<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?>
<feed xmlns="http://www.w3.org/2005/Atom">
   <title>ざつがく・どっと・こむ</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://zatsugaku.com/" />
   <link rel="self" type="application/atom+xml" href="http://zatsugaku.com/atom.xml" />
   <id>tag:zatsugaku.com,2008://7</id>
   <updated>2008-05-08T21:52:51Z</updated>
   <subtitle>雑学＆トリビアを楽しもう！　by　小橋昭彦</subtitle>
   <generator uri="http://www.sixapart.com/movabletype/">Movable Type 3.35</generator>

<entry>
   <title>怪しい科学の見抜きかた―嘘か本当か気になって仕方ない8つの仮説</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://zatsugaku.com/archives/2008/05/8.html" />
   <id>tag:zatsugaku.com,2008://7.1109</id>
   
   <published>2008-05-08T21:52:31Z</published>
   <updated>2008-05-08T21:52:51Z</updated>
   
   <summary> 　まずは副題にある８つの仮説を並べておこう。 　ゲイは遺伝である 　世界は神が設計した（インテリジェント・デザイン説） 　人間は昔よりバカになっている 　念力で物を動かせる 　地球温暖化は心配することない 　宇宙に複雑な生物はいない 　偽薬でも病気は治る 　コレステロールを気にする必要はない 　嘘か本当か気になって仕...</summary>
   <author>
      <name>小橋昭彦</name>
      <uri>koba.html</uri>
   </author>
         <category term="books" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://zatsugaku.com/">
      <![CDATA[
<iframe align="right" src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=aaaaaaaa-22&o=9&p=8&l=as1&asins=4794216629&fc1=000000&IS2=1&lt1=_blank&lc1=5E7EB2&bc1=FFFFFF&bg1=E8E6DE&f=ifr&nou=1" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="2" marginheight="2" frameborder="1"></iframe>

　まずは副題にある８つの仮説を並べておこう。

　ゲイは遺伝である
　世界は神が設計した（インテリジェント・デザイン説）
　人間は昔よりバカになっている
　念力で物を動かせる
　地球温暖化は心配することない
　宇宙に複雑な生物はいない
　偽薬でも病気は治る
　コレステロールを気にする必要はない

　嘘か本当か気になって仕方ないかどうか、これは人によるだろう。少なくとも日本人にとって、最初の二つはあまり気にならないのではないか。
　ことに２番目の仮説は、アメリカではこれがマジメに論争になっていて、教育現場でも激論が交わされ、ひょっとすると（皮肉にも）科学に対する関心を高めるきっかけにもなっているようなのだけれど、日本では進化論を疑う人はあまりいないだろう。

　これら８つの仮説について、ロバート・アーリックは0から4までの「インチキ度」をつけている。０だとインチキじゃない。４はまったく疑わしい。
　再掲しよう。

　ゲイは遺伝：（同性愛は生得的であることについては）０
　ID説：３
　バカになっている：２（賢くなっているについては１）
　念力：４
　地球温暖化：１
　宇宙人不在：２
　偽薬：０
　コレステロール：２

　それぞれの詳細な解説は本書を楽しんでいただきたい。
　少しだけ、注意点を。

　今話題になっている地球温暖化を心配することはないという結論にインチキ度１とある。しかしこれは、地球温暖化が起こっていないということではない。
　温暖化が進んでも、先進国にとっては利点となるという観点がひとつと、それでも不利な点があるなら、今からコストをかけるより、それが明らかになってからでも間にあうという立論に納得性がたかいことから、心配することはないという説にアーリックはポイントを与えている。

　これが、本書の基本姿勢だ。
　アーリックは、総論ではなく、その説の立脚しているデータに基づき、正しく科学的な視点で立論されているかを重視しているのだ。
　だから、ある仮説の立論が疑わしいことが、そのまま対立する仮説の証明にはならない。「賢くなっている」「バカになっている」どちらもそれなりにインチキ度が低いように。

　語り口はある程度専門的であり、タイトルほど軽く読める本ではない。
　しかしその分、読者は、科学的立場というものがどれほど厳密であるべきなのか、本書から学び取ることができるだろう。
]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>大気の海―なぜ風は吹き、生命が地球に満ちたのか</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://zatsugaku.com/archives/2008/05/post_784.html" />
   <id>tag:zatsugaku.com,2008://7.1108</id>
   
   <published>2008-05-01T05:17:13Z</published>
   <updated>2008-05-01T05:17:37Z</updated>
   
   <summary> 　なんて印象的なプロローグだろう。 　ニューメキシコ上空、3万1000キロメートル、1960年8月16日。与圧服に穴があけば、たちまち血液が沸騰してしまう、薄い空気の中。 　ジョセフ・キッティンガーは、この危険に満ちた領域に一人浮かんでいた。 　もっとも、彼の上空約80キロメートルのところには電離層があって、彼を致死...</summary>
   <author>
      <name>小橋昭彦</name>
      <uri>koba.html</uri>
   </author>
         <category term="books" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://zatsugaku.com/">
      <![CDATA[
<iframe align="right" src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=aaaaaaaa-22&o=9&p=8&l=as1&asins=4152088931&fc1=000000&IS2=1&lt1=_blank&lc1=5E7EB2&bc1=FFFFFF&bg1=E8E6DE&f=ifr&nou=1" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="2" marginheight="2" frameborder="1"></iframe>

　なんて印象的なプロローグだろう。

　ニューメキシコ上空、3万1000キロメートル、1960年8月16日。与圧服に穴があけば、たちまち血液が沸騰してしまう、薄い空気の中。
　ジョセフ・キッティンガーは、この危険に満ちた領域に一人浮かんでいた。
　もっとも、彼の上空約80キロメートルのところには電離層があって、彼を致死的なX線から守ってくれている。さらに上空には、何万キロメートルという距離まで地球の磁場が及んでいて、吹き荒れる太陽風から守ってくれている（ちなみに、スペースシャトルの高度はおおむね300キロメートル台だから、かつて人類で、地球の磁場の外に出たのは、アポロで月に向った宇宙飛行士だけだ）。

