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ちょっと知的な雑学&トリビア

なぜ、戦うのか

2001年7月19日 【コラム
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 1932年、アインシュタインとフロイトの間で交わされた有名な書簡がある。アインシュタインが国際連盟からの依頼に応じて行ったもので、彼が選んだテーマは、ヒトはなぜ戦うのか、だった。フロイトからの回答には、「人間から攻撃的な性質を取り除くなど、できそうにもない」とある。アインシュタインも、人間には闘争本能があると前提していたようだ。
 たしかに、当時はマクドゥーガルが理論化した人間の本能としても、逃走や拒否、性、模倣などと並んで闘争があげられており、闘争本能の存在は一般に信じられてもいたのだろう。しかし現在、闘争本能という言葉は日常的にはともかく、学問的にはほとんど使われない。動物行動学などの成果から本能そのものへの考え方が変化してきたことが背景にあるけれど、そもそも「人間が戦うのは闘争本能があるからだ」なんてのは、同語反復に過ぎないのでもある。
 映画『2001年宇宙の旅』には、原始時代から人間が集団間で争ってきたこと、そのために武器が作り出され、それが文明の発展につながったことを暗示するシーンがある。しかしじっさいは、個人的な争いはともかく、はじめから人間が集団間で「戦争」していたかというと、あやしい。日本でも「戦争」のはじまりは、農耕のはじまりと関係が深い。
 戦争の「考古学的証拠」としては武器、守りの施設、武器によって傷ついた人の遺骸、武器をそなえた墓、武器崇拝、戦いをあらわした芸術作品などがあげられる。縄文時代には、これらが見られることはほとんどない。岡山大学の松木武彦助教授は、戦争は渡来者とともに朝鮮半島からもたらされた「思想」だったと指摘している。
 そもそも、多くの人が傷つき倒れていくのを前に、本能だからしかたない、ではかなしい。闘争本能が人間社会を進化させてきたという表現だって、わかりすぎるだけに要注意か。どこかの政党CMじゃないけど、ほんとうに怖いことは、わかりすぎる表現の中に潜んでいるのかも。思考停止を招いちゃうもんね。闘争本能っていう言葉を、安易に使いすぎていたかもしれないと反省する。もっともっと、考えなくては。
 ぼくたちは、なぜ戦うのだろう。

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8 comments to...
“なぜ、戦うのか”
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小橋昭彦

アインシュタインとフロイトの往復書簡は『ヒトはなぜ戦争をするのか?』として刊行されています。戦争についての考古学的な検討については、コラムで紹介した松木助教授の『人はなぜ戦うのか』がたいへんおもしろいです。


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!)!)C

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ジュモン

なぜ戦うのでしょうかね0??
あるものと信じられていた“母性本能”すら危うい昨
今です。
“闘争本能”もあるところにはあり、ないところには
ないと思います。
猿だってチンパンジーは争うが、チンパンジーの仲間
ボノボは争わない。
こどもの頃、ジャングル=人食い人種が潜む。っての
がイメージだったけど、おとなになってワカッタの
は、戦わない人たち(武器も存在しない)が住んでい
るということ。

わが家ではボクは今ちょっとチンパンジーかも。
新iBookという物欲が、カミサんとの戦いの火種になり
そう00。


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nemota

4歳の子供は僕と「闘いごっこ」をするのが大好き。向こうはウルトラマンガイア、こっちはなぜかカネゴン(トホホ)でいつもやられっぱなし。保育園の友達が来た時、カネゴンは5人のウルトラマンと闘ったけど、はたからは「おやじ狩り」に見えたそう。

さて「これは闘争本能なのかな」とも漠然と思いながらも何か釈然としない感がありました。単に本能で片付けていいものだろうか。闘うのは「何かのため」じゃないかなと思うのです。願望を実現するための手段というか、子供の闘いごっこもウルトラマンみたいに「かっこよくなりたいから」なのでは? 
今、放映しているウルトラマンコスモスは怪獣をやっつけるばかりではなく、怪獣を保護、共生を志向している。子供の目にこの新しいウルトラマンはどう映っているのだろうか。

そうそう、本能といえば、昔ながらの「母性」に対しても最近では疑問を投げかけられていますね。


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第三市民

最近闘かわなくなりました・・・・・。
自己の正当性に自信がなくなったため?
体力が衰えたため?
老い先短いから臆病になったため?
どうも全て違うような気がします。

多分原因は、人間に対する失望でしょうね。
身体を張って守るものがなくなったから、本気で闘うのが無意味になった。
でも毎日「苛々」はしますね。
残り火なんでしょうか、まだ枯れきっていない何かが「熱い何か」が私をつつくのです。


