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ざつがく・どっと・こむ

ちょっとサイエンスな雑学を人生にひきつけて考えるコラム集

私が<私>であること

 街角でぶつかった拍子に、相手と自分の意識が入れかわったとしよう。あなたはどう感じるだろう。動かそうとして動く身体が「自分」だし、そのように考える脳に「私」がいる。でも、それは昨日までの「自分」でも「私」でもないと考える<私>がきっと別にいることだろう。そんな<私>という意識は、どうして芽生えたのだろう。
 ベンジャミン・リベット博士による有名な実験がある。被験者の脳の運動準備電位を測りながら、動かしたいと思ったときに指を動かしてもらったものだ。常識的には、意図した後で運動信号が生じ、指が動くと考える。ところが結果は逆。運動準備電位は、動かしたいと意図するより0.35秒早く生じていたのだ。意識する前に脳は指を動かしていた。
 それをふまえると、トップアスリートが、百メートル走のスタート時において「走ろう」と意図する前に身体を動かしているというのも、わかる気がする。号砲を聞いて意図してから踏み切っていては、それだけで2、3メートルの差がついてしまう計算だ。
 ただこの実験は、ぼくたちが、自分の身体を意識して動かしていると考えているのは幻想だということを暗示してもいる。身体は無意識のうちに動いていて、「意識」はそれを0.35秒遅れで追認しているだけというのだから。ロボット工学の前野隆司氏はこれらをふまえ、「受動意識仮説」を展開している。意識はトップダウンで自分を支配しているのではなく、受動的に生じると。
 条件反射のように瞬間を生きている生物と、昨日はこれをしたと記憶できる生物では、後者の方が有利だ。こうした記憶は、数々の経験のなかで、昨日と今日の「私」をつないでおいてこそ可能になる。それが<私>という意識だと考える。支配者ではなく、現象をつなぐための<私>。それはある意味、ちっぽけかもしれない。でも、この地球上に何十億通りもの<私>があって、それぞれの瞬間を昨日から今日へ、明日へとつないでいると考えると、きらきらして愛しくもある。

by 小橋昭彦 : 05年12月15日

小橋昭彦 on 2005年12月15日 14:49

本年はこれで最終です。来年からは月2回、15日、30日の更新といたします。というわけで、次回は1月15日に、また<私>とお会いしましょう。

前野隆司氏による「ヒトとロボットの心の研究」及び書籍『脳はなぜ「心」を作ったのか』をご参照ください。『ユーザーイリュージョン』も同じ関心のもとでかかれた書籍です。

縁起空 on 2005年12月15日 16:50

前野隆司氏が言われる「受動意識仮説」というのはとても興味を持ちます.実は今,生命科学の研究者である柳澤桂子さんが般若心経を「科学的に訳された」本と,手記にあたる「いのちの日記」を読んだところです.柳澤さんが仰る様に「空」という概念は「考える心=幻想に過ぎない」ことを意味しますが,正に「意識は受動」とはそれと同根に思われました.

あんぱん on 2005年12月15日 23:06

動かそうと思ったときに働く部分が反応したのではなく、動いたことを認識したときに働く部分が反応し、動かそうと思ったときに働く部分の反応を検知できなかった場合の可能性。

fu-hiro@江戸川橋 on 2005年12月19日 18:00

街角でぶつかった拍子に

相手と自分の意識が入れかわった..

なにか映画のワンシーンの様で興味深いです。

又、拝見させて頂きます。

へむへむ on 2005年12月28日 13:31

私もあんぱんさんのコメントに同意。
動かそうと意図した事を確認する信号が、実際に意図した時点
よりも0.35秒以上遅れて検出されたと考えるのが、私には
素直な考え方と思えます。

tom on 2005年12月30日 17:47

あんぱんさん、へむへむさんに賛成です。
もし意識が追認しているだけだったら、足の動かない人は
足を動かそうという意識を持つ事が出来ないことになりませんか?

tel on 2006年01月13日 11:14

素直な考え方だから正しい、というわけではない、という可能性。

へむへむ on 2006年01月14日 22:50

<素直な考え方が常に正しいとは限らない
確かにその認識は、一面では正しい。しかし、素直な考え方は重要です。
で、今回の「カリフォルニア大リベット博士の実験」に関してはもっと適切な表現に変えましょう。
ポイントは「ある行動を意図した時間」を特定する方法。自分で時計の秒針を記憶しておく、というものだが、かの博士の論説に従えば、それを記憶しようと意図してから実際に記憶するまでにもタイムラグが生じてもよい事になり、結論が矛盾する。
現実に、高速で変化するものの記憶が曖昧になる事は、視覚に限らず聴覚でも確認されているはず。

ga on 2006年02月03日 13:54

「意図する」という複雑な機能が一瞬で実行できるはずがないから、意図しはじめてから完了するまでに時間がかかるのは当然。
その間に並列or先回り処理してる運動準備が先に実行されても別に不思議ではないし、最後に運動の実行を「意図」でstop/goすれば問題は無い。
手を出しかけて止める。なんて経験は誰でもあるでしょ? そのとき「意図」はあるんだか、ないんだか明確ではないですね。

小橋昭彦 on 2006年02月04日 23:59

gaさんの説明がわかりやすいかな。

熱いものにさわったときなど、意図せずに手をひいていますよね。あと、考え事をしていて、どこをどう歩いたか意識していなくても、目的地まで歩いているとか。手元のコーヒーカップを手にするときでさえ、「コーヒーを飲みたい」と願ってはいても、「カップを手にとろう」と意図したかどうか、実はぼくにはよくわからないです。

とりあえず、意識が先か行動が先かって、そんなにこだわる必要はないんじゃないかと思うのです。意識が身体を支配しているって考えるとしんどいし(笑)。受動意識仮説が正しいかどうかはわかりませんが、とりあえず、意識が支配者と考える思いを捨てたらなんだか楽になるし(そのあたりに東洋的な考え方に近いところがある)、その向こうに、意識の本質をつかめそうな漠然とした思いもあります。

なお、リベット氏による新刊『マインド・タイム』が出ています。訳者も一流の心理学者で、注目。読んでから返事を書こうと思っていたんだけど、時間がかかりそうなので、先に投稿しました。

スコップ on 2006年02月24日 10:57

何かを意図したかどうかわからないのは、
意図したことを覚えていない、意図したこと自体を意識していない(無意識)だけかもしれません。
意識と身体の動き、どちらが先にあるにせよ、常にあり続けるものだから、ひとつひとつの意識や行動を覚えるの難しいと思います。

言葉遊びみたいですみません。

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