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ざつがく・どっと・こむ

物語×雑学の愉しみ、ザツガク・ノヴェル

第一話 ぼくたちは未来に向けて思い出す

「もう、恋もしなくなったな」
 ため息をつく。やわらかいスポットに照らされた絵の中で、ひとりの少女が笑っている。
「この子?」
 いっしょに絵を見ていた女性が聞く。うん、と答えて、
「あれ?」
「どうしたの?」
「ぼくはこんな写真持っていない」
「そう」
「思い出の写真を絵にして美術館にする機能って言ってなかったっけ」
 パソコンの中に保存してあるデータから、美術館に飾りたいデータをアップロードする。それから仮想空間に入って美術館を訪れれば、自分の思い出の写真が絵になって飾られている。確かそういうサービスと聞いた。
「仕様に変更がありまして」
 女性が言う。彼が美術館に入ったとき、彼のそばに来た人。二十代の後半だろうか。白いブラウスに紺のタイトスカート。淡いピンクのカーディガンを羽織って、いかにも案内人だと思っていたが。
「待って」
 ログオフして設定を確認しようとするぼくを、女性が止める。「もう少し、この子の話を聞かせて」

 初恋、というほど甘いものでもない。クラスのみんなから人気のある子で、たぶんぼくも、ちょっとばかり気になっていた。それを恋というのかどうか。
 今目の前にある絵(写真)は、中学校時代の修学旅行のスナップだ。あの頃、デジタルカメラなんてなかったから、旅行の写真といえば先生が手持ちのフィルムカメラで撮影し、旅行後、現像して廊下に貼り出していた。焼き増し(デジタル的な用語でいえばコピー)してほしい生徒は、その中から番号を控えて、先生に注文票を提出する。ぼくは、その一枚が欲しかった。集団の中で少女だけが振り返り、笑っている。きらきら輝く瞳がすてきで、ずっと持っておきたいと思った。
 でも、けっきょく注文することはなかった。自分の写っている写真ならともかく、少女だけが写っている写真を注文したことがバレたら、級友たちからなんといってからかわれるか。あの頃はカメラ付携帯なんてなかったし、そう簡単にスナップを撮れる時代じゃない。けっきょくぼくの手元に残っている彼女の写真は、卒業アルバムの彼女だけ。
「名前はなんていうの」
 女性が聞く。
「え?」
「名前」
 それは。答えようとして、ぼくはとまどう。何と言ったっけ、彼女の名前。
「ごめん、ど忘れ」
 女性は一度きゅっと口元をしめて、
「ほんとにいたの」
「え?」
 さっきと同じ反応を返してしまう。
「この人、ほんとうにいたの」
 何を言い出すかと思ったら。
 もちろん、と言いかけて、ぼくは口をつぐむ。足元がふらふらして、立っていられなくなった。こんな子が、ほんとうにいたのだろうか。そんな初恋の人がいればという、思いだけを持っていたのではなかったか。よくわからなくなる。目の前が暗くなって、その場にあったソファに座り込む。
 床に目を落とした。がくがくと膝が震えている。それを手で必死におさえる。仮想世界の化身(アバター)でも震えることってあるんだな。深呼吸をしながら、そんなことを思う。床に、誰かがこぼしたコーヒーのあとがしみになって残っている。ずいぶん細部まで作りこまれた空間。く、逃げようとする思考を、ぼくは無理に引き戻す。
 彼女とは、卒業以来会っていない。成人式でも見かけなかった(つい探していたのだ)。その後の消息は聞かない。

