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ちょっと知的な雑学&トリビア

音楽と人類

2005年7月07日 【コラム
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 音楽はぼくたちにとって何なのだろう。ある研究者が言うように、チーズケーキのように好みの問題なのか。ノーマン・D・クック教授による実験がある。「宝くじで10万円が当たった」といった喜びや「探したけれど、見つからなかった」といった悲しみの表現を、感情を込めて読んでもらう。そのピッチを半音階単位でグラフ化したところ、喜びの文章を読んだときにはBメジャーの和音にあたる部分に、悲しみの表現の時にはBマイナーの和音にあたる部分に山があったという。逆に、クラシック音楽の作曲家を調べた研究では、音楽は母語のトーンの影響を受けているという報告もある。コミュニケーションにおける、音楽的要素の役割を考えさせられる。
 北米と東インド諸島に住む母親たちに、自分の赤ちゃんがいるときといないときで同じ歌を歌ってもらい、その録音を第三者に聞いてもらった実験では、第三者は、母語が何かに関わらず、どちらが赤ちゃんの前で歌っているか、正確に言いあてられたという。赤ちゃんを前にした母親の歌には、共通するなにかがあるようだ。そして、聞くほうの赤ちゃんも、音楽のテンポやリズムの変化に気づくことを、いくつかの研究が裏付けている。6ヶ月にならないうちから、不協和音より協和音を好むという報告もある。
 モルモットを利用した実験によると、特定の音が重要であることを電気刺激などで教えると、神経細胞が敏感に反応する周波数がその信号音に近づくという。脳の応答はある意味「調律」できることになる。
 奈良教育大学の福井一氏によると、音楽を聴いたあとの唾液テストステロンの分泌を調べたところ、男性の被験者で有意に値が下がったという。音楽は、性欲や攻撃性を弱めるということか。原始において、歌わずけんかばかりした集団と、歌うことで連帯した集団があり、後者の方が生き残ってきたと想像することは、「音楽は国境をこえる」という言葉につながって、魅力的だ。

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5 comments to...
“音楽と人類”
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小橋昭彦

なんだか今回は実験報告のオンパレードになっちゃいました。

音楽は耳で味わうチーズケーキだ、とはスティーブン・ピンカー教授の言葉。氏の『人間の本性を考える』などはまたあらためて取り上げたいところです。

ノーマン・D・クック教授による実験報告は、『感性情報学』内に所収。クラシック音楽家の調査は、Patel A. D.と Daniele J. R.によるもので「An empirical comparison of rhythm in language and music.(Cognition 87. B35 – B45 (2003))」です。「Music mirrors tone patterns in our speech」などの記事をご参考に。

また今回、日経サイエンスの「脳を揺さぶる音楽」を参考にしました。母親への実験は、Laura-Lee BalkwillとWilliam F. Thompsonによるもので「A Cross-Cultural Investigationi of the Perception of Emotion in Music(1999 Music Perception 17 pg. 43-64)」です。「When sitar meets guitar」といった記事もご参考に。赤ちゃんについての実験は、Sandra Trehubによるもの。

モルモットによる実験は、「Norman M. Weinberger」らによるものです。「福井一」氏による研究は「音楽聴取がテストステロン分泌に及ぼす影響」をご参考に。

その他、各種情報をまとめた「MUSICA」や「人間の条件‐脳と言語、そして音楽‐」や、「The Genetic Mystery of Music」なども参考になります。「日本音楽知覚認知学会」というのもあるのですね。


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とんとん

メールで流れてきたのの「まずはゲストコラムをお楽しみください」を今日のコラムかと思って読んでました。
なんか宣伝っぽいなあと思ったら広告でしたが(^^、「的を得たおせっかい」なんてキャッチフレーズを使ってるようじゃだめだめですねー。
#射なきゃ


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ぽー

音楽って良くも悪くもすごい力があるんだなー。って思いました。


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tom

色にも『暖色』や『寒色』が有るように、音にも人間に心地よい音や気持ちの悪い音が有っても不思議ではない気がしますね。
ペットを見れば何処産の犬や猫でも同じ様に鳴いているように聞こえます(実際は違うのかもしれませんが)。
言葉を使わない原始的なコミュニケーション手段になればなるほど国際的な汎用性は増す事になるのでしょう。
ちょとお話とは逆になってしまいますが、中国の『お葬式の曲』は『君が代』そっくりなのです。中国人では君が代を聞くと悲しい気持ちになる人が多いようです。
こちらは、音に人間が後から意味づけをした例なのでしょう。


