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ちょっと知的な雑学&トリビア

沈黙のらせん

2005年9月01日 【コラム
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 マス・メディアは少数意見の代弁者になっていくべきじゃないかな。そんなことを口にして、マスと少数という言葉の組み合わせゆえだろう、驚かれたことがある。ある出来事に関して、個人を責めるかのような風潮が世の中をおおった頃のこと。世間にはときどきそういうことがあって、ある意見が主流であると感じられると、反対意見が口にされないまま、どんどん広がり目立つようになる。
 沈黙のらせん、とそれを呼ぶ。1965年の旧西ドイツ連邦議会選挙を分析した政治学者ノイマンが立てた仮説だ。人は、自分の支持する意見が多数派あるいは支持増大中と思われるなら迷わず口にするが、異なると思われれば沈黙を守る。これが繰り返されることで、多数派がいっそう顕在化する。この仮説をふまえれば、今の支持政党ではなくどの政党が勝つと思うかと問うほうが、選挙結果に近い予測ができるという見方もある。
 人は、多数派に流される。それは、1950年代にアッシュが行った心理学実験で確かめられた傾向でもあった。この実験で被験者は、明らかに正しいと思われる回答でさえ、同席のサクラたちが口を合わせた偽りの回答に影響されて、口にしなかった。ヒトという生物が、原始より一匹狼でいるより集団で暮らした方が生き残りやすかっただろうことをふまえると、多数派に協調する心理が現代人の多くに持たれているのは当然ともいえる。
 自分の表明した意見への応答が直接伝わるネット上では、少数意見は居づらい。増大する意見をさらにあおる「祭り」もある。それにマス・メディアがひきづられると、世の中の風景が単調になる。それへの懸念が、冒頭に紹介した発言につながったわけだ。自分たちが今、沈黙のらせんに陥っていないか、ぼくたちはつねに自覚的であらねばならない。らせんを抜け出すひとつの方法は、選択肢は白か黒だけじゃなく、多様にあるのではないかと問いなおすことだ。

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12 comments to...
“沈黙のらせん”
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小橋昭彦

マス・メディアの影響については『マス・コミュニケーション効果研究の展開』がいい教本となっています。ご参考にどうぞ。

ちなみに、選挙の「予測」市場しては、「The Iowa Electronic Markets」が有名ですね。今回の総選挙では「総選挙はてな」が話題。


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トクツトミオ

久しふりに書き込みます、
多数派(マジョリテー)VS少数派(マイノリテー)の問題は?政治(多数党派)?経済(市場経済学派、エントロピー経済学、厚生経済学、環境経済学)に加えて?文化の問題もあります、古典的な音楽の世界のオペラ歌手はいまやマイノリテー蛾世界を折檻していてオセアニア出身叉はカラードの歌手全盛時代です(例キリテ・カナワ=ニュージーランド原住民キャスリーン・バトル=黒人・アンドレア・ポエッチェリ=盲人)等です、無論政治経済分野と異なり文化領域は本来多様・多岐・多種・多体であることで保存性を保障されてきたのですからね、でわまた、


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Graucho

確かに、日本の新聞は多数迎合主義ですね。
ただ、選挙についての投票者行動ですが、これだけ自民有利の論調になると安心効果で投票所に行く人が減り民主あたりが善戦するような気もします。


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六道十界

毎回「うーん」とうなってしまいます.
私には学問的な知識はなく,単に興味本位で色々な本を読み漁ってきました.今回の記事に絡んで印象深かったのは故アーサー・ケストラーの「機械の中の幽霊」,「ホロン革命」です.この「沈黙のらせん」を読んで「人間の精神的進化」は本当に生じているのかな,と考えさせられます.知識が増えてるだけじゃないの…と.自然科学がその要素還元主義を自己否定し始める中で,自然科学を猿真似してきた各種社会科学的学問分野が今も人間機械論から離れることがないという分裂症的な時代にいると感じました.


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高石勝美

確かに、少数意見の埋没は、特に総官僚・島国・共産修正主義の日本では、日々感じております。
特に、この愛媛県では,際立っております。
東南アジアに出張時、現地(この表現も間違っていますね)の日本人曰く、早く日本を離れなさいと。
やはり、教育改革です。家庭、学校、自治体(社会)
全体で考え、個々対策の具体化を図り、生まれてから
甘えない、人に頼らない、我慢する、情けをかける、躾をスパルタ指揮、また学校では、円卓を囲んで
個々の意見を活発に発言させる週間を3歳程度から教育する必要があります。
以上。


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小橋昭彦

>「人間の精神的進化」は本当に生じているのかな
確かに。
進化をどうとらえるかにもよりますが、少なくとも、何かが発展し続けるという考え方は、近代に特有のものですよね。進化というのは本来「発展」といった考え方は含まず、結果的に適応する、というもの。
そう考えれば、ぼくたちにできるのはせいぜいどんな世にも適応できるだけの多様性を残しておくことだろうと。世の中がそうした多様性を失わせる方向に向っているとしたら、「進化」という意味ではむしろ悪い方向かもしれません。


