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ちょっと知的な雑学&トリビア

子どもの時間

2003年3月10日 【コラム

 もうすぐ5歳になる長男と、このところ黙想をしている。正座して、目を閉じ、何も考えない。まずは1分間。あんがい静かにしているもので、ちょっと驚いている。ジャネの法則を適用するなら、彼にとっての1分間は、ぼくにとっての8分に相当するはずだから。
 ポール・ジャネはフランスの心理学者。60歳にとっての1年は20歳にとっての3年、つまり心理的時間は年齢の逆数に比例すると唱えた。心理的時間の1秒間は10歳児で0.5秒、大学生で0.61秒、老人で0.65秒だったという実験報告もあるから、ジャネの法則ほどの差は無いものの、確かに年をとるほどに心理的時間は長くなっている。
 心理的時間は、年齢だけではなく本人のおかれた状況によっても変化する。建築環境を研究する藤本麻紀子博士らが行った実験によると、にぎやかな街中よりも静かな公園のビデオを見ている方が、時間を短く感じる傾向がみられた。好ましいと感じる空間であることが、心理的時間を短くしている。そしてもちろん、空間だけでなく時間そのものへの評価も心理的時間に影響する。楽しい時間は短いのに、待つ時間は長いというやつだ。米国のシュナイダーらが犯罪の被害者を対象に調べたレポートでは、警察が来るまでの時間を、実際に要した時間よりほとんどの人が長く感じていたという。ストレスのかかる状況だと待つ時間はいっそう長い。
 長野県松本市を訪れる。約束の時間まですこし間があったので、新しくできたという時計博物館をのぞいた。館内のビデオで母の帰りを待つ子どものエピソード。母は仕事で忙しくしている。忙しいときほど時間は早く過ぎ去る。母は子どもが待つ時間の悲しさに気づかない。忙しいという字は、心を亡くすと書くともあった。そういえばこのところ、「お仕事終わるまで待ってね」と子どもに言うことが多い。ぼくはいま、心まで失いつつあるのだろうか。そんなことを省みつつ、博物館を後にしたことだった。


6 comments to...
“子どもの時間”
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小橋昭彦

藤本(矢川)麻紀子氏の論文については「人の空間に対するイメージと感覚時間に関する研究」をご参照ください。「篠原一光」氏のサイトもご参考に。心理的時間の1秒についてはSmythe and Goldstoneの研究ということですが、原典を見つけられていません。Schneider Griffith Sumi and Burcart「Victims of crimes–Oregon–Portland」も、原典にはあたれていません。いずれも菊野春雄著『嘘をつく記憶』で知った研究です。この書籍については、次回詳しく触れます。


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松本秀人

“子どもの空間”というのもありますよね。「何十年ぶりかで故郷を訪ねてみたら、記憶していたよりずっと道が狭かった」とか。これも自分のサイズでモノゴトを体感した結果なのでしょうか。
小さいころは大冒険だった隣町までの自転車での遠出。そうした感覚を取り戻したいと思う時もあります。


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小橋昭彦

ありますあります。田舎暮らしだったので、昔は大きな百貨店と思っていた店が、いまでは小さなスーパーです。


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SPD

「子どもの時間」との表題で、学童の指導員の仕事を
していることから、いつもより余計に興味深く拝見し
ました。なかなか寒さが抜けきれませんが、お元気で
ご活躍のことと存じます。
 学童に来る子どもたちは親御さんがお仕事をされて
いることが条件ですから『待つ』という作業は日常的
なことです。子どもというのは大人が思う以上に小心
者です。強く叱る場合はよほど注意をしないと俗にい
う子供心が傷つきかねません(笑)
21世紀の現代っ子ですから、本音はキズの一つや二
つを怖れていては仕事になりませんが、我慢強く待ち
続ける子供が大半で、それでももう待てない時は、待
てないとストレートな主張は避け、形を変えて要求し
ます。だから本当は大人の方が先に気付いてやらなけ
ればいけないのですが。ただ待つ間、子ども達は根が
小心者ですから、いろんなことを一生懸命考えます。
だから悪い時間ではないと私は思います。
91歳まで生きた私の父の主治医は90を越えた老人
の一日は我々の1年に匹敵する貴重なものだと話して
くれました。子どもが待つ時間だって決して淋しいだ
けの無意味な時の刻みではないと思えるよう子ども達
の成長をそっと見守りたいと思っています。


