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ちょっと知的な雑学&トリビア

走る恐竜

2002年2月18日 【コラム
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 恐竜を扱ったヒット映画のおかげで、彼らが案外すばやい動きをしていたことが広く知られるようになったように思う。実際のところはどうなのか、英ケンブリッジ大の研究者らが推測し、発表した。
 英国南部のオックスフォードシャーの採石場で見つかった足跡化石を分析したもので、およそ180メートルにわたって続く足跡のうち、約35メートルが走った跡だった。恐竜の種類は残念ながらわかっていないが、ティラノサウルス・レックスのような2足歩行の肉食恐竜とみられている。腰までの高さ、約2メートル。
 発表によると、歩くときの足跡は、足場が悪かった可能性があるものの、左右の足が開いており、内またで歩いている。歩幅は約1.4メートル、時速7キロ程度と推定されている。一方、走り出したあとはつま先がまっすく前を向き、両足の幅もほぼ直線に近くなり、歩幅は2.8メートルと倍になっている。最高時速は約30キロと推定されている。
 時速30キロ。100メートル走にすれば12秒ということになる。恐竜時代に生きるとすれば、短距離走の練習をしておかなくてはいけないだろう。持久力についてはわかっていないが、せいぜい彼らの速度が長く続かないことを祈るほかない。同じ場所からは草食恐竜の足跡も見つかっている。さて、肉食恐竜はこの獲物を追って走ったのかどうか。
 彼らの生きた時代はジュラ紀中期、およそ1億6000万年前。ちょっといたずら心をおこして、肉食恐竜が時速30キロという速度のまま現在まで走り続けたら、どこまでいけるのだろうと計算してみる。桁が大きくなるので丸めると、4光年あまりと出た。太陽からもっとも近い恒星、プロキシマ・ケンタウリまでの距離をほんの少し超えたところ。
 全力疾走も1億年単位で続ければ、太陽系を離れ、恒星の世界に届く。南の夜空、ケンタウルス座付近を走るティラノサウルス・レックスの姿を空想し、スポーツは偉大だと、冬のオリンピック報道に目を戻すのでした。

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5 comments to...
“走る恐竜”
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小橋昭彦

ケンブリッジ大学の発表は「Dino feet leave their mark」で。論文は『Nature 415 494 – 495 (2002)』(要登録)に発表されました。


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西崎和子

恐竜が現在まで走り続けたとしたらケンタウルス座あたりまで行っているという、久々のスケールの大きな話、読んでいて夢がありとても楽しかったです。これからも楽しく、役に立つ情報を発信していってくださいね。


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小橋昭彦

ありがとうございます。じつはこの手の空想が大好きなのですが、ぶっとびすぎかな、とふだんは抑えていたりします。こうしてコメントいただけると、ほっとすると同時に、もうちょっとやってもいいかなって心強くなります。


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あらあら

こんばんは。
そうです、空想、連想大好きですので「もっと×2」
やってください。(どこかのCMで出ててような・・(笑))。
ことばあそびなども、これからもコラムにしてくださいね。


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小橋昭彦

うーむ、その後、昨日発売の「Nature 415」971に、「Walking with tyrannosaurs」という論文が発表されており、筋肉量を考えるとティラノサウルスは走れなかったとありますね。さて、真相は。




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 街角で見かけた『化粧師』という映画のポスターに「KEWAISHI」と読みがふってあるのに気づき立ち止まる。「けはひ」と書けば、「気配」に通じ、メーキャップにとどまらず、みずからをとりまく世界のあり方に広がる。そういえば、化粧品を意味する英語のcosmeticsにも、cosmos(宇宙)が隠れている。 調べてみると、江戸末期には「けしょう」はメーキャップを意味し、「けわい」は身だしなみすべてを含めた総括名称として使い分けられていたという。1813年に出された日本初の化粧専門書といわれる「都風俗化粧(けわい)伝」には、顔だけではなく手足や身だしなみまでにいたる細かいアドバイスが並んでいる。 江戸時代は化粧文化が花開いた時代でもある。1853年に江戸市中にいた女髪結の人数は1400余人。現在の都内の美容院数がおよそ1万5000店だから、人口比にすると江戸時代も今もほぼ変わらない。当時は遊女や役者が流行をリードしており、上流階級が情報発信源だった西欧と一線を画している。 化粧のルーツをさらにたどっていくと、平安中期以降、赤化粧から白化粧への移行があったことが目につく。縄文時代から、日本ではずっと顔を赤く塗る化粧が主流だったのが、白粉をつかった化粧に変わっているのだ。ひさしが長く薄暗い寝殿造りの建物内で、顔を美しく見せるためだったともいう。 化粧には自己隠蔽と自己解放の二面性があると、石田かおり著『化粧せずには生きられない人間の歴史』に指摘されている。しみを隠すとき化粧は隠蔽の役目を持ち、紅をひくことで高齢者の社会参加が促されるとき、化粧は自己を解放している。 化粧は「けはひ」、口紅を手にするとき人は、世界とコミュニケーションをはかっている。

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