穴考
子どもと寄ったドーナツ店のトレイ敷に、ドーナツの穴の由来が書かれていた。いわく、米メイン州に住んでいたハンソン・グレゴリーという船乗りに起源があると。彼が子どもの頃、母親の揚げるドーナツの真ん中が生っぽいと文句を言ったことから、母親がドーナツの真ん中をくりぬいて作るようになったという。
ドーナツをかじりながらそれを読んでいて、映画『マルコヴィッチの穴』じゃないけど、「穴」が新しい発見、新しい可能性をもたらすことって、これまでもいろいろあったんだろうな、と想像していたのだった。
マカロニにも穴があるが、あれは乾燥させたり固ゆでしたりするのに便利なのと、ソースがからみやすいためだという。残念ながら起源はわからない。なにせスパゲティより古く、数百年以上の歴史がある。
ゴルフボールのディンプルはどうだろう。空気抵抗を減らして飛距離を伸ばすことが知られている。物資が少なかった時代、使い込んで傷ついたボールの方がよく飛ぶので、新品にもわざと傷をつけて発売するようになったのが起源という。
まて、そもそも人間のことを、口から排泄口まで続く穴だと言った人がいなかったか。それは極端にしても、壁と屋根に覆われた空間、つまりは穴に暮らすことを習慣としているとはいえそうだ。蛇口やガス管、コンセントの形状を思えば、ぼくたちは穴のおかげで生活できている気もする。
ことわざに、人を呪わば穴二つとある。あの穴は墓穴だという。呪いを受けて死んだものが入る穴ひとつ、呪ったもの自身が入る穴ひとつ。いやまったく、人を呪うものではない。
重力井戸という表現がある。重力がものをひきよせる穴とすれば、ぼくたちは地球という穴の底に住んでいる。同じ穴のむじなということか。
お父さん、行こうよ。子どもの声が思考を中断、ドーナツ穴をあとにする。子どもとのんびりできる、穴場だったかもしれない。見上げた空は広く、青い。
“穴考”