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てるまる

諦める事が気に入らないから、闘います。


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アン

弱肉強食本能説、というのはどうでしょう?
私の知人に限っていえば、相手が自分より弱いと感じると、
豹変する人々が結構います…。

いじめが連鎖反応だったりするのも、関係あるのかなぁ。


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ぱむぱむ

DNAが戦えと命令する。
自分自身が生存するために生存環境を脅かす存在を消去しようとする。だから、脅威が減ると戦意も喪失する。殺しすぎると愛と平和に目覚め、長く平和が続き居場所が少なくなると戦意が昂揚する。人間の歴史を見ても、この繰り返し。動物も自分のテリトリーが減り脅威を感じると他を攻撃する(分かり易い?)。動物が他を脅かすことも、自分あるいは自分のコピーである子孫を守る「愛」によるもの。「愛は地球を救う」いや「愛は地球を滅ぼす」、人の愛?によって人は医療を発達させ寿命を延ばし、地球のサイクルを壊しつづけている。人は愛という名の欲望をほとばしらせ、神のつくり給うた生と死の摂理に挑戦しバランスを崩し続ける。。
ウーン・・・・・こんなんで映画創れないかな。
ゆうべは暑くて寝苦しかったッス!




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 近所のホームセンターが改装して、ペット売場もある大きな店になった。買いものついでに、ほかでは見ることのない、ペット売場をのぞく。「わんちゃんや、ねんねしてるね」。子どもは喜んでケースの前にしゃがみこんでいる。そのケースに値札が貼られているのを、彼は知らない。 動物にいのちだけではなく値段もあるのだというこの事実は、いつもぼくをとまどわせる。その値段は、愛情の価格なのか、単なる商品価格なのか。この価格あるゆえに、動物を愛する人への流通が促進されると考えると有益なのだけれど、密猟を生んでいるならかなしい。この「ずれ」の感覚はなんなのだろう。 宮崎市にある自然動物園を市が買収することになり、動物一体一体につけられた価格が公開された。もっとも高いのはオランウータンで、11歳メスの価格が500万円。ワシントン条約で国際的な商取引が規制されており、入手は困難。それゆえの高値だとか。子どもたちの人気者、マサイキリンは9歳メスが220万円。ライオンは、オス、メスとも8万円。百獣の王かたなしだけれど、繁殖しやすいし、えさ代がかかるから安くなるという。 値段をつけられる動物ってどんな気持ちなのだろうと、自分に値段がつくことを想像する。これは奴隷の売買と同じなのかと寒くなり、それから、いや違う、プロ・スポーツ選手の移籍金か、と思いなおす。チームを活性化し、観客に夢を与えてくれるなら、高額の移籍金も納得できる。 これは、動物ではなく、夢の値段なのか。

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 あれはたしかベーブ・ルース伝を読んだときだったろうか。豪傑さを紹介するエピソードとして、寮に朝帰りした話が紹介されていた。見回りにばれないよう急いでベッドにもぐりこんだものの、靴をはいたままだったのでばれてしまった、というオチ。いくら急いでいるからってベッドまで靴で行くなんてと、ずいぶん不思議だった。まだ子ども、洋風家屋では室内も靴のままなんて知らなかった。 室内で靴を履くといえば、大学に入ったとき、靴のまま教室にあがることが高校までと違っていて新鮮だった。なんでも大学は、日本に導入された当初から外国人教師を招いたり、西洋式の校舎を建てたりして、欧米風を目指すという原則があったからという。 旧制中学、現在の高校も大学を真似ていたので、もとは上履きがなかった。その後小中学校式に変わっていくが、いまでも伝統校では上履きがないところが多いようだ。 一方、明治時代にはじまった初等教育は、はじめ寺などを使っていたため、玄関で靴を脱ぎ、夏は素足、冬は足袋や草履をはく習慣だったという。この習慣が、その後洋風の校舎が建てられたあとも引き継がれていく。そもそも雨の多い日本では、下足のまま校舎に上がると汚れてしまうという事情もあった。 最近ではゴム地の校庭が登場した関係で靴が汚れることも少なくなり、上履きをやめる学校も出てきている。ズック型の上履きは1910年代に登場したようだけれど、考えてみれば広大な下駄箱スペースというのも、上履き文化ゆえの校舎の特色ではあった。 上履きが消えて、下駄箱が消える。さて、とするとラブレターはどこに入れればいいのか。というオチも、そのうち通じなくなるのかなあ。

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