 女性も、彼の隣に腰をかけた。絵を見上げる。館内を見渡す。ほかに誰もいない。
 女性の視線を追って、絵が並ぶ回廊を見る。ほこりがあるわけじゃないけど、ほこりっぽいような、不思議な空気感。回廊の遠くは薄く煙っていて、窓からの光が淡い筋を作っている。映画で見たような風景。何の映画だっただろう。『薔薇の名前』?『ダヴィンチ・コード』? まあ、そういう光景を模して空間をデザインしたのだろう。
「ここがどこか知ってる?」
 知っている。仮想空間上の美術館だ。
「名前は?」
 よく覚えていない。ユニークなサービスだと思って、試しに利用してみた。
「めもあある美術館」
 え?
 また、同じ反応をしてしまった。
「ここの名前。めもあある美術館」
 彼女が繰り返した。
 その名前には記憶がある。
「国語の教科書に載ってなかったっけ。そういう話が」
 ひとりの少年が自分の思い出が絵になっている美術館に迷い込む。そんな話だった。ぼくの同世代ではけっこう覚えている人がいて、瀬名秀明氏の『八月の博物館』にも出てきたはず。
 ぼくはコンソールを取り出し、検索をかける。あった。小学六年生の教科書。東京書籍の『新しい国語』だ。関連情報を取り出す。知らなかった、ミステリー作家の仁木悦子氏が、本名の大井三重子名義で書いた童話だったんだ。偕成社から出された短編集にも収められている。残念ながら、絶版。
「あの話の最後、知ってる?」
 彼女が訊いた。
 どうだったっけ。主人公は、めもあある美術館に飾られている絵を、つまり自分の過去の風景を順番に見ていく。そして。
 そうか、
「最後に飾られていた額縁には、鏡が入っていたんだ」
 覗き込んだ少年は、そこに現在の自分を見る。そうやって過去の自分に今の自分をつないだ主人公は、その日とった自分の行動を恥ずかしく思い、家に帰って母親に謝る。
「そう」
 女性がうなづく。立ち上がって、先ほどまで観ていた絵をもういちど見つめる。彼女がいたソファの空間には、かすかに風が寄り添って、甘い香りを残した。ずいぶん高度なプログラム。
「でも、鏡だったのは、ほんとうに最後の絵だけかな」
 香りに気をとられて、聞き逃すところだった。ぼくは聞き返す。
「他の絵も?」
 腰を上げ、彼女の隣に立つ。意味がよくわからない。「違う、鏡じゃない。他の額には、思い出を描いた絵があった」

「思い出は、化石じゃない」
 女性が言う。「化石のように、固まって残っているものじゃない」
「過去のものじゃない?」
「違う。あなたの、もの。今、ここにいる、あなたが思い出している」
 現在進行形ってこと?
「そう。だから、思い出は今この時も、書き換えられる。今のあなたを写す、鏡」
 あれ。思わず声を出した。
「絵が無い」
 さっきまで見ていたはずの、少女の絵。
「あるじゃない」
「だって」
 そこに少女は描かれていない。いや、描かれているのだけれど、少女はもうこちらを振り返っていない。代わりに何かを見つめている。なにを見つめているのだろう。知りたいのだけれど、その何かは画面の外にあるようだ。少女は、額縁で切られた外側にある何かを見ている。
「エリザベス・ロフタスっていう人、知ってる?」
「この子?」
「違うちがう。アメリカの学者。記憶についての研究を行った人」
 彼女がワシントン大学の職員名簿のアドレスを送ってきて、ぼくはそれを参照する。
「へぇ。目撃証言の信憑性についての研究で有名なんだ」
「そうね。そこにある、広告の実験の論文もおもしろいよ」
 自伝的広告を被験者に送って、記憶テストをする実験だ。自伝的広告というテクニックは、ぼくも昔コピーライターをしていた頃に使ったことがある。ターゲットの思い出に訴えかけるような広告だ。
 たとえば、こんなコピー。

 あれはいつだったろう。
 ほら、お父さんに手をつながれて、
 ディズニーランドを訪れたあの日。
 ミッキーマウスと握手して、
 胸ときめかせた幼い日のこと。

 この種の広告は、うまくいけばターゲットの琴線に触れ、心を動かす。心地よい懐かしさが、自分の子にも同じ思いを抱かせてやりたいという欲望を生む。
 ロフタス氏らの実験によれば、自伝的広告を受け取った人は、目にしなかった人より、「ディズニーランドでミッキーマウスと握手した」と思い出した比率が高くなるという。
「広告が、記憶を掘り起こす助けになるんだね」
「違う」
 女性が言う。「もうひとつの広告を見て」
 そちらの広告は、ディズニーランドでバックス・バーニーと握手した思い出に訴えている。すると、バックス・バーニーと握手したという経験を思い出した人が、やはり増える。
「やっぱり広告の力じゃないの」
「いないよ」
「いない?」
「ディズニーにバックス・バーニーはいない」
 あ。バックス・バーニーはワーナー・ブラザーズだった。
「でしょ」
「どういうこと?」
「作っちゃったのよ」
 女性が答える。「広告が、偽の記憶を」

