

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