ざつがく・どっと・こむ
ちょっと知的な雑学&トリビア

音と光の速度

2003年4月17日 【コラム
Share...Share on FacebookShare on Google+Tweet about this on TwitterShare on LinkedIn

 これだから人間ってのはおもしろい。世界最高度からのスカイダイビングを計画している人のレポートを科学誌で読みつつ、ため息をついた。上空約40キロメートル。宇宙といっていい空間だ。大気は薄く、予定では身体はどんどん加速、31秒後には音速を超えるという。地上への到達まで、約15分30秒。
 生身で音速を超えるというイメージが、どうしてもつかめない。映画『ライト・スタッフ』の影響だろうか、人類で初めて音速を超えたチャック・イエーガーの苦労が重なる。あの壁、時速にして1000キロあまりを、生身で受け止める。宇宙服のような装備を整えているとはいえ、想像を絶する。
 その音速でさえ、光に比べるとはるかに遅いことは、雷や花火を見るとき実感できる。しかしなぜ、ふだん人と話しているときはその差を感じないのだろう。仮に花火の位置から話しかけられたら、先に口が動いて、声はあとからついてくるはず。では、どの距離からそのズレは生じるのか。
 40メートル、というのが産業技術総合研究所の杉田陽一研究員らがつきとめた答え。さまざまな距離と時間間隔の組み合わせで光と音を発生させ、どちらが早かったかを被験者に尋ねる実験を行った。おもしろいことに、距離を1メートル離すごとに、音を3ミリ秒ずつ遅らせて呈示すれば、被験者は光と音が同時だと感じられたという。ズレを脳で自動的に補完しているのだ。1メートルで3ミリ秒というのは、まさに音が大気中を進む速度。つまり人間は、音速をあらかじめ織り込み、補正している。補正の限界が、40メートル近辺だったという。
 あの音速を、脳はあらかじめ知っているということ。あらためて、ぼくたちはこの自然とともに進化してきた生命なのだと実感する。その自然の中で、自らの限界に挑戦しようとしている人がいて、それはつまり自らを、ひいては自然を知りたいという好奇心の賜物なのだろうと、そんなことを思う。

Share...Share on FacebookShare on Google+Tweet about this on TwitterShare on LinkedIn

3 comments to...
“音と光の速度”
Avatar
小橋昭彦

ダイビング挑戦者の記事は、「Popular Science 3月号」掲載。英語版ですが「Jump! Jump!」としてあります。米仏競争って感じですが、お二人ともサイトがありますね。フランスは「Michel Fournier」、米国は「Cheryl Stearns」。さてどうなることか。さて、産業技術総合研究所の発表は「脳は音がどのくらいの早さで進んで来るか正確に知っている」をどうぞ。サム・シェパード主演『ライト・スタッフ』、原作はトム・ウルフの『ザ・ライト・スタッフ』です。絶版か。


Avatar
Y.Kubota

初めてコメント書きます。

時間遅れ(この場合音と光)を補正するのは、経験なのか、生まれつきなのかに興味があります。たとえば、ヘリウムと酸素の世界(ダックボイスの空気ね)で育った人は、その音速で補正をかけるようになるのでしょうか。

というのも、元々脳内の処理は光部分と音部分での処理速度は同じでなく、すぐ近くで起きた事象に関しても”同時である補正”を行っているはずで、これは人が育つ間に形成(補正量の校正)されるのではないかと考えているので。

この例と同様に、自分で自分をつねった場合など、痛いと思うのとつねった時は同時と感じていますが、”痛い感覚”が脳まで届くのに0.5秒程度かかるので補正して感じていることになります。
言い換えると、目から入ってきた情報の後に音や痛みが感じられたのにもかかわらず、”既に感じていたことにする”という時間操作が脳の中で行われています。さて、その光と他の感覚の間で時間を止めたら、どう感じているのでしょうね。

ちなみに、このあたりの知識は聞きかじり(よみかじり?)で、専門家ではありません。たしか、このような話を「『2063年、時空の旅』講談社ブルーバックス」で読んだと思います。