「まさか」
 フィリップ・K・ディックの小説のような。『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』は傑作だったな。自分で信じていた過去が、植え込まれたものと気づくとき、主人公はアイデンティティの喪失に脅える。
「違う」
「何が?」
「ディックの場合、その『アンドロイド』にしても、それを映画化した『ブレード・ランナー』にしても、そうそう『トータル・リコール』にしてもそうだったけど、記憶は外部から植え付けられているわよね」
「そうだね、アンドロイド製造会社が、アンドロイドに作られた記憶を植えつけている」
「でも、これはそうじゃない」
「どういうこと?」
「偽の記憶を作っているのは、本人なのよ」
「広告は?」
「きっかけにすぎない」
 目の前にディスプレイが浮かんだ。「見てて」女性が言う。自動車事故の映像が流れて、消えた。
「さて」
 女性が言う。「車が激突してたわよね」
「うん」
「ガラスの破片は、散っていた?」
「えっと」
 はっきりと覚えていないけど、たぶん。「そう、たぶんあったと思うよ」
 現場にはきらきらした破片が散っていたような。
 女性がくすっと笑った。
「それが、もう間違い」
「まさか」
「実際にはガラスの破片は散っていないの。わたしが『激突』なんて表現したから、きっとガラスも散るような激しい事故だっただろうと、偽の記憶を作っちゃったのよね」
「そんなことありえるの」
「ある。それもロフタスの実験なの。もしも質問が『激突』なんて言葉じゃなく、『車がぶつかったとき』くらいの表現だったら、ガラスが散っていたと答える人は少なくなるの。そういうものなのよ、人間の記憶なんて」
「自分で作っちゃうんだ」
「そう。だから、思い出は化石じゃない。過去の遺物じゃなく、今、その場の文脈に応じて映し出される鏡のようなものなの」
 一瞬、額縁の中にある絵が、見えなくなった。視界が閉ざされたわけじゃなく、確かに何かが描かれている、それなのに見えない。描かれていることの意味が把握できない。
 ぼくは今、何の絵を見ているのだろう。
「悲観することないよ」
 女性が言う。ぼくは女性を見る。
「あれ」
 きみが、彼女? 女性が、少女に見えた。やだ、と女性が笑う。きらきらと瞳が光る。
「ごめん、違った」
 ぼくは頭を振って、そのままふらふらと歩き始める。

