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どこかで、だれかが

2002年6月27日 【コラム
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 いま利用しているコンピュータは、暇になると地球外生命探しをしている。もちろんどこかに出かけるわけじゃなく、電波望遠鏡のデータを解析し、地球外生命が発したと思われる有意の信号を探しているのだ。同じようなことをしている人が世界中に400万人弱いて、ネットでつながれて分担している。プロセッサの処理時間を累計すると100万年以上になるというからすごい。
 この計画、SETI@homeというプロジェクト。ご存知の人も多いだろう。インターネットがあれば誰にも参加できる。パソコンの遊休時間を利用して分散処理をさせる。こうしたやり方は、ほかにも大きな素数を見つけるプロジェクトや、タンパク質の解析などのプロジェクトで採用されている。
 それにしても、そもそも地球外生命の存在確率はどの程度なのか。その数を見積もるのが、天文学者のフランク・ドレイクが提唱したドレイクの式として知られているもの。1年に銀河系で生まれる恒星の数に、その恒星が惑星を持つ確率をかけ、生命の生存可能な環境を持つ惑星数と、そこに生命が発生する確率、それが知的生命まで進化する確率、さらに文明社会まで発展する確率をかけ、最後にそのような文明社会の寿命をかける。
 これらのうち、恒星数や惑星数はおおむね共通認識ができている。生命が発生する確率や、それが知性や文明まで進化する確率も最高で1。というわけで、この式でもっとも不確定な要因は、文明社会の寿命だ。短ければ、ふたつの文明が出会う可能性は限りなく低くなる。せっかくぼくらが耳を傾けているのに、星のかなたに居たはずの誰かは、すでに滅びているかもしれない。
 だから。子どもが保育園で七夕伝説を聞いてきた今日、地球外生命探しのソフトウェアを走らせながら、人と人も手をとりあい、少しでも文明を伸ばしてくれるといいと思う。何千年か、何万年か、何億年か未来、この銀河のどこかでだれかが、ぼくたちの声に耳を澄ませるかもしれないから。

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2 comments to...
“どこかで、だれかが”
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小橋昭彦

地球外生命探しに参加しようという方、「SETI@home」へどうぞ。ついでに「CONTACT Japan」というユニークな取り組みもどうぞ。ドレイクの式についての解説も含まれています。「SETI Australia Centre」なども参考に。


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ハマ

2001.8より解析に加わり72ユニット完了、最初はよくわからなかったが、参加して少しずつ理解しつつあります。
(未知との遭遇)のように信ずるものへのコンタクトを期待しています。PCは24時間フル活動中ですが、100万分の1ぐらいの貢献に過ぎません。




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 数学が好きだった。社会人になってしばらく、朝のひととき高校生向けの問題集を一問ずつ解いて過ごしていたものだった。たったひとつの回答に至るシンプルさが好きだったのかもしれない。 世の数学書ブームにおされて、ゼロをめぐる博物誌や無限を取り上げた書籍に手を出す。すごみがあるのはやはり無限の話。なにしろカントールにしろヘーゲルにしろ、無限に取り組んだ数学者は精神を病んでしまっている。人間関係ゆえか、無限に取り込まれたかはわからない。 紀元前5世紀、ゼノンがアキレスと亀のパラドックスを唱えたとき、そこに無限が隠れていた。先を行く亀に追いつこうとするアキレス。しかし亀のいたところまで来た頃には亀はさらに先に進んでいる。再びその地点まで達する間に亀はさらに先に進む。こうしていつまでもアキレスは亀に追いつけない。 無限に新しい世界を開いたのはカントール。彼の半生を読みつつ、自然数と偶数の個数が同じと知ったときの驚きを思い出した。1、2、3と続く自然数に対して、2、4、6の偶数は半分の個数のように思う。だけど1番目の偶数、2番目の偶数と無限に数えられるわけで、1は2に、2は4にと1対1に対応できる。つまり個数は同じ。さらには、線分と正方形も、線分と立方体も同等というのだから、常識がひっくり返る。 カントールはさらに無限にも階層があって、無限も無限にあると言っている。この無限と無限の関係を求めようとしてさ迷い、息抜きをしたかったのか、シェイクスピアはフランシス・ベーコンだという仮説を唱え証明しようと深く入り込み、やがて1918年に没する。 朝のひとときを数学の問題に割いていた日から10年あまり、答えに至るシンプルさより、無限の持つ不可思議に魅かれている自分に気づく。世の限りなさを知ったからか。田舎に帰って見上げる夜空は、いっそう深い。

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 定期購読している科学誌に「クジラが歩いていたころ」と題した特集があり、そういえばここ数年新しい発見が続いていたと思い出す。哺乳類であるクジラが魚のような姿になったことは、よく収斂(しゅうれん)進化の事例として取り上げられる。違った種であっても、環境が同じなら似た形態になるという進化のあり方だ。 海に入る前、クジラには足があった。現在の偶蹄目と近いとされる。ラクダやウシ、ブタなどが含まれる目だ。東京工業大学の岡田典弘教授らによるDNA分析によると、クジラにもっとも近いのはカバだという。かつての共通祖先から、まずラクダの仲間が分岐し、次にブタやイノシシ、そしてキリンやウシ、最後にカバ、クジラの順で分岐していったとか。 こうした進化の証拠となる化石は、岡田教授によるカバ仮説が発表されて後、2001年に見つかっている。古代のクジラ、ロドケタスの足首の骨がそれ。偶蹄類に共通した特徴が見られたのだ。もっとも、カバに近いといっても、ロドケタスは今のワニのような、なかなか恐ろしげな口をしている。 ロドケタスの体長は約3メートル。いまのシロナガスクジラは33メートルあるから、5000万年の月日をかけて足は退化し、巨大化してきたわけだ。ロドケタスの時代、インド大陸はまだ漂流中で、アジア大陸に衝突してヒマラヤ山脈という巨大な壁を作るのはさらに2000万年ばかり後になる。 国際捕鯨委員会の推定によると、シロナガスクジラはいま、南半球で400頭から1400頭頭と絶滅の危機にある。捕鯨禁止で同じ海域におよそ76万頭と急増したミンククジラの影響を指摘する向きもある。捕鯨の是非が、さまざまな主張が入り混じって混乱しているのはご存知の通り。 動物園でカバを見るたび、クジラのことを思い出す。そして、5000万年という年月のことを考える。ぼくたちは5000万年後、どんな姿に進化しているのか。そもそも生き残っているのか。するとカバはきまって大あくびをして、頭ばかり大きくなったぼくたちのことを笑うのである。

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