Avatar
MRPI

興味深い話。
目にした風景の凄さを写真に残そうとして、後で見たら「何だこりゃ?」って話と同じ類。

人は現実にフィルタを掛けて加工している。
見たいものを見て、聴きたいものを聴く。
そうしなきゃ、生きて行けないからか。

物理的にも精神的にも。




required



required - won't be displayed


Your Comment:

 1と0をランダムに10個並べてほしい。あなたはどう書くだろう。「1010100110」といった並びが多いだろうか。手もとの表計算ソフトで実際に発生させてみる。1111011110。もう一度。0011000000。同じ項の続きをランというけれど、ランがあんがい長いことに驚かれたのではないだろうか。ランダムにといわれると、ぼくたちは長いランを避けようと、つい人為的なものを作ってしまうのだ。 日常的な考え方が自分を縛ることが、しばしばある。開幕したばかりのプロ野球、打率5割や6割というバッターがいる。この人は春先は調子いいけれど夏になると調子を落とすと考える人はさすがにいないと思う。春先は打席数が少ないから、統計的に大きなぶれがあるのは仕方なく、打席を重ねるごとに3割なりといった平均的な打率に落ち着く。しかし、新人王をとった次の年は成績が落ちるという、いわゆる「2年目のジンクス」の原因を尋ねられるとどうか。オフの間にトレーニングできなかったからとか、プレッシャーや慢心といった答えをしがちじゃないだろうか。実際は、多くの選手の中でとびきり成績が良かったから新人王に選ばれたわけで、そんな成績が2年も続くほうが珍しい。 トゥベルスキーとカーネマンが事前確率を無視する傾向として提出している問題も示唆的だ。1000人に1人の割合で感染する病気があるとする。検査薬を使えば、感染していれば0.98の確率で陽性反応が出るが、感染していなくても陽性反応が出る確率も0.01ある。今ひとりの人に陽性反応が出たとして、その人が感染している可能性はどれだけか。多くの人は、0.98と考えて絶望的な気持ちになる。でも実際には、感染する確率がそもそも0.001なのだから、総合的に考えると感染の可能性は0.089、非感染が0.911と、まだまだ非感染の可能性が高い。 手軽に済ませようとすると、真実をつかまえそこねる。そうとわかっていても、今日の松井の打率はと開幕数試合で気にしてしまう自分がいて、それが悲しくもおかしい。

前の記事

 体育座りって、こうやで。風呂場の脱衣所で子どもがそういって、脚を抱え込んだ。幼稚園で習ってきたらしい。かわいいのだけれど、竹内敏晴氏の著作を読んだ後だったので素直に喜べない。大人になると慣らされているが、本来は子どもに自由を許さない姿勢だと竹内氏は指摘する。自分の手で脚を縛り、手も足も出ないよう小さくなって息をひそめる。一理あると思い、保育園から幼稚園へ、つまりは教育を担当する省の管轄になるとさっそくその姿勢を習ったことに、なんだか複雑な思いを抱いたのであった。 一方、かしこまった姿勢の代表としてイメージする「気ヲツケ」は、旧陸軍の歩兵操典によれば上体を15度前傾することという。手の小指を脚に添わせ手のひらは前に。直立不動というより、命あれば常に歩みだせる姿勢だ。軍隊といえば、これは有名な話だが、江戸時代まで日本人は歩くときほとんど手を振らない、振っても阿波踊りのように手と足同じ側を出していたのを、左足を前にすれば右手を前にという歩き方にしたのも、教育。歩くとき上半身がぶれないようにし、戦闘時の機敏さを確保しようという狙いだろうか。 話は逸れるけれど、プロ野球選手やJリーガーに4月5月生まれが多いというのはご存知だろうか。統計的にも有意な差があり、逆に2月3月生まれは少ない。子どもの頃クラスの中で体格が大きいことから、中心となって活躍し鍛えられたためと推測されている。生まれ月による体格差が無くなる頃には実力差がついてしまっているというわけだ。 ふだんぼくたちは、気持ちがからだを動かしていると思っている。しかし逆に、姿勢が無意識に自分を縛っていることはないか。からだにとらわれて本質を見失っていないか。そんなことを思う。背を丸め、肩に力を入れて世間を拒絶することをやめてみないか。視線を上げ、胸を開いて、からだの向こうにあるものを受け入れてみないか。

次の記事