　さて、キッティンガーは旅を＝自由落下を＝始めた。

　高度1万8000キロメートルまで落ちたあたりで、気圧は服に穴があいてもいいレベルまで上がる。気温はマイナス70度以下。高度1万メートル。エベレストの高さ。
　けっきょく、ぼくたちが「大気」として実感できるのは、ここから下に過ぎない。雲に入り、パラシュートが開く。
　13分45秒後、キッティンガーは地上に降り立つ。

　ウォーカーが描くのは、キッティンガーが「旅」したこの空間についてだ。ふだんは気にとめない、大気という空間。

　空気の重さを量ろうとした人々の挑戦を、ウォーカーはガリレオから書き起こす。
　大気が、酸素や炭素といったさまざまな要素から構成されていることを発見した科学者たちの姿を活写する。
　貿易風や偏西風の発見をコロンブスから語り起こし、その原理の発見（フェレル効果＝コリオリと一般に呼ばれているが、実際に貢献したのはフェレル＝や、ハドレー循環）について述べる。
　ここまでが第一部で、いわばこれが副題にある「なぜ風は吹き」に対する回答だ。

　第二部では、「なぜ生命が地球に満ちたのか」に関する回答が示される。
　モリーナとローランドによるフロンによるオゾン層破壊の発見（と社会的な無視）、マルコーニの無線と電磁波、そして宇宙への道にあるヴァン・アレン帯の発見。

　それはなんて魅力的な語り口だろう。

　ぼくたちはふだん、大気の存在について意識することは少ない。しかし、そのなかに、これほど多様な視点があり、これほど生き生きとした人々の挑戦があったとは。

　ウォーカーは、これら「大気」に関する物語を、ひとりひとりの科学者に密着し、まるでその時代に生きて見てきたかのように物語る。
　その語り口に、ぼくは魅入られ、読み進めていった。

　それはどこか、風の音を聞きながら走り抜ける経験に似ていた。
　あるいは、30キロメートルを自由落下した、キッティンガーの経験に。

　あなたもぜひ、この自由落下を味わってほしい。]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>鳥にとっても匂いはだいじ</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://zatsugaku.com/archives/2008/04/post_783.html" />
   <id>tag:zatsugaku.com,2008://7.1107</id>
   
   <published>2008-04-29T01:05:28Z</published>
   <updated>2008-04-29T01:05:28Z</updated>
   
   <summary>Birds Can Detect Predators Using Smell The use of smell to detect chemical signals can be useful for birds in various situations, such as feeding and orientatio...</summary>
   <author>
      <name>小橋昭彦</name>
      <uri>koba.html</uri>
   </author>
         <category term="clips" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://zatsugaku.com/">
      <![CDATA[<div class="quotebody"><a class="quotetitle" title="Birds Can Detect Predators Using Smell" href="http://www.sciencedaily.com/releases/2008/04/080427233813.htm" target="_blank">Birds Can Detect Predators Using Smell</a>

The use of smell to detect chemical signals can be useful for birds in various situations, such as feeding and orientation. However, they can greatly increase their chances of survival if they can tell whether or not the smell they have detected is associated with a predator.</div>

そういえば、鳥が匂いによって敵を察知したりという考え方は、あまりしないね、ぼくたち。でも、実際には、鳥も匂いを活用している。]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>恐竜はなぜ鳥に進化したのか―絶滅も進化も酸素濃度が決めた</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://zatsugaku.com/archives/2008/04/post_782.html" />
   <id>tag:zatsugaku.com,2008://7.1106</id>
   
   <published>2008-04-26T07:39:16Z</published>
   <updated>2008-04-26T07:39:59Z</updated>
   
   <summary> 　生命が陸上にあがるにあたって、酸素濃度が関係していたという説を知ったとき、深く納得したのを覚えている。 　およそ４億年前、それまであった３つの大陸がくっついてローラシア大陸が形成された。これによって大陸に囲まれていた内海が消滅、硬骨魚は淡水域（大陸衝突が形成した山脈が雨を降らせ、淡水域を拡大していた）に逃げ込む。 ...</summary>
   <author>
      <name>小橋昭彦</name>
      <uri>koba.html</uri>
   </author>
         <category term="books" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://zatsugaku.com/">
      <![CDATA[<iframe align="right" src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=aaaaaaaa-22&o=9&p=8&l=as1&asins=4163699600&fc1=000000&IS2=1&lt1=_blank&lc1=5E7EB2&bc1=FFFFFF&bg1=E8E6DE&f=ifr&nou=1" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="2" marginheight="2" frameborder="1"></iframe>

　生命が陸上にあがるにあたって、酸素濃度が関係していたという説を知ったとき、深く納得したのを覚えている。
　およそ４億年前、それまであった３つの大陸がくっついてローラシア大陸が形成された。これによって大陸に囲まれていた内海が消滅、硬骨魚は淡水域（大陸衝突が形成した山脈が雨を降らせ、淡水域を拡大していた）に逃げ込む。
　ところが淡水域は低酸素だったため、酸素を効率よく取り込むために、食道が肺に変化したというシナリオだ。
　それに先立つ、浅海で海草をかきわけるヒレの発達が足につながったという説を含め、生命による地上進出の準備（足と肺）のいずれもが、適応の中で生まれ、結果として役立てられたというストーリーに、説得力を感じた。

　本書は、生命の陸上進出だけではなく、その他の進化や幾度かの絶滅も、「酸素濃度が決めた」と物語る。

　ウォードは冒頭に、印象的なエピソードを記している。
　ヒマラヤ大山脈を超えていくインドガンの群れ。人間では酸素マスク無しでは苦しい高空を、彼らはなぜ悠々と飛ぶことができるのか。
　インドガンが酸素を有効に取り込むことができるのは、鳥の肺システムが効率的にできているからだが、問題はそれがなぜなのかだ。従来は、飛翔エネルギーを得るため、と説明していた。

　しかし、鳥が恐竜から進化したという知見を踏まえれば、説明はもっとスマートになる。鳥の肺システムは、彼らが飛ぶ以前から効率的にできていた。なぜなら、彼らの祖先（つまり恐竜）が肺システムを獲得した時代には、酸素濃度は現代より低かったのだ。
　ということは、むしろ肺システムの効率があったからこそ、鳥類は飛ぶというエネルギー消費の大きな行為ができるようになったとも言える。この説明は、飛ぶために肺システムが進化したという見方より、自然ではないか。