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けん

良く音楽を聴いて楽しくなったり悲しくなったりしますが、歌付きで歌詞の内容が判るものほど悲しみや喜びの程度が深くなるような気がします。歌詞の内容を頭の中でイメージ化してメロディが増幅するのかなと思います。
と、ゆうことはメロディだけで感じられる喜びとか楽しさは、より純粋な感情を引き起こしているとも言えるのじゃないでしょうか?
ふと、思いつきました。




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 リアルとまぼろしの境界。ノースウエスタン大学の研究者らが昨年発表したひとつの実験結果がある。被験者に磁気共鳴画像装置に入ってもらい、単語リストを見せながら、それぞれの単語が表すものを思い描いてもらったもの。なかには実際にその写真を見せる単語と、想像だけしてもらう単語がある。その後、写真を見たかどうかを答えてもらう。 以前紹介した、誤った記憶の実験を覚えていらっしゃるだろうか。事故の映像を見せた後、ガラスは割れていたかと聞くと、「衝突したとき」と聞くより「激突したとき」と聞いたときの方が「割れていた」と誤った答えをする人が多かったというものだ。人の記憶は、たやすく組み変わる。今回の実験でも、被験者は写真を見たと誤って答えたケースがあった。そして誤って記憶していた事例では、実際にイメージを作り出すのに関わる脳の領域が活性化していたのだ。つまり、脳にとっては、誤って写真を見たと記憶している単語も、実際に見た単語も、この時点では変わりがない。 関連して思い出した話にミラーニューロンがある。サルでの観察結果をもとにリゾラッティらが1996年に発見したもので、バナナの皮をむくなど、ある行動をサルが見ているときに活性化する。おもしろいのは、実際に自分がバナナの皮をむくときにも、同じ箇所が活性化していること。つまり、自分が実際に行った行為と観察だけした行為が、ミラーニューロンで重なっている。 誤った記憶やミラーニューロンのことを思うとき、ぼくはいつも想像力の偉大さに畏怖の念を抱く。アスリートがイメージトレーニングを行うとき、彼・彼女はまさにその競技を「リアルに」体験しているのだろう。ならば他者の記憶違いを単純に責められるだろうか。正しい過去というまぼろしを追うより、これからどうするかに目を向けたほうが有意義な場合もある。アスリートがイメージトレーニングのあと立つリアルなフィールドに、人生をかけるように。

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 あるイベント会場からの帰り、友人と進化についてのとらえ方の話になった。たとえばキリンの首が長いのは、一般には「高い木の葉を食べるため」と考えてしまう。しかしそう表現すると、キリンに首を長くする意思があるように受け取れる。 実際には、こう考えた方がより「進化」の本質に近い。まず、突然変異によって首の長いキリンが生まれる。世の中には首の短いキリンもいて、それぞれ子孫を作っていく。しかし、首の長いキリンの方が多くの木の葉を食べることができるため、子孫を残す確率がより高くなった。こうして何世代かあとには、首の長いキリンが優勢になる。それが自然選択。キリンが高い枝の葉を食べるために首を伸ばしたわけではないのだ。 擬人法については以前にもふれたことがあるけれど、人はものごとに「意思」を感じとる傾向があるし、それが世の中に詩的な美しさを与えている側面もある。しかし一方で、たとえば進化の場合なら、意思を見るより結果としての現在と見たほうが、時間の積み重ねのダイナミックさを感じられないだろうか。 ところでここに、センダックの絵になる絵本がある。子どもたちに物の定義を尋ねた結果を絵にしたものだ。この本は、動と静についてまた別の観点を教えてくれる。あなたは「穴ってなに」と尋ねられると、何と答えるだろう。平面にうがたれた空間とか、地面のくぼみとか、そんな答えをするかもしれない。子どもたちはどう答えているか。穴は「掘るもの」であり「落っこちるところ」「隠れるところ」だという。そう、彼らは自らを主体とする動詞形でものごとをとらえている。それは、ものごとを静的にとらえてしまう自分の癖に気付かせてくれ、絵本を読むたびぼくは、自分はいま世界と動詞形で関わっているだろうかと、問い返している。 自然の営みを静かにそのままうけとめ、一方で世界に対して身を乗り出して動詞的に関わっていく。この振幅の中に、日々の楽しさがある。

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