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らせん

なぜ、子供の時間と大人の時間は違うように感じるのか。フィボナッチ数を年齢に置き換えれば簡単に理解できる。1歳、2歳、3歳、5歳、8歳、13歳、21歳、34歳、55歳、89歳。自然は黄金分割比のらせんを描く。心理的時間も黄金分割比の螺旋を描いている。自己の中心軸に対して1歳で90度、景色が変わる。2歳で90度景色が変わる。3歳から5歳で90度景色が変わる。6歳から8歳で90度景色が変わる。9歳から13歳で90度景色が変わる。14歳から21歳で90度景色が変わる。しつこいようだが死ぬまで景色が変わる。
景色が変わることが心理的価値観なら9歳から13歳までの時間と56歳から89歳までの時間と同じ価値を持つ。よって私の法則はジャネの法則と近い。
自己の中心軸は何だろう。単純な過去の記憶ではない。形のあるものではない。決して見ることができない。年寄りが青春の詩を読んで若さを取り戻そうとしても自然の摂理の中では無駄な足掻きなのだ。
瞬間的な時間は子供も年寄りの心理的時間はそう変わらない。カップヌードルを待つ心理的時間は年齢にそう関係ない。腹の減り具合に関係するだろう。無意識の中で形のない自己の中心を見つめるとき、昔に比べ現在の時間が早く感じられる。


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nakaji

幼児生理の本に子供が我慢できないのは脳が未発達なため、我慢する必要があるときは本当に我慢するからだとありました。大人ならば、そのことは心の隅に置いて他のことを考えますが、子供は全力でそのことを我慢するんだと自分に言い聞かせ続けるらしいです。それじゃあ大変ですよね。大好きなケーキを見つめて「目の前にあるのは、おいしいケーキだけど、ママが我慢しろと言うから食べない。」を延々と言い続けるのですから。




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 人類の起源について書こうとすると、落ち着かない気分になる。それというのも、今も新発見が続いている分野で、日々見直しが重ねられているから。おまけにぼくたちには、ヒトは一直線に進化したという誤った思いがある。たぶん、四足の猿が歩くたびだんだん背を伸ばし現代人に至る、しばしば見かけるイラストが原因だろう。場合によっては、その下に猿人から始まってネアンデルタール、クロマニョン、現代人などと解説が振ってあったりして、そうなるとやはりちょっと違う。 ぼくたちホモ・サピエンスは、ホモ属のサピエンス種に属する。ホモ属というのがいわゆるヒトだが、クロマニョン人が含まれるいわゆる新人、サピエンス種以外に、旧人に分類されるネアンデルターレンシスや原人と分類されるハビリス、エレクトスなどが含まれる。ぼくたちはその一種にすぎない。さらに言えば、ホモ属以外にも、人類には猿人に分類されるアウストラロピテクス属があり、アフリカヌスやアファレンシスといった種が知られている。21世紀に入ってさらにケニアントロプス属なども発見されており、人類を構成する種の数は、20種はくだらないと言われるようになった。 それらのなかでぼくたちサピエンス種だけが生き残ったのは、おそらくはほんの偶然。ニューヨーク州立大のズブロウ博士は、大災害や明らかな優劣に理由を求めなくても、死亡率がわずか2%違うだけで、一千年後に一方の種は繁栄し一方の種は絶滅すると指摘している。 人類学者のタッターソルは、約180万年前のケニア北部では、4種類の人類が共存していたと指摘している。交流はあったろうか。あったとすればどんなだったろう。ネアンデルタールが生き残っていれば、ぼくたちは生物の頂点に立っているなんて思いあがらずに済んだろうか。ホモ・サピエンス同士で争うことの愚かさにも、気づいたろうか。現生人類の孤独を思う。

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 時間というとき、ぼくたちは過去から未来へ続く川のようなものを思い浮かべる。その途中に浮いている船が現在だと。しかし、実際には現在という時間を、ぼくたちは船を指すようには示すことができない。示したとたんに、それは過去になっているから。 過去でさえ、いま思い出すからあるわけで、どこかに確かに転がっているわけではない。思い出すという現在が過去。いや、過去は確かに変わらず存在すると思われるだろうか。たとえば、こんな事例を知るとどうだろう。 犯罪における目撃証言の事例だ。何人かが犯人を目撃し、その人たちが写真ファイルあるいは面通しで共通した人物を犯人と指摘する。すると捜査側は間違いなくその人物が犯人であろうと考える。ところが、容疑者が逮捕された後で真犯人が名乗りでる、それが目撃証言と似ていない犯人だった、そんな事件が少なからず発生している。 これは、ぼくたちの過去に関する記憶が、思い出すという行為の中でゆがめられてしまうからなのだ。証言をとる警官の質問、マスコミによる容疑者報道などで、思い出は容易にゆがめられてしまう。証言心理学の先駆者、米国のロフタス博士は、交通事故のビデオを見せた後、被験者に現場にガラス破片が散らかっていたかをたずねる実験をしている。このとき「激突したとき」とたずねると、「衝突したとき」とたずねたとき以上に、実際には散らかっていなかったガラス破片を散らかっていたと証言する人が増える。わずかひとことの違いが記憶を変える。 過去を悔いることも少なくない。あれをしとけばよかったとか、あれはしなければよかったとか。そんな思いは辛い。つらいのだけれど、そういう過去でさえ、通り過ぎた上流でなく、現在を生きるという行為のなかにあると考える。そして今を誠実に、力強く生きることで過去を償えるのだと、そんなことを思う。

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