　整理しておこう。
　生命の歴史は、いわゆる「カンブリア大爆発」を境に多様性を増した。それに先立つ先カンブリア時代のうち、生命の誕生は約40億年前だが、始生代（46億年前?25億年前）の大半を、生命は細菌や単細胞生物として過ごす。この間に光合成を獲得した生命が、酸素を地上にもたした。
　これによって、続く原生代（25億年前?5.4億年前）、大気の酸素濃度が上昇し、やがてオゾン層が形成される（ちなみにオゾン層の形成によって、紫外線がブロックされるようになったことが、生命の地上進出の前提でもある）。

　そして、カンブリア爆発だ。
　カンブリア爆発というのは、カンブリア紀（5.4億年前?5億年前）になって動物の多数の門が一斉に出現したことを言う。その頃、地球は温暖だったが、酸素濃度は現在の21％と比べて低い、10％代半ばと推測されている。そしてこの低い酸素濃度が、生命に多様性をもたらしたという。それというのも、鰓面積を大きくし、酸素の吸収を高めるために、体節が分岐したり殻が形成されたりしたのだと。
　その後カンブリア紀を通じて、酸素濃度は上昇を続け、現在と同じレベルになった。続くオルドビス期（5億年前?4.4億年前）、生命はしだいに大きくなっていく。しかし、酸素濃度は逆に低下し、末期には10％代前半となり、大絶滅をもたらす。

　シルル紀（4.4億年前?4.1億年前）からデボン紀（4.1億年前?3.6億年前）にかけては、生命が陸上に進出した時期として知られる。それはまず植物から始まり、昆虫が、やがて脊索動物がそれに続く。
　生命の陸上進出の背景は冒頭に述べたが、それは、「ローマーの空白」と呼ばれる時期をはさんで二波に分かれている。第一波の間上昇を続けていた酸素濃度が、この空白の期間に10％台前半まで低下、再びの大量絶滅を生み、結果として第二波を準備する。

　石炭紀（3.6億年前?3億年前）からペルム紀（二畳紀、3億年前?2.5億年前）にかけては30％超と、かつてない酸素濃度まで上昇した。名前の通り、現在の石炭鉱床の90％が石炭紀の地層なのだけれど、つまり当時はそれほどに多くの倒木が炭素を固着し、埋没していったのだ。
　しかしペルム紀の終わりに起こった火山活動がメタン濃度を上昇させ、酸素濃度を急減させた。そしてまた、大量絶滅。その時代を生き抜く智恵が、内温性による酸素呼吸効率の向上だったとウォードは言う。

　さあ、そして、古生代である。パンゲア大陸が形成され、すぐ再び分裂しはじめるが、三畳紀（2.5億年前?2.1億年前）からジュラ紀（2.1億年前?1.4億年前）、白亜紀（1.4億年前?0.7億年前）にかけて、酸素濃度は10％前半から後半の間にあり、ずっと低かった。
　鳥のルーツがそこにあったことは、先に書いた。そしておそらくは、それに続く新生代、第三紀（0.7億年前?0.2億年前）、第四期（0.2億年前?現在）のほ乳類の繁栄には、その間の酸素濃度の上昇が関係している。

　さすがにすべてを酸素濃度が「決めた」というには無理があるかもしれない。しかし、エヴェレストの頂上を超えていく鳥たちが、２億年前の大気を生きていると考えるのは、なんとも雄大で心躍らせる見方ではないか。
]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>満員電車で人は</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://zatsugaku.com/archives/2008/04/post_781.html" />
   <id>tag:zatsugaku.com,2008://7.1105</id>
   
   <published>2008-04-23T15:32:42Z</published>
   <updated>2008-04-23T15:33:11Z</updated>
   
   <summary>　物性物理学の沢田功さんが「およそ数学」を薦める著書で、40人がいるクラスでも、高校生たちが占める体積は教室の0.8％にしかならないと書いていて、おもしろいなあと思った。満員電車ならそんなことはなかろうと、さっそく自分でも計算してみる。 　まずは電車の体積だが、車両サイズを横幅2.8m、長さ20m、高さ2.5mとするな...</summary>
   <author>
      <name>小橋昭彦</name>
      <uri>koba.html</uri>
   </author>
         <category term="zatsugaku" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://zatsugaku.com/">
      　物性物理学の沢田功さんが「およそ数学」を薦める著書で、40人がいるクラスでも、高校生たちが占める体積は教室の0.8％にしかならないと書いていて、おもしろいなあと思った。満員電車ならそんなことはなかろうと、さっそく自分でも計算してみる。
　まずは電車の体積だが、車両サイズを横幅2.8m、長さ20m、高さ2.5mとするなら、床面積は56平方m、体積はそれに2.5をかけて、140立方mになる。これが分母。
　満員とはどのくらいの人数が乗ったときか。乗車率250％というのが身動きができない状態ということらしいけれど、このとき、一つの車両におよそ350人が乗っているという。ちょっとしたホール並みの人数が押し込められているわけで、これだけでげんなりしそうになるが、ここはひとつ、それらの人が占める体積を求めよう。ウェストの平均を65cmとして、およそ半径10cmの円柱と考える。断面積は0.0314平方mだ。身長は平均170cmとして、体積では0.05338立方m。これが350人分だから、面積にして10.99平方m、体積にして18.7立方m。
　だから結果は、身動きできない電車の中でも、人が占める空間は、面積比で20％、体積比で13％しか占めていない計算だ。あまりに少ないので、1立方mあたり985kgという人の密度をもとに、およそで出した体積から体重を求めたのだが、約50kgになるから、ほぼあっている。
　ためしにと、肩幅40cmを直径にした円柱になっていると仮定して計算すると、面積比で約８割、体積比で約５割となった。こちらは実感に近い。どうやらぼくらは、肩幅を基準に自分の空間を感じとっているようだ。ついでなのでこの半径20cm、身長170cmの場合の体重を求めると、206.8kgと出た。朝の通勤電車でぼくたちは、KONISHIKIのような気分でおしあいへしあいしているってわけ。それを想像したら、肩の力も抜けるんじゃないか。いや、むしろ息がつまる？
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>地域再生システム―「現場からの政策決定」時代へ</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://zatsugaku.com/archives/2008/04/post_780.html" />
   <id>tag:zatsugaku.com,2008://7.1104</id>
   
