和算
江戸時代に発展した日本独自の数学、和算。代表的な名をあげるなら、17世紀に活躍した関孝和だ。彼が行列式の理論を記した「解伏題之法」を表したのは1683年で、ライプニッツより早い。その弟子建部賢弘が「綴術算経」を時の将軍、吉宗に献上し円周率を42桁まで正しく求めたのが1722年。これまたオイラーがπを採用する1737年に15年先立つ。
江戸時代に和算が発展したのには、「塵劫記」というロングセラーの役割が大きい。その巻末には、解答のつかない12題の問題がついている。これができない人は教えるなという意図があったようだが、後代の人はそれを解き、さらに自分で問題を追加していった。「遺題継承」と呼ばれるこの習慣が、和算のレベルを向上させていく。
それにしても、絵馬の代わりに数学の問題と回答を掲載した「算額」が神社に奉納されてもおり、和算がいかに重宝されていたかがしのばれる。まあ、重宝されるといっても、年貢計算など実用面で役立つ一方で、遊びに近い部分もあった。ねずみ算などは遊び感覚を取り入れたいい例だろう。
ねずみ算といえば、時代をさかのぼり、豊臣秀吉から欲しいものをやると言われて答えた曾呂利新左衛門の逸話も知られる。将棋版を指して「今日は一粒、明日二粒、三日目は四粒と、前日の倍にして盤の目の数、81日分の米粒をいただきたい」と答えたと。おやすい御用と受けた秀吉。さて実際にやってみると、日本中の米を集めても足りなくなる計算。
奈良時代にさかのぼり、当時の教科書「孫子算経」にもおもしろい問題がある。「29歳で9月に妊娠した女子が生む子は男か女か」なんて質問が通常の問題に混じっている。なにやら計算して、結果が奇数だから男と。算術が呪術と近かった時代。教科書の名にあるように、「経典」と同類なのだ。
そういえば、小学生時代の算数で今も驚いた記憶があるのは、円周率にきりがないと聞いたこと。数字に自然の魔力を感じて、妖しかった。学問を、必要以上に世の不思議から切り離すことはない。
“和算”