風のある迷宮
一般に混同されやすいけれど、迷路と迷宮は違う。迷路は言葉どおり迷い道だが、迷宮はそうではない。迷宮に分かれ道はなく、一本の道だけで構成される。その道は、ある図形のなかをくまなく埋め、迷宮を歩くものは必ずすべてをたどる構造になっている。
迷宮としてもっとも知られているのはクレタの迷宮だろう。牛頭人身の怪物ミノタウロスが閉じ込められていたもの。アテナイの王子テセウスは、迷宮の中心に行ってミノタウロスを倒したあと、クレタの王女アリアドネに渡された糸の導きで帰還する。神話にあるように、世界各地に残る迷宮図は、いったん中心にいき、再び出てくる構図になっている。
渦巻きを描く。中心部で折り返して、いま描いた線の間を通って外まで線を引く。この線を経路と考えれば、迷宮的な中心に達し再び出てくるという感覚が理解できるだろう。子どもの頃、そんな図から始まって、後には迷路図をよく描いていた。
長じて学生時代、「風のある迷宮」という戯曲を書いたことを思い出す。自らの進む道を模索する少年の物語。風を感じる以上は、きっと閉鎖空間ではなく出口があるのだという意味を込めたタイトルだった。けっきょく上演にいたらず、戯曲も迷宮入り。
ヨーロッパに芝生迷路として知られるものがある。あれも正確には迷宮だ。ヴェルサイユにも庭園迷宮があり、男女の散策者がよく利用したという。もっとも、恋の迷宮とでも言えばいいか、別の楽しみに利用されることしばしばだったようで、後に当局によって取り壊されることとなった。
迷宮には、ひとたび中心である死に向かい、よみがえって外周へ再生するという思想がこめられているという。ぼく自身、人生のなかでなんどか迷宮を描き、いまふたたび、コラムで触れている。自らの進む方向を模索するとき、迷宮に帰っているのか。それが、再生への道だから。
“風のある迷宮”