   <published>2008-04-22T14:02:15Z</published>
   <updated>2008-04-22T14:02:42Z</updated>
   
   <summary> 　現場からの政策決定。 　本書では、端的にはそれは「構造特区制度」を意味している。地域の主体から提案を受けつけ、それらは「価値がある」ものという前提に立ち、できない理由ではなく実現する方法を探るという基本で行われ、審査情報も公開していく。 　その特区制度の特徴や、今後のあり方を探ったのが本書だ。 　地域のあり方、ガバ...</summary>
   <author>
      <name>小橋昭彦</name>
      <uri>koba.html</uri>
   </author>
         <category term="books" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://zatsugaku.com/">
      <![CDATA[
<iframe align="right" src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=aaaaaaaa-22&o=9&p=8&l=as1&asins=4130322109&fc1=000000&IS2=1&lt1=_blank&lc1=5E7EB2&bc1=FFFFFF&bg1=E8E6DE&f=ifr&nou=1" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="2" marginheight="2" frameborder="1"></iframe>

　現場からの政策決定。
　本書では、端的にはそれは「構造特区制度」を意味している。地域の主体から提案を受けつけ、それらは「価値がある」ものという前提に立ち、できない理由ではなく実現する方法を探るという基本で行われ、審査情報も公開していく。
　その特区制度の特徴や、今後のあり方を探ったのが本書だ。

　地域のあり方、ガバナンスについて興味を持ち始めたところだったのだが、どうも心に響かない。
　なぜだろう。考えていて、気づいたこと。
　それは、ぼくには行政のツボが見えていないという、この数年感じている思いだった。

　ここしばらく、自治体に勤める人たちが多く参加するグループと、オフで話す機会がある。若い子が多いので、けっこう自由な話になる。

　それが、ぼくには理解できないのだ。

　特殊な世界だと言いたいわけではない。ただ、ほんとうに分からない。
　専門的な話をしているわけではない。
　たとえば民間企業の飲み会でいえば、「稟議書なんて?」とか「会議ばっかりでさ」とぼやく、そういうレベルの話なのだが、そういうレベルの話が、実感としてわからないのだ。
　これはどういうことなのだろう。

　自治体にどういう部署があるのか。これはわかる。
　自治体がどういう仕事をしているのか。これもある一定レベルまではわかる。
　自治体にどういう人がいるのか。これもまあ、わかる。

　わからないのは、それらがどういう原理で動いているか、なのだ。

　だから、特区制度が仮にほんとうにすごいとして、そのすごさがぼくには見えない。
　現場からの政策決定というのが、これまでの行政のスタイルを根本から変える可能性があるということ。理念的にはわかる。わかるけれど、実感としてわからない。
　たとえばね、消費者参加型の商品開発がやりやすくなったと。そのことが企業に与えるインパクトについては、ぼくには実感としてわかるし、同時に、その欠点も実感として見える。それが正しいかは別にして、この実感としてとらえられることは重要だ。

　理念としては分かっても、実感としてとらえられないということは、「現場からの政策決定は重要だ」と理論的に説明されると、そのまま信じるしかないという危うさを持つ。
　行政にとって本当に大切なことは何なのか。現場から、最終的には市民からの政策決定が行われるようにするとすれば、どこがツボなのか（市民による審議会とかとはちょっと違う気もしているのだ）。

　明らかに今、市民と行政の間は遠い。行政も市民の中に入らなくてはならない、しかし市民もまた、行政に関わらなくてはならない。
　田舎に帰って、行政との協働が増えた。そうした中で、それでもなお、ぼくには行政のツボが見えていない。
　何よりも困っているのは、ツボが見えていないということが何を意味しているのか、今だにわからないのだ、ぼくは。
]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>＜私たち＞の場所―消費社会から市民社会をとりもどす</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://zatsugaku.com/archives/2008/04/post_779.html" />
   <id>tag:zatsugaku.com,2008://7.1102</id>
   
   <published>2008-04-18T05:45:58Z</published>
   <updated>2008-04-18T05:46:19Z</updated>
   
   <summary> 　副題には、消費社会によって市民社会が奪われてしまったという含意がある。その思いが今の自分にすごくフィットしていたのが、本書を手にした理由。 　市民社会、それは「あなたと私」の相互関係を調整する空間。国家でも市場でもない「第三の領域」だと、アーリはいう。 　彼は市民社会を三つの型に分類する。リバタリアンのモデルとコミ...</summary>
   <author>
      <name>小橋昭彦</name>
      <uri>koba.html</uri>
   </author>
         <category term="books" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://zatsugaku.com/">
      <![CDATA[
<iframe align="right" src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=aaaaaaaa-22&o=9&p=8&l=as1&asins=4766414144&fc1=000000&IS2=1&lt1=_blank&lc1=5E7EB2&bc1=FFFFFF&bg1=E8E6DE&f=ifr&nou=1" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="2" marginheight="2" frameborder="1"></iframe>

　副題には、消費社会によって市民社会が奪われてしまったという含意がある。その思いが今の自分にすごくフィットしていたのが、本書を手にした理由。

　市民社会、それは「あなたと私」の相互関係を調整する空間。国家でも市場でもない「第三の領域」だと、アーリはいう。
　彼は市民社会を三つの型に分類する。リバタリアンのモデルとコミュニタリアンのモデル、そして強靭な民主主義のモデルだ。アーリが目指すのはこうち最後の型。

　市民社会を論じるとき、ぼくたちは公的領域と私的領域というふたつの区分に依拠している。この二項は、国家と個人、権力と自由に置き換えてもいい。

　リバタリアンのモデルは、この二項の区分を前提として、そのうち私的な領域としての市民社会を重視するものだ。
　私的な領域においては、個人主義が徹底され、人間関係は契約関係に近い。個々人が自分たちの自由を守るために行う一連の取引が、人間関係を形作る。
　市民社会のプレイヤーである個々人は、自由を守る一方で奪いもする政治を恐れ、その介入を拒否する。私的プレイヤーから構成される市場は、自由への入場券だ。
　リバタリアンのモデルによれば、個人と国家は対立し、その間を仲介することはできない。

　コミュニタリアンのモデルにおいても、社会は公的な領域と私的な領域に分かれ、市民社会は私的な領域に属する。その点においてはリバタリアンのモデルと変わらない。
　ただし、コミュニタリアンのモデルにおける市民社会は、孤独な個人から構成されるのではない。共同体が先立ち、さまざまなレベルの絆によって相互に結びついた空間であると考える。その結びつきは、選び取るものではなく与えられる（帰属）もの。
　コミュニタリアンのモデルを採用する場合、この帰属性ゆえに、民主主義とは少々折り合いに工夫が必要になる。

　では、強靭な民主主義のモデルとは？
　リバタリアンのモデルもコミュニタリアンのモデルも、国家と個人を切断し、二つの領域を切り離していることには違いがない。しかしアーリは、市民社会を私的領域にあるものとしてではなく、その間にある第三の領域にあるものとして構想する。
　それはたとえば、公共的な意識、あるいは一般的な善と公益の配慮を政府と共有しつつ、政府のように強制力によるのではなく、私的領域にある個人の自発性によって参加していくことを目指す。ふたつの領域を仲介するのが、このモデルなのだ。

　具体的な方法として、アーリは次の６点をあげている。

1.公共の空間を拡大し強化する（特にショッピングセンターを真に公共化する）
2.情報通信技術を強化し商業化を防ぐ
3.生産を自国化し企業を市民社会の構成員にする
4.消費を自国化し公正な商品を促進する
5.国民の共同体への奉仕とその教育プログラムを組む
6.芸術と人間性を育てる

　思い出話をひとつ許してほしい。

　20年ほど前、ある住宅設備メーカーによるバスタブの新商品の命名コンテストがあった。コピーライターとして社会人になったばかりのぼくは、先輩に薦められて応募した。
　落選した。
　そのとき提案したのが、「ぼくの居る場所」。そう、これが商品名である。
　採用されるはずのない案だと思う。
　でもなぜか、いい案だという思いが、今もあるのだ。

　あの頃、ぼくはゆったりと湯につかってくつろぐのが「ぼくの居る場所」という思いを抱いていた。
　だけど今は違う。自分の居る場所は、安息の場所にはない。といって、目指すどこか遠いところにあるわけでもない。
　それが具体的にどんな場所なのかは、わからない。わからないけど、わからないなりにもがき続けている、それこそが「ぼくの居る場所」にほかならないと、気づいた。

　＜私たち＞の場所もきっと、そうだ。
　公的か私的かという対立を超えて、第三の領域を作り出そうとする、その試行錯誤の中に、＜私たち＞の場所は、ある。
]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>選択肢が多いのはいいことか？</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://zatsugaku.com/archives/2008/04/post_778.html" />
   <id>tag:zatsugaku.com,2008://7.1101</id>
   
   <published>2008-04-17T02:31:09Z</published>
   <updated>2008-04-17T02:31:09Z</updated>
   
   <summary>Too Many Choices -- Good Or Bad -- Can Be Mentally Exhausting Researchers from several universities have determined that even though humans&apos; ability to weigh ch...</summary>
   <author>
      <name>小橋昭彦</name>
      <uri>koba.html</uri>
   </author>
         <category term="clips" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://zatsugaku.com/">
      <![CDATA[<div class="quotebody"><a class="quotetitle" title="Too Many Choices -- Good Or Bad -- Can Be Mentally Exhausting" href="http://www.sciencedaily.com/releases/2008/04/080414155238.htm" target="_blank">Too Many Choices -- Good Or Bad -- Can Be Mentally Exhausting</a>

Researchers from several universities have determined that even though humans' ability to weigh choices is remarkably advantageous, it can also come with some serious liabilities. People faced with numerous choices, whether good or bad, find it difficult to stay focused enough to complete projects, handle daily tasks or even take their medicine.</div>

そうでもないんだよね。「<a href="http://zatsugaku.com/archives/2004/06/post_422.html">しあわせですか</a>」も参照のこと。

<a href="http://www.apa.org/journals/releases/psp945883.pdf">http://www.apa.org/journals/releases/psp945883.pdf</a>]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>意識する前に脳は…</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://zatsugaku.com/archives/2008/04/post_777.html" />
   <id>tag:zatsugaku.com,2008://7.1100</id>
   
   <published>2008-04-16T12:42:05Z</published>
   <updated>2008-04-16T12:42:05Z</updated>
   
   <summary>Unconscious determinants of free decisions in the human brain : Abstract : Nature Neuroscience There has been a long controversy as to whether subjectively &apos;fre...</summary>
   <author>
      <name>小橋昭彦</name>
      <uri>koba.html</uri>
   </author>
         <category term="clips" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://zatsugaku.com/">
      <![CDATA[<div class="quotebody"><a class="quotetitle" title="Unconscious determinants of free decisions in the human brain : Abstract : Nature Neuroscience" href="http://www.nature.com/neuro/journal/vaop/ncurrent/abs/nn.2112.html" target="_blank">Unconscious determinants of free decisions in the human brain : Abstract : Nature Neuroscience</a>

There has been a long controversy as to whether subjectively 'free' decisions are determined by brain activity ahead of time. We found that the outcome of a decision can be encoded in brain activity of prefrontal and parietal cortex up to 10 s before it enters awareness. This delay presumably reflects the operation of a network of high-level control areas that begin to prepare an upcoming decision long before it enters awareness.</div>

えーと、何かの行動をとったことを自分で意識する前に、前頭葉の活性化が見られたと。ときには10秒前に見られたとも。

運動準備電位というのが、0.55秒前に起こっているというのは、以前「<a href="http://zatsugaku.com/archives/2007/07/post_669.html">コギトまでの〇・三五秒</a>」で書いた。今回、それよりずいぶん長いが、運動準備電位は、あくまで動かすための指令だ。今回は指令ではなく、動かしたいという欲望と考えればいい。