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tom

○私は天邪鬼なので人と違う意見を言う事に快感を感じます。ですから、この説はピンと来ませんね。ただし、もしある議論について、私がよく知らない、または関心が低い場合、大勢に従う可能性は高いと思います。今回紹介されている仮説は、『自分がよく知らない事について・・。』という前提が付かないのでしょうか?
○螺旋を抜け出す方法の一つとして『議論に正解を求めない。』というのも有ると思います。人(特に日本人)は間違う事が恥ずかしいので安全な多数派に同調しやすいのではないでしょうか?例えば、安楽死のように、一概に正解を求める事が出来ない事例について多く議論する事によって、世の中には絶対的な正解が有る事の方が少ないのだという認識が育まれると良いかなと思います。(大まかに言うと多様性を認める事と同じかもしれませんが・・。)


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小橋昭彦

>『自分がよく知らない事について・・。』という前提が付かないのでしょうか?
これはつかないんです。アッシュの実験のように、眼で見てあきらかなのに他者の間違った答えにあわせるケースがあります。
ただし、沈黙のらせん仮説は、もともと二者択一を前提にした仮説なので、そうでない場合は、慎重な議論が必要でしょうね。正解を求めない、というのも、すてきなアプローチ。課題から逃げちゃだめですが、プロセスを共有することは、とても重要だと思います。


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yama

物事には白と黒意外にも、多面的な見方があるという指摘はそのとおりだと思います。自分の意見も、かなり、白か黒かで固定されているような気がします。それ故、他の人の意見を聞き、考え方を受け入れていく習慣が必要で、その訓練を重ねることで、物事の本質がみえ、謝った判断は削減できるのではないでしょうか。マスコミは最初から主張があるから、人の意見もいいとこ取りなどということが行われるのでしょう。多様な意見を紹介し、視聴者に考えさせる。そういう姿勢が大事なのでは。


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naka

マスメディアはあくまでも出力がマスであって、入力がマスであるとは限らない。あの、侵略、進出問題もただ一人の空想がマスメディアを通っただけで、事実になったわけです。
マスメディアの代弁者という言い方はまずいのではないでしょうか。代弁したとたんにそれはマスメディアの意見となり、少数意見でなくなると思います。少数意見は少数意見として事実を報道するのがメディアの役割だと思います。


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小橋昭彦

nakaさん、なるほどです。代弁者という表現は確かに少し違和感がありますね。
マスメディアに、沈黙のらせんを断ち切る力を期待している部分があります。数が多い、声が大きいことが価値ではなく、小さな声を拾い上げるためには、別の基準が必要になるかと。それが主観性のある「代弁者」という言葉を選ばせました。


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小橋昭彦

すみません、『沈黙の螺旋理論―世論形成過程の社会心理学』訳者である池田先生から、冒頭コラムで紹介している「政治学者ノイマン」について、「ノイマン」ではなく「ノエル=ノイマン」が正しいとご指摘いただきました。「もともと『ノエル』さんだったのが、結婚したので連結したものです。」ということです。ドイツでは名前がそのように続くことがあるのですね。たいへん失礼しました。そしてありがとうございました。




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 ヨーロッパの精神病院は監獄から出発し、日本の病院は寺院から出発したと、『日本精神病治療史』にある。日本では社会の態度が緩和であった証拠ではないかと、著者の八木氏が指摘している。江戸期の精神医療は現在からみても高い水準にあったという。 江戸時代のこころの病といえば「きつねつき」などが多かった様子。今ではまず見られないけれど、それはある同じ症状を別の名で呼ぶようになったということではなく、実際に、病が変わってしまったということらしい。こころの病は時代と密接に関係している。 現在においては、うつ病対策が大きなイシューになっている。うつ病を含む気分障害の総患者数は増加傾向と厚生労働省の資料にある。社会学者の鈴木謙介氏は『カーニヴァル化する社会』で若い人にうつ状態が増えていることを労働問題とからめて論じ、「理想」という遠い目標に躁的に向いつつ、ふと冷静になった瞬間にうつ状態に陥る自身の経験を述べている。「理想」に実体はない。ぼくたちはただ理想を追うことを理想とし、ふと冷めたとき、理想郷への途上ではなく、出発点に立ったままの自分に気付く。 精神科医のなだいなだ氏は、1978年の著書で自分をものさしにすることは不確定なことで、それを確定したものとみなそうというのがうつ病的状態だと指摘している。だとすれば自己決定が言われる今、ぼくたちはうつ病的時代に生きているということかもしれない。なだ氏はこうも指摘している。病とは、時間の流れのなかで瞬間を切り取って、相対的にみて「ずれ」を指摘した状態にすぎないと。だから本来なら、患者ではなく社会の側を治すことこそ「治療」かもしれないと。 阪神淡路大震災でPTSDが注目され、「心療内科」という科名が認可されたのが1996年。こころが操作できるかのように扱う心理系娯楽番組も増えた。そんな「こころの時代」にあってぼくたちは、ほんとうのこころをつかみかねているようだ。

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