「思い出を書き換えるのも、人間の力じゃないかな……」
 女性がぼくのそばに追いつき、並んで歩き始めた。「人間って、こうして話している相手を思いやりつつ、会話するものでしょ。相手が何かを信じていたら、その気持ちをたいせつにしたいじゃない」
 それはすごくわかる。「激突って聞かれたらそれに気持ちをあわせるし、ぶつかったって聞かれたらそちらに気持ちをあわせる」
 ああ。「それが、人のやさしさ、というか生きる知恵よね。思い出もそう。その場の流れに合わせようとする本能が、記憶にまで作用するんじゃないかな」
 わかる、気もする。でも。
「わからない」
 ぼくは言う。「じゃあ、ぼくが信じていたこの美術館の絵は何? ぼくがたいせつだと考えてきた、思い出は? それがすべて幻かもしれないというなら、ぼくは何を信じたらいい?」
「幻じゃない」
 女性が言う。「だって今、ここにある」
「だから、ここにあるものすべてが幻かもしれないんだろ」
「違う。幻じゃない」
 彼女が立ち止まった。壁の絵を、見ている。「これは、あなたの思い出。確かに、その通りのものじゃないかもしれない。でも今、あなたが、ここにあることの証拠」
 そこに祖母の絵があった。ぼくを育ててくれた人。少年時代のぼくにとって、もっとも大切だった人。曲がった腰を伸ばしながら、畑からこちらを振り向いている。腕抜きをした手が顔に向っている。初めて持ったカメラで写そうとするぼくに、「恥ずかしいから撮らんといて」と笑いながら言おうとしているところではなかったか。
 これもまた偽の記憶というのか? ぼくはその日のことを覚えている。祖母の言葉を覚えている。あの日祖母は。熱いものがこみあげてきて、ぼくはそれをのみ込んだ。
「あなたの名前は何?」
 女性が聞く。
「マキオ」
 ぼくは答える。
「……のひとり旅」
 女性が言う。
「あ」
「生源寺美子著。一九七三年の青少年読書感想文全国コンクール課題図書。それもあなたにとってたいせつな思い出じゃなくって」
 祖母の助けを得ながら書いた感想文。確かちょっとした賞をもらったのではなかったか。「『マキオのひとり旅』を読んで」。もしかするとそのときの思いが、今のぼくを形作っているのかもしれない。おばあちゃん、ぼくは今、あなたの助けなく、やっています。
「私たちは未来に向けて思い出すのよ」
 過去ではなく、未来に向けて。
「あなたの本当の名前は何?」
 女性が言う。
「よせ」
 思い出せないんだ。
「思い出してみない」
 自分探しだなんて、今さら。
「そう、自分なんて探しても仕方ないよね、きっと」
 自分探しは、このところずっと日本を覆っている病のようなもの。それなのに誰も、自分を見つけられていない。自分なんて、それこそ、幻のようなものかもしれない。
 だからあなたにしてほしいのは、と彼女が続ける。「自分探しを、探してほしいの」
「自分探しを、探す」
「そう」
「でもどうして」
「私を」
 女性が言う。その影が薄くなった。「見つけてほしいから」
 最後のログだけを残して、消えた。
「おい」
 呼びかけたけど、もういない。
 ぼくはもういちど「めもあある美術館」を見渡す。しん、とした時間。
 しばらくその光景を見ている。
 ログオフした。
 ぼくは世界を抜けた。そのあとも「めもあある美術館」がそこに存在するのかどうか、ぼくは知らない。

by 小橋昭彦 : 07年06月16日

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小橋昭彦 on 2007年06月25日 16:43

参考書は次の通りです。

瀬名さんの『八月の博物館』はビビッドな作品。ディックの傑作、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』そして、これはもうぼく大好きな映画です、『ブレードランナー 最終版』。原作はディックの別の短編ですが、『トータル・リコール』はまさに記憶テーマの映画でしたね。

マキオのひとり旅』はまだ入手可能、でも大井三重子さん『水曜日のクルト (1976年)』は絶版。

それから、ロフタスの研究については、Kathryn A. Braun, Rhiannon Ellis, Elizabeth F. Loftus(2002)"Make My Memory: How Advertising Can Change Our Memories of the Past"(Psychology&Marketing,Vol.19(1):1-23)をどうぞ。和書では『証言の心理学―記憶を信じる、記憶を疑う』にわかりやすい解説が掲載されています。

sansara on 2007年07月09日 06:37

新タイプの小説でおもしろいです。
それで内容とはちょっと違う話ですが、小説はやっぱり、
縦書きかなあと思ってしまいました。PC世代はそうでも
ないのかも。いやいや、縦書き、横書きもひとつのメディアの
パーツなのでは。「雑学」的には、この論点どうなるのでしょう。

小橋昭彦 on 2007年07月09日 08:57

ありがとうございます!

そうですね、実は、ふだんコラムを書くときは横書きのテキストエディタなのですが、この作品は原稿用紙表示のできるソフトを利用して書いています。

「アフォーダンス」っていう概念がありますね。ドアノブはドアを開けるようにアフォードする、といった利用法。原稿用紙スタイルは、小説を書くようにアフォードしてくれる気がします。

読み手としてはどうでしょうね。

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