いやそれにしても、ずいぶん前になるのだな。]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>世界でいちばん古い木</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://zatsugaku.com/archives/2008/04/post_776.html" />
   <id>tag:zatsugaku.com,2008://7.1099</id>
   
   <published>2008-04-16T12:33:36Z</published>
   <updated>2008-04-16T12:33:36Z</updated>
   
   <summary>Oldest Living Tree Found in Sweden The visible portion of the 13-foot-tall (4-meter-tall) &quot;Christmas tree&quot; isn&apos;t ancient, but its root system has been growing f...</summary>
   <author>
      <name>小橋昭彦</name>
      <uri>koba.html</uri>
   </author>
         <category term="clips" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://zatsugaku.com/">
      <![CDATA[<div class="quotebody"><a class="quotetitle" title="Oldest Living Tree Found in Sweden" href="http://news.nationalgeographic.com/news/2008/04/080414-oldest-tree.html" target="_blank">Oldest Living Tree Found in Sweden</a>

The visible portion of the 13-foot-tall (4-meter-tall) "Christmas tree" isn't ancient, but its root system has been growing for 9,550 years, according to a team led by Leif Kullman, professor at Umeå University's department of ecology and environmental science in Sweden.</div>

およそ４メートルというその地上の姿はある意味貧弱だけど、根っこを調べると、なんと9550年前からのものだったとか。エゾマツ（トウヒ）ですね。]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>地域づくりの新潮流―スローシティ／アグリツーリズモ／ネットワーク</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://zatsugaku.com/archives/2008/04/post_775.html" />
   <id>tag:zatsugaku.com,2008://7.1098</id>
   
   <published>2008-04-16T02:44:54Z</published>
   <updated>2008-04-16T02:45:21Z</updated>
   
   <summary> 　副題に並ぶ３つのキーワード。いずれも気になるテーマである。 　まずはおさらいしておこう。スローシティ。この母体はご存知「スローフード運動」だ。スローフード運動は、1986年にマクドナルドがローマのスペイン広場に進出するという計画を聞いたイタリアのジャーナリスト、カルロ・ペトリーニらが、これを阻止する運動を始めたのが...</summary>
   <author>
      <name>小橋昭彦</name>
      <uri>koba.html</uri>
   </author>
         <category term="books" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://zatsugaku.com/">
      <![CDATA[<iframe align="right" src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=aaaaaaaa-22&o=9&p=8&l=as1&asins=4395010032&fc1=000000&IS2=1&lt1=_blank&lc1=5E7EB2&bc1=FFFFFF&bg1=E8E6DE&f=ifr&nou=1" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="2" marginheight="2" frameborder="1"></iframe>

　副題に並ぶ３つのキーワード。いずれも気になるテーマである。

　まずはおさらいしておこう。スローシティ。この母体はご存知「スローフード運動」だ。スローフード運動は、1986年にマクドナルドがローマのスペイン広場に進出するという計画を聞いたイタリアのジャーナリスト、カルロ・ペトリーニらが、これを阻止する運動を始めたのがきっかけ。
　スローシティは、やはりイタリアで生まれ「チッタズロー」と呼ばれるものだが、1998年にスローフード協会年次集会に同席したブラ市、グレーベ・イン・キアンティ市、オルビエト市、ポジターノ市の四市長が意気投合して、スローフードの精神をまちづくりに適用しようと始めたもの。現在では世界中で50を超える都市がスローシティとして認証されているという。

　アグリツーリズモもまた、イタリア生まれだ。1960年代に農村の現金収入を増やす目的で政府が始めた農村民泊の補助システムが原型。1985年になって法制化され、現在までに1万1000戸の農家が実施している（とはいえ全農家数の0.3％）。
　同じような活動はイギリスでも活発で、こちらはグリーンツーリズムなどと呼ばれており、同様の取り組みとしてはむしろ先輩格。ぼくも以前B&Bと呼ばれる農家民宿に泊まったが、あれはなかなか楽しいものだ。
　もっとも、1983年に組織された「ファーム・ホリデイ・ビューロー」に参加している農家数は1,000ほど。これも農家の現金収入を増やすことが目的であることには変わりない。

　ネットワークという言葉は、ここでは純粋に言葉どおりの意味で使われている。具体的な分析としては、アグリツーリズモの組織形態とスローフードの組織形態を比較して、後者はフラットだが前者は樹形だといった指摘がなされている。

　さて、本書は、これら３つのキーワードをめぐって、イタリアやバルト海周辺（ヘルシンキやカルッキラ、タリン）、イギリス（オックスオード、バースなど）、ドイツ（交通ネットワークの観察が主だ）に取材し、その結果を報告したものとなっている。
　中心的な人物へのインタビューも交え、ていねいな報告だが、とりあげられている街は、いわゆる農村より都市部が多く、中山間地における取り組み事例は少ない。つまり、主として「スローシティ」を中心に、取材されているわけだ。

　実は、今年は本格的にグリーンツーリズムの普及に取り組みたいと考えている。
　これは別の文献で得た考え方だが、まずは年60万円の増収を果たすだけでも農家にとっては大きいという（まあ、わが家の場合でもそういう側面はある）。
　この具体的な数字は、実際の目標としてもけっこうリアリティがあって、できればグリーンツーリズムでこれを達成する仕掛けをしていきたいというのが願い。

　先進地では、アグリツーリズモに関連して、たとえば具体的にどんな農家が、どんな施設や体制で、どんなサービスを提供し、どのくらいの価格で、年収の何割くらいをそれに頼っているのだろう（残念ながら本書からはつかめない）。
　ヨーロッパにおける事例を、日本における先進地である安心院などと比較していくとおもしろいかもしれないね。
]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>連帯と承認―グローバル化と個人化の中の福祉国家</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://zatsugaku.com/archives/2008/04/post_774.html" />
   <id>tag:zatsugaku.com,2008://7.1096</id>
   
   <published>2008-04-14T01:18:21Z</published>
   <updated>2008-04-14T01:18:48Z</updated>
   
   <summary> 　日本はどこに行こうとしているのだろう。グローバル化、個人化を前提とした改革が進められた後、格差の解消が言われる現在は、あるいは福祉国家であろうとしているのか。そんな思いから、これはまさに副題にひかれて手にした本だ。 　福祉国家という言葉を、精密に理解していたわけではない。本書を通じて、あらためてその概念を整理してい...</summary>
   <author>
      <name>小橋昭彦</name>
      <uri>koba.html</uri>
   </author>
         <category term="books" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://zatsugaku.com/">
      <![CDATA[
<iframe align="right" src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=aaaaaaaa-22&o=9&p=8&l=as1&asins=4130501690&fc1=000000&IS2=1&lt1=_blank&lc1=5E7EB2&bc1=FFFFFF&bg1=E8E6DE&f=ifr&nou=1" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="2" marginheight="2" frameborder="1"></iframe>

　日本はどこに行こうとしているのだろう。グローバル化、個人化を前提とした改革が進められた後、格差の解消が言われる現在は、あるいは福祉国家であろうとしているのか。そんな思いから、これはまさに副題にひかれて手にした本だ。

　福祉国家という言葉を、精密に理解していたわけではない。本書を通じて、あらためてその概念を整理していった。たとえば、福祉国家は、まず国家目標として存在すること。そしてその手段として、給付国家としての側面と、規制国家としての側面があること。

　給付国家としての側面とは、社会給付の水準をもとに福祉国家を判断するものだ。
　こちらは比較的順当な考え方だろう。この観点からは、日本における社会給付水準が1970年代を境に急上昇しはじめているという指摘が着目。日本の福祉国家化は、1970年代に始まっていたのだ（イギリスのそれは1940年代後半、韓国は1990年代）。
　給付国家としての福祉国家を考える時、ぼくたちはコミュニティという連帯を前提として、どのような再分配構造をとるのか、を問わなくてはいけない。みんなが連帯して少しずつの負担をし合い、それを必要な人に分配する。
　たとえば年金問題でも、「いくら払ったからいくら返ってくる」という投資的な基準だけで判断することは、本来できないはずだ。現役世代で高齢世代を担うというのはまさにそういうことを意味している。個人主義が高まり、ともすれば連帯の意義を忘れそうな現代ゆえに、あらためてぼくたちはそれを問い直さねばならない。

　新鮮だったのは、規制もまた福祉国家の手段であるという指摘。
　雇用の機会均等や差別撤廃、労働基準など、各種の社会規制は、確かに福祉国家を成り立たせる重要な要因だ。規制によってぼくたちは、市民間の相互承認を可能にしている。
　承認という概念は深く理解しているわけじゃないのだけれど、たとえば労働ひとつとってみても、「個人の自由」と「協働」は対立する。それらをどう両立するか、相手の自由をどこまで承認するかというのが、ベーシックな問いだろう。
　その問いへの答えのひとつが、規制ということになる。規制は必ずしも個人の自由を抑圧するばかりではない。効果的に行えばむしろ小規模な財政支出で可能な、費用対効果の大きな政策となりうる。（ちなみにこうした視点からは、アメリカはかなり進んだ福祉国家の側面を有するというのは発見だった＝たとえばアファーマティブ・アクションなど）

　さて、ここまで、福祉国家の概念を「連帯と承認」をからめて理解したところで、では、福祉国家がもたらす効果として、何が起こったかを武川さんは分析する。

　そのひとつは資本制のもとにおける、（労働力の）「脱商品化」だ。
　労働力の商品化というのは、自分の労働力を金銭的価値として提供することだ。これに対して社会給付の充実は、労働者の生活が労働市場へ依存する度合いを弱める。たとえば療養期間中の社会保障などがそれにあたるが、こうした給付は労働と賃金の関係を切断する（ここで出てきた、「脱商品化」を操作的に扱えるようにしたのが、エスピン＝アンデルセンの「福祉レジーム」の３類型）。

　福祉国家がもたらすもうひとつの効果は、家父長制の再生産であり、終焉だ。
　扶養者控除などが典型だが、福祉国家は性分業を強化し、近代家父長制を再生産する作用を持つ。福祉国家にとって家父長制が便利なのは、それが資本制の下での商品化の限界（育児などの家事労働を典型とする）にある領域と、商品化された賃労働の関係を調整するシステムだからだ。
　一方で、福祉国家は、家父長制から乖離させ「個人化」を推し進める作用を持つこともある。いわゆる「脱ジェンダー化」だ。介護保険などがその典型だろう。

　では、福祉国家が現在置かれている問題とは何だろう。
　一つは、主として財政難に起因する。これに関連しては、しばしば福祉国家から福祉社会へという論点が出されてきたが、武川正吾さんはむしろ福祉国家と福祉社会の協働に理想を見ている。ボランティアやNPOなどの登場を背景に、いかに両者が協働するかは、なるほど今日切実な課題だろう。
　いま一つの問題として、グローバル化がある。移民政策ひとつをとっても、今や一国の社会政策とて、国内問題として片付けられない。これに対しては、世界共通の市民権を持った人に対して保証すべき最低限の基準（グローバル・ミニマム）と国民所得に比例する部分の二階建てで構想する、より進んだグローバル化で対応するしかないという論点が提示されている。

　福祉のおかれた「今」を見るにあたって、新しい視点を教えてくれた。
]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>テレビだョ！全員集合―自作自演の1970年代</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://zatsugaku.com/archives/2008/04/1970.html" />
   <id>tag:zatsugaku.com,2008://7.1094</id>
   
   <published>2008-04-07T07:29:46Z</published>
   <updated>2008-04-07T07:30:07Z</updated>
   
   <summary> 　何度かテレビカメラの前に立ったことがある。 　「カメラ目線ですか」「いえ自然な様子で」というわけで、あえてテレビカメラを見ないようにしてしゃべる、ところが、テレビカメラのある風景を普通に考えれば、むしろカメラが気になってそちらを見るほうが自然だったりする。とすると今の自分は「自然な様子」と言えるのかどうか。 　こう...</summary>
   <author>
      <name>小橋昭彦</name>
      <uri>koba.html</uri>
   </author>
         <category term="books" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://zatsugaku.com/">
      <![CDATA[<iframe align="right" src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=aaaaaaaa-22&o=9&p=8&l=as1&asins=4787232800&fc1=000000&IS2=1&lt1=_blank&lc1=5E7EB2&bc1=FFFFFF&bg1=E8E6DE&f=ifr&nou=1" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="2" marginheight="2" frameborder="1"></iframe>

　何度かテレビカメラの前に立ったことがある。
　「カメラ目線ですか」「いえ自然な様子で」というわけで、あえてテレビカメラを見ないようにしてしゃべる、ところが、テレビカメラのある風景を普通に考えれば、むしろカメラが気になってそちらを見るほうが自然だったりする。とすると今の自分は「自然な様子」と言えるのかどうか。
　こうして、そもそも「映される」という非日常が介入した時点で、映された風景は「日常の風景」から遠ざかる。
　だから、テレビが真実を映し出すもの、ということをぼくは信じていない。

　それでも、形而上的な意味での「真実」（事実の奥に隠れている「真実」）ならば、むしろカメラが介入するからこそすくい出せることがある。
　そこに、テレビのおもしろさがある。
　事実という「情報」があって、それを「演出」するカメラがある。この構造のなかに、テレビの本質がある。
　この本質を「自作自演」と名づけ、1970年代のテレビ番組を通してあぶりだそうとしたのが、いくつかの論文からなる本書だ。
　論文集ではあるが、テレビという身近な素材でもあり、内容は親しみやすい。かつ、資料としてつけられた70年代のテレビ番組解説と年表は、それだけでも価値がある。

　なぜ1970年代なのか。それは、意図せざる「自作自演」がテレビの場で起こっていた時代と考えられるから、という。本来、テレビの持つ「自作自演」性は、コントロールを超えたところに生じる。コントロールされた自作自演は、楽屋落ちになったり、「やらせ」になったりしかねない。
　たとえば第3章でとりあげられている、田原総一郎がディレクションをとった『ドキュメンタリー青春』のなかの一編「バリケードの中のジャズ」（1969年7月18日放送）。ゲバルトを組む学生らのなかで山下洋輔がジャズピアノを演奏する様子をとったこの作品は、しかし、企画の最初からテレビありきだった。学生から提案されたとされたコンサートは、実は、テレビ局が持ちかけた企画だった。
　現代のぼくたちは、これを「やらせ」と言うかもしれない。だけど、その向こうで、学生たちの、山下の真実がつかめたとしたら、「やらせ」とは何なのか。

　第6章では、大晦日のテレビ放送番組表で「紅白対抗」という言葉が明確に出たのが1975年であったことを発見する。放送していること、見られているということを自ら言明し、そのフレームの中であえて番組を作り出したテレビ。
　同じような構造転換が、1970年代、バラエティでも、歌番組でも、ドラマでも見られる。

　それにしても。
　いま、「やらせ」に対する批判は、感情的にすぎる。「やらせ」の奥を見つめようとせず、ただ表面的な「やらせ」をとりあげて批判しているようにさえ思える。それはあまりに自らに無批判な批判といえないだろうか。
　もしかすると、ぼくたち21世紀のテレビ視聴者は、まだ70年代を超えていないのではないか。ふと、そんな思いにとらわれる。
　そもそもテレビというのは「自作自演」のメディアであるという自覚。その自覚に立った上で、番組を見て、批判すること。そうした視点を、ぼくたちは持っているだろうか。

　昨今の健康番組に流される人々を思い返しても、ぼくたちはもっと、テレビの持つ「自作自演」の構造に意識的になる必要がある。
　ぜひ本書を手にとってほしいと思うゆえんである。
]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>オスのサルも男の子のおもちゃを好む</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://zatsugaku.com/archives/2008/04/post_773.html" />
   <id>tag:zatsugaku.com,2008://7.1093</id>
   
   <published>2008-04-05T08:10:57Z</published>
   <updated>2008-04-05T08:10:57Z</updated>
   
   <summary>Male monkeys prefer boys&apos; toys - life - 04 April 2008 - New Scientist It&apos;s thought of as a sexual stereotype: boys tend to play with toy cars and diggers, while...</summary>
   <author>
      <name>小橋昭彦</name>
      <uri>koba.html</uri>
   </author>
         <category term="clips" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://zatsugaku.com/">
      <![CDATA[<div class="quotebody"><a class="quotetitle" title="Male monkeys prefer boys' toys - life - 04 April 2008 - New Scientist" href="http://www.newscientist.com/channel/life/dn13596-male-monkeys-prefer-boys-toys.html?feedId=online-news_rss20" target="_blank">Male monkeys prefer boys' toys - life - 04 April 2008 - New Scientist</a>

It's thought of as a sexual stereotype: boys tend to play with toy cars and diggers, while girls like dolls. But male monkeys, suggests research, are no different.</div>

っていうことはつまり、男の向けおもちゃとか女の子向けおもちゃというのは、文化的なすりこみじゃなく、生物学的な違いに基づくのかもしれないと。]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>動物は時間をどう認識するか</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://zatsugaku.com/archives/2008/04/post_772.html" />
   <id>tag:zatsugaku.com,2008://7.1092</id>
   
   <published>2008-04-04T09:48:44Z</published>
   <updated>2008-04-04T09:48:44Z</updated>
   
   <summary>Western News - Are animals stuck in time? Only the cue of how long ago food was encountered was used successfully by the rats. いわゆるエピソード記憶のうちでは、「どのくらい前に」という情報だけ...</summary>
   <author>
      <name>小橋昭彦</name>
      <uri>koba.html</uri>
   </author>
         <category term="clips" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://zatsugaku.com/">
      <![CDATA[<div class="quotebody"><a class="quotetitle" title="Western News - Are animals stuck in time?" href="http://communications.uwo.ca/com/media_newsroom/media_newsroom_stories/are_animals_stuck_in_time?_20080403441999/" target="_blank">Western News - Are animals stuck in time?</a>

Only the cue of how long ago food was encountered was used successfully by the rats.</div>

いわゆるエピソード記憶のうちでは、「どのくらい前に」という情報だけが意味を持っていたと。「いつ」っていう覚え方はしないようで。ラットでの話。]]>
      
   </content>
</